Part 5:言葉は声を持たない
ソフィアは“書くこと”が、音や声ではなく「未来へ届く祈り」であると気づきはじめる。
彼女は返答のこない読者へ詩を綴る。そして夜、再びナディームの声を聞く。
その声は、記録が“彼女のものではない未来”に向かって動き出していると告げる。
書架を離れたソフィアは、石造りの階段をゆっくりと上がった。
夜の空気は乾いていて、わずかに香草と書物の匂いが混じっていた。
その匂いに包まれていると、世界の重さがほんの少しだけ、軽くなる気がする。
部屋に戻ると、灯をともさず、机の前に座った。
この夜は言葉を“音”にしたくなかった。
彼女のなかで、声は余計だった。
思えば、何ひとつ、声にして伝えたいことなどなかった。
書くという行為は、話すこととは違う。
言葉が声を持っている必要はなかった。
それでも――彼女の書いた記録は、“誰かに”読まれていた。
その誰かは、いま、どこかで彼女を“見て”いた。
応答は静かだった。だが確かにそこにあった。
それは風のように、あるいは影のように、彼女の記憶の上を歩いていた。
筆を取り、巻紙を開く。
この夜は、詩として書く。
それしか、できなかった。
「名を呼ばれぬ者よ
声を持たぬ者よ
私はあなたに手をのばす
だがその手は書かれることしかできない」
「祈りは音を持たず
願いは名を持たず
あなたがそこにいることを
私は書くことでしか証せない」
その筆致は、どこか震えていた。だが、迷いはなかった。
これが返事でなくていい。
読まれなくてもいい。
それでも、書くことはやめられなかった。
夜が深まり、ソフィアは机に突っ伏した。
眠るつもりはなかったのに、筆を握ったまま意識が遠のいていった。
そして――夢のなかに、再びあの影が現れた。
光のない空間。声だけが、かすかに響く。
ナディーム。
姿は見えない。だが、語りかけてくる。
――言葉は声ではない。
――声は風であり、消える。
――だが書かれた言葉は、沈黙の中で息をする。
ソフィアは夢のなかで問いかけた。
「それは私の言葉なの? それとも、読む者の言葉?」
――どちらでもない。
――おまえの書くものは、おまえのものであり、同時におまえのものでなくなる。
――それは読む者の手のなかで変わる。
――だから、祈るように書け。
――命じるようにではなく、残すようにでもなく。
沈黙が訪れた。
彼女は夢の中で、何も言わなかった。
だが心のなかで、一文だけが浮かび、それが夢の闇の中にふわりと沈んでいった。
「声を持たぬ者が、未来を語る」
目覚めたとき、外はまだ夜のままだった。
筆は手の中にあり、巻紙の上には、夢で書いた一行が確かに残されていた。
それはソフィア自身の筆跡だった。
だが――それを自分で書いた記憶は、なかった。
(第2章 完)
これにて第2章「白い回廊にて」全5パートの執筆が完了いたしました。
この章では、記録が「ただの記録」でなくなりつつあること、
読む者の存在が幻想と現実の狭間に現れはじめたこと、
そしてソフィア自身がその変化を受け入れはじめた段階が描かれました。




