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はじめて。
紫陽花が玄関先で顔をみせるようになった頃、季節には早い線香花火を見た。
様を変えたガラス細工の世界。曇りガラスを外して霞んだ視界の中、黄色い凸凹の感触を頼りに歩く私を止めた、ご機嫌に揺らめく火の玉の下だった。
いやに近い星空を他所に、ぼうっと覗く。髪が垂れる。
綺麗だった。パチパチと、激しく揺らぐ鏡面。けれど消えない。暖かさも、煙たさも無く、濡れた雑巾みたいな匂いしかよこさない。まるで花火じゃない。あれは人魂だ。青いと聞いていたのは嘘だったのだろう。なにせ、こんなにも赤い。
たしか、いつの冬だったか、ガスストーブの前にしばらく足を放り出していたことがある。暖かくて、熱くて、冷たくて。放り出す前の足はどうだったか。思い出した。ただ熱があったのだ。あの日のように雪は降っていないけれど、張り付く布は、瞼と同じでずっと重い。
ざあざあ。
バラバラ。
青くはないけれど、目を離せない。離さない。冷たいというのは本当で、ずっと少し先の所にいる。暗い穴の中で、消えずにいる。
そろそろ少し髪を切ろうか。この間、親にそう言われたことを思い出す。人の目というのは便利なようで、少し簾になった程度で見えなくなるということはない。いつもはずっとしているマスクは、有っても無くてもあまり変わらないけれど、気持ち無い方が楽だということでリュックのポケットの中だ。
鼻先の髪を揺らす鋼鉄の箱。たまに派手な音を鳴らして、大きいものはたまに歌う。それが妙に頭に残って、右の瞼を痙攣させる。鼻に残る濡れた煙。つま先は穴の端に触れている。
初めて竹を近くで見たとき、細い細いとは思っていたけれど、こうまで細いとは思わなかったと、感想としては少し素直に過ぎることを口から漏らしていた。それから少しして、盆の時期。そこで見た竹は、初めて見たものとは違って、太く、長く、青々としていた。子孫繁栄どうのこうのと聞く竹だが、実際、あまり好まれていないことも知った。どこにでも生えるからと。改めて見た竹は、それでもやはり、高い背丈の割に頼りない細さだった。
骨の隙間にまとわりつく重さを感じながら、膝を折る。少し近くで見る線香花火は、いつもとは正反対のはずなのに、見慣れた距離にいる。つまんではいないけれど、揺れることはないから火は続く。
火に触れようとしたことがある。小さい頃から火は熱くて、ずっとゆらゆらしていた。空気のようで空気でない。気付けば、それは物なのかと気になったのだ。だが、触れることはなかった。手を伸ばすこともなかった。熱かったから。いつもスープの熱さに気付かずに口に入れて、びっくりして腹にこぼしていたから、火傷が怖かったのだ。熱いことが痛いことだと知っていたから。
幸いなことに周りの人たちは手元の板にご熱心で、怒られることはない。そういえば、火に触りたかったのだと手をついて、伸ばす。ボツボツと雫が頭を叩く。
ラムネを飲むとき、いつもくびれの部分にいるB玉をどう取ろうかと考えていた。瓶は綺麗なままで欲しいから、結局開けることはなく、洗って、何本かを窓のそばに置いていた。日が登ったとき、照らされた瓶は波のような模様をフローリングの床に落とす。畳でないことが少し残念で、けれど、この影がある時間を愛していることも確かだった。
少しの抵抗があって、花火に触れた。冷たい水の中、火を掴んだ。
そうして、火は消えた。
笛のような音がした気がする。濡れたガラスを擦ったような音がしたような気もする。布団に飛び込んだときよりは強く当たった。スーパーボールのようにはいかなくて、そう何度も跳ねることはなかったけれど、きっと人生で一番の記録を出せていたように思う。「家にあるスーパーボールも、透明で、中にラメが入っていて、目の前を跳ねる水みたいにキラキラしていて綺麗だったなぁ」だなんて考えていたら、卵を割るような音を最後に、視界は真っ黒に染まった。
そういえば、割と最近になって知った話だったのだけれど、ラムネ瓶の中に入っている玉はB玉ではなくて、A玉というそうな。なんでも、B玉というのは綺麗な球体ではなく、ラムネ瓶の中のラムネを溢さないように蓋をするということが出来ない、いわゆるA玉の出来損ないらしい。普段触れるのはB玉ばかりで、Bの意味など考えたことがなかったから、知ったときはびっくりした。けれど、たまに思うのだ。Aよりもaの方が丸っこくて可愛らしいと。何よりも、丸に似合っているのだと。
高速道路の足元を通る一般道路脇の歩道。昼にはネズミが横切り、息をすれば喉をくすぐる。どこまでもありふれた光景。歩くのならサンダルはお勧めしない。梅雨が明けて普段の様子を取り戻したそこは、やはり変わらずにひび割れた舌を晒していた。
一幕。




