夢の時間
ある夜、女は夢を見た。自分が高校生になり、恋人であるクラスメイトの男と一緒に下校をする夢だ。夢の中では女は高校生の記憶を持ち、恋人の男のこともちゃんと好きだった。二人でジュースを買い、公園のベンチに座って談笑していると、突然散歩中の犬に吠えられ、驚いた勢いでジュースをスカートにこぼしてしまった。飼い主の年配の男性は申し訳なさそうに謝りながら吠え続ける犬をなだめている。恋人は男性と犬を非難するような目で見ている。
「そんなに睨まなくてもいいじゃない。悪気があってしたことじゃないんだから」
恋人に声をかけた時、目が覚めた。
次の日の夜、また女は夢を見た。昨日と同じ、高校生になる夢だ。昨日と違うことは、昨日の夢の中にいた恋人の男に自分がなっているということだ。男の人生の記憶をもち、隣で笑って歩く女にもちゃんと恋をしていた。シナリオをなぞるように、二人はジュースを買い、公園のベンチに腰かけて談笑をする。その時、突然、犬に吠えられた。昨日と同じ犬、同じ年配の男性だ。自分に起こっていることの不可解さに戸惑い、ジュースをこぼした彼女を気遣うこともできず、犬と男を見るしかできなかった。
「そんなに睨まなくてもいいじゃない。悪気があってしたことじゃないんだから」
恋人に声をかけられた時、目を覚ました。
次の日の夜も、女は夢を見た。今回は高校生ではない。視線がとても低いのだ。排水溝は大きな川のように見え、自販機の下に落ちている百円玉まで見える。辺りを見回していると、頭上から男の声が聞こえた。顔を上げると、昨日までの夢の中で見た年配の男性がそこにいた。何を言っているかはわからないが、優しい言葉をかけているということは分かった。自分には犬の記憶もあり、いつもの散歩コースを歩き続ける。お気に入りの公園に入ると、ベンチに座った二人の高校生が見えた。恋人同士に見える二人はジュースを飲んでいる。近くを通る時、二人に対して強い不安と嫌悪感を抱き、吠えずにはいられなかった。自分のことを怯えるように見ている男に対して、女は何か言っている。言葉はわからないが、きっとこう言っているのだろう。
「そんなに睨まなくてもいいじゃない。悪気があってしたことじゃないんだから」
女は目を覚ました。
次の日の夜、女は夢を見た。女は少し予想していた。今日は犬の飼い主である年配の男性になるんだろう。その勘は的中し、女は犬の散歩をしていた。亡き妻や子ども達、孫の記憶もある。元気にあたりを見回しながら尻尾を振る飼い犬の名前を呼び、「今日は元気だな」などと声をかける。そして、いつもの公園へ入り、犬はベンチにいる高校生の二人に吠え、女はジュースをこぼして男は戸惑い、犬は吠え続ける。二人に謝りながら犬をなだめていると、女が言う。
「そんなに睨まなくてもいいじゃない。悪気があってしたことじゃないんだから」
女は目を覚ました。そのはずだった。
「……それから夢が覚めないのです。信じてもらえないでしょうけど、本当なんです。私は学校の教師をしていました。英語の教師です。それなのに、突然お爺さんになってしまったんです。お爺さんの記憶はあるので、子ども達や孫に会えると嬉しいですし、犬の世話も、奥様の仏壇にも毎日手を合わせています。今の生活に慣れつつあります。でも、本当の私はどこへ行ってしまったのでしょう。私はもう、私には戻れないのでしょうか」
黙って聴いていた医者は、何度か小さく頷くと優しく言った。
「記憶障害の可能性があります。脳神経内科を受診しましょう」
はっきりと、大きくゆっくり伝えた医者の言葉も、女には遠くぼんやりとした声にしか聞こえなかった。
看護師に連れられ、女は次の診察室へと向かっていく。