宵山
これが仁科の講義が上級生に人気がある理由なのかもしれない。単位が取れないリベンジとして受けているのではない。一年生のように迷い込んだのでもない。いや。むしろ上級生はみずから考えなければ生き残れない森に迷い込もうとしているのだ。これは仁科がエッシャーのように意識的に創造したのかもしれない。
雨なのに眩しい。
傘を差すと、
「入れて」
と無精髭の上級生が入ってきた。途中の食堂まで行くからと言うので、特に好ましくはないけど背の高い彼と一緒に歩いた。
「西洋画?僕は彫刻。仏師になろうかなと思うてるねん。なつせさん。仁科っちと話してたの聞いてしもたから。ごめんな」
「構いませんけど」
「何を描きたいん?」
「油絵、水彩、パステルのどれか」
「まあ、まだ一年生やもんな。何を描きたいのかなんて考えてないか」
「課題を描いてるくらいですね」
「一緒にランチどう?袖触れ合うも何かの縁でんがなまんがな」
妙な関西弁だ。
「割り勘なら」
どうせ食堂で早いランチを食べるので付き合うことにした。夏瀬はピラフにした。無精髭の彼は冷凍塗れのミックスフライ定食を食べながら村松と教えてくれた。
「仏師ですか」
「そう。だから京都に来た。東京かどうか迷ったんだけどね」
「どこですか?」
「仙台。京都の冬はたまらないし、夏はくそ暑いしなんだけど五年もいる」
「仏師は運慶とか快慶とか?」
「慶派は好きではないかな。白鳳文化くらいのが好きでね。べただけど阿修羅像とか」
「どこのですか?」
「さすが関西でんがな。興福寺だよ」
「修復するとか」
「仏師だから、もちろん修復もする。でも新しい仏様を彫ろうと思ってる」
「でも西洋美術史ですか」
「仁科っちね。去年と一昨年から講義聴いてるんだけど、このまんま避けて通れないんじゃないかとね。去年は単位はくれなかった」
「難しんですか」
「一年が選択する科目ではないね。一年にも容赦ない。僕は暴悪大笑面の答えがわからんから仁科っちの講義を受けてるようなもんよ」
「ぼ、ぼう……?」
夏瀬はピラフを集めた。
「ぼうあくだいしょうめん。十一面観音様の後ろの顔だね」
「十一面て十一も顔があるんですか」
「もっとある観音様もある。しかしまあへこんだよ。暴悪大笑面なんてものの前に『泥』を彫れるかと言われた。ごちそうさまでした」
彼が手を合わせるので「仏師」になる修行のように思えて内心で笑った。
「今回は『薔薇色の人生』なんてべたな話をしてくれたけど、次は怖いな」
「何ですか」
「今年はフランスの美術史なのかな」
「え?全部しないんですか?」
「できるわけない。中高校みたいに通して教える義務もないし。今年はフランスアカデミズムと印象派をするのではと踏んでる」
「ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチとかしないんですか」
「西洋画の奴に聞いてみるけど」
たかが美術史なのだし、彼らのことを聴かなくても絵は描けるようになる。ただ知識としてはある方がいいと考えることにした。
仁科の講義では誰が問いかけたかはわからないようにできる。コロナ禍の初期でのシステムの構築において、仁科が匿名性を訴えたことが大きいとの話もどこかから聞いた。意外に影響力がある仁科っち。
「仁科っちは匿名性にこだわる。立場の弱い者が自由に表現するとき必要らしい。でもそれじゃネット世界みたいに好き放題の目茶苦茶にならないと思わない?」
「なると思う」高村は答えた。「革命が起きたときに本当の自由が手に入るとか」
「革命?」
高村は特に夏瀬にでもなく問い返した。二人はたまにというか、よくこうしてショッピングモールのスターバックスで話している。特に京都で話すことでもない。同じ町内だし。
「革命かあ」
高村は手術の跡を隠すように鼻の下に肌色のテープを貼っていた。別に隠しているわけではなくて、保護のために貼らなければならないのだと教えてくれた。手術後会ったとき、ほとんど変化がないことに唖然とした。細かなところなど見ていない自分に気づかされた。本人が思うほど他人は見ていないということだが、もちろん高村には話していない。
「ネットで革命なんて起きるん?」
「誰かが起こすんやない?」
二人で一緒に帰ることにした。七月に祇園祭があるので、宵山を一緒に見ようという話をした。実は祇園祭は七月中何かしらしている長い祭りだ。フィナーレが有名だった。装飾がされた有名な鉾なども見られるので、夏瀬は実際に見てみたいと考えていた。そこには西洋から海を渡ってきたタペストリーがあるらしい。
京都では寺社巡りもした。
たいてい高村を誘った。
関西では馴染みのある通し矢で有名な三十三間堂の一〇〇一体の観音様は壮観だ。ところどころが空席で東京博物館へ出張している立て札が置かせれているのも何だかおかしい。
「これが風神雷神だね」
絵で見たことのある風神雷神が観音様の前のところに控えている。意外に小さいが、家に持って帰れば置き場に困るのではと話した。
「やかましそうやな」
というのが高村の感想だ。これだけの千手観音がいればやかましい気もする。
「仏師になろうとしてる先輩がおるねん」
「運慶とか?」
「もっと小さいの?」
「仏様を彫るんかあ。難しいことするねんな」
「ようわからん人やねん。いつも無精髭はやしてるんやけどね。見た目は仏師」
「偏見や」と高村。「あ、あそこのなっちゃんに似てない?」
高村は観音様の一体を指差した。似ているかなと答えたが、何となく不満が残る。夏瀬も高村に似ていそうな観音様を探した。もはや参拝ではない。外国人も多い中、目を凝らして下段から上段まで三十三間堂を行き来した。
「いた」
ど真ん中にいた。思わず大声を出してしまったのでコソコソと高村へ近づいた。
「似てるかなあ」
「似てるやん。この顎のラインとか」
「マスクしてるのに」
「でもイメージはある」夏瀬は流れでデッサンのモデルを頼んだ。「マジで頼んでる」
心臓が潰されそうに軋んだ。
高村は黙ると、
「少し考えたい」
と答えた。
仁科が講義の準備をして、モニタを付けると文字が流れてきた。
「前回の講義の薔薇色の答えについて尋ねてもよろしいですか」
仁科はマイクで「どうぞ」と答えた。
「昔の日本人は薔薇を見たことがあるかどうか聞きたいんですが。平安時代に庚申薔薇と長春花というものが出てきました」
「薔薇は自生してたよ。どこかの君の言うのは鑑賞用としての薔薇の話でええんかな」
「はい。水墨画や日本画で見つけられませんでした。日本人は描けないのでは。色など」
「写真してる人はおる?」
「マゼンタ」と誰か。「薔薇」
「日本に絵はある?」と仁科が促した。
「春日権現験記絵、鎌倉中頃」続けざまに打ち込まれた。「伊藤若冲、江戸の中頃ピンク」
「庚申薔薇。中国からのものやね。前栽として描かれてる。鑑賞目的やと考えられてる。ちなみに『そうび』と呼ばれてたみたいやね」
夏瀬はまったく着いていけないまま流れる画面を見ていた。高校までラインやインスタやチャットを使いこなしていたことなのに、速度でも知識でも遅れているような気になる。
「春日権現験記絵はネットにあるのか」
仁科はモニタを見ながら椅子に腰を掛けてピンマイクを手にしていた。
「見た人は挙手して。載せんように。僕の給料で著作権は払えん。見れん人は隣にヘルプしてもろて。君たちには何色に見えるやろうか」
『紅』という字が並んだ。
薔薇のくせに『紅』とは。
夏瀬は必死に「紅に見える。実際は色を重ねることで表現してるのかも」と打ち込んだ。
「塗料を分析したいね。日本もどこもなかなかせんよね。あんな宇宙の砂でいろんなことわかるのになあ」と続けた。「ちなみに僕は芸術は単体では存在できんと思う。常に何かと重ねるのか重なる必要がある。社会や政治、貧困や戦争、誰かと誰かの人生」
スマホの画面が「たかむら」と光る。
『モデルになる』
「人も同じでは?」と夏瀬は打ち込んだ。
「そや。今の答えはロマンティストやな」
「では単位ください」と夏瀬。
教室が笑いに包まれた。
「今年の君たちの答案は楽しみや」
仁科は夏瀬を見ながら立つと、
「ではここまででええかな。今日は西洋画のバロックへの変遷について講義する。なぜ変わったか、変わろうとしたか、変わらざるをえなかったかを中心に話そうと思う」
夏瀬はスケッチブックを持って教授棟の仁科の部屋を訪ねた。仁科はソファで数人の院生と話していた。夏瀬を認めると、院生をほったらかしにしてデスクの前に勧めた。
「描きました」
高村を見せた。仁科は数枚を見ながらうれしそうに答えた。
「お互い凄いね。《《友人》》は何か目指してるの?」
「教師になるそうです」
「人前に立つのか。先生は考古学で土掘って暮らそうとした。でも論文の『美術における非破壊検査の限界』でボロカス叩かれた」
「あの当時に非破壊検査の未来を否定するからです」院生の一人がお茶を入れてきた。「夢しかない時代ですよ。現に今も。たくさんの発見があるんですよ」と彼女は笑った。
「論文は考え終えた後の文字列や。何で他人のためにわざわざなぞらなあかんねん。しかもやかましい。これは作品にするんか」
「はい。本人の許可も得ました」
「薔薇色とは?」
「宵山で見つけます」