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マスク

 夏瀬美香は芸大で油絵を描いている。

 実技試験、小論文、面接と共通テストの合計で決定するはずが、推薦で決定した。いささか推薦組としての申し訳なさもあるが「生まれてすぐに推薦されたんならいろいろ詮索されてもしようがない。十八年生きてきての推薦なんだからね」と今では幼馴染みの言葉を腹の底に置いている。言わないけど。受験対策として予備校が出してくる今年のデッサンの合格基準など気にしながら練習していたが、対策は特に意味なくコロナ禍の終わる頃に入学した。

 昔から描くことが好きで、小学生になる前に家で描いた両親の似顔絵や猫、犬、近くの氏神や狛犬を褒められた。小学生になるとコンクールで入選は当然で、芸大の元教授がしている少し遠くの絵画教室に通い、十歳を過ぎてすでにデッサンが抜群にうまく、中学生ではあらゆる技法を駆使して水彩、油絵、アクリルを描く経験をした。地元の中高一貫に入ると、ただ油絵を描き続けていた。

 でも幼なじみで、ずっと仲良しの異性の絵が描けなかった。デッサンは途中まで自室で描くことができるが、どうしても筆が止まる。

 彼は口唇口蓋裂だ。

 誰のために何のために描くのか?

 デッサンはベッドの下にある。途中でやめたものや描ききったが納得できないものも含めると俗に言われる捨てるほどある。

 描く意味を考え始めた。

 高校では楽しいからでは済まない。

 入選して当然。

 コロナ禍での高校生活は楽しかったかと問われると、そうでもないようでいて比べるものもないので、こんなものかと受け入れて暮らしていた。よく言われてイライラしているのは「コロナ禍で大変」や「不景気でかわいそう」と昔と比べられることだ。昔のことは知らないので、今が基準の若者に妙なことを植え付けないでとムカムカしていた。ただ大学生活はコロナ禍の収束とともに華やかさが見えてきた。

 相変わらず世間ではマスクをしているし、物価は上がるのが夏瀬世代でもわかるようになってきたし、欧州での戦争は終わらないし、ネットから現実社会の分断が叫ばれていた。

 でも空は空、光は光、風は風だ。

 早くスケッチ旅行に行けないのか。

 スターバックスでラテを買っているときスマホが震えた。

 たかむらと出た。これまで彼には連絡しそこねていた。いつも姿は見かけるが。合格するまでと合否を尋ねていいのかを考えすぎていた。

『合格したよ。描いてる?』

「マジで?京都?」

『追いかけた』

「ほんまに教師になるん?」

『今んところはね』

「通いやんね?」

 買いたてのスターバックスから外に出て電話をかけてみたが、速攻で着信拒否された。

『ごめん。形成手術で入院してる。今んところ口を縫われて喋られへん(笑)』

「ごめん。キレイになるん?」

『本人次第やな。どこまでするか。保険も利くしなんやけど。また連絡してええかな』

「こっちこそ。お見舞い行くわ」

『面会ムリやねん。コロナで』

「あ、そうか。ラインするし。何時頃がええんか教えて」

『入院も三週間くらいかな。後二週間やから騒ぐほどでもないよ。今から検診や』

 ラインが途絶えた。

 夏瀬はマスクの下で笑っていた。追いかけてきたなんて、本気にするやん。そんな自分に苦笑した。


 入学してから、GWが過ぎた頃、ようやく一緒に通学し始めた。どちらともなく遠慮がちに近づいて話すようになると、低学年の様子でストップしていた高村は大人びていた。

「高校はどう?」

「みんな陽キャやな」

「意外にガリ勉おらんやろ」

「おらん。埋もれるわ」

「埋もれんわ。たかちゃんはポジティブシンキングやと思うで。絶対にネガティブではない」

「強くなければ生きていけない」

 高村はマスクを調整した。そこには手術をしたキズがある。人は生まれる前に顎と唇が上下ともに二分割していて、生まれるまでに左右がくっつくらしいのだが、何かの影響でくっつかないまま生まれてくる。唇がくっつかないままなら唇外裂、顎までくっつかない場合は口唇口蓋裂と診断される。もちろん軽重の差はあるが見た目も通常ではないし、下手をすれば言語障害や他の障害も出てくる。高村の場合、生後三ヶ月で手術をして、後に言語障害のリハビリ、子どもの間は歯列矯正、そして見た目からの好奇心で差別と一人で耐えた。高校卒業後、ある程度成長が止まるのを見計らい手術をしたということだ。歯列矯正も美容目的ではなく見たことのないヘッドギアを頭にかぶって下顎を前に出すことをしていた。小学生低学年までは遊んでいたが、高学年、中学生になる頃には挨拶しかしてくれなくなった。一緒に学校に行ける距離なのに。夏瀬が中高一貫に入ると余計に距離が離れたが、誰も知らない学校へ行きたいということで、夏瀬の通う高校の部に編入してきた。よく入れたものだという高い偏差値を誇るのだが、もともと賢いのか変化を求めて必死でやったのか。凄いねと言うと、

「高校に入るまでに手術して、少しはマシな顔で新しい生活が始まると思うててん。そやけど計画は失敗や。コロナもそうやけど、そもそも成長期に手術するリスクがある言われた」

 高村は夏瀬の隣でつり革も持たずに腕を組んでいた。どんな体幹しているんだ。こんなに揺れる列車でずっと堪えていた。

「まだ普通に校区の高校へ上がるくらいでよかったんやないかな。他から来た中学で笑う奴もいたけど慣れた奴もおるし。今の僕はマスクがアイデンティティや」

「せっかく勉強して入学したのにそんなこと言わんでもええやん」

「なっちゃんも僕と話してたらいろいろ聞かれるやろう。迷惑かけたくないから話しかけんとこう思うてたんやけど話しかけてしもた」

「迷惑なんて思うてへんわ。まさか高校で合流するとは思うてないなあて驚いた」

「おばちゃんに言われたわ」

「お母さんに?また余計なこと」

「そうでもない」

「絵がうまいからというて、こんな進路選んでしもた後悔もあるねん。そやけどたかちゃんが来てくれたからうれしいわ。教室は違うけど」

「毎日制服見てたからな」

「まさかわたしの制服見て来たん?」

「変態やないわ。でも高校受験のモチベではあったな。何となくそっちへ行けば新しい世界がある思うてん。もちろん一緒に通おうなんて思うてへんだ。夢みたいやわ」


 高村はスマホでパズルゲームをしている背広姿の男性の頭越しに窓を見ていた。たまに見えるスマホ画面にはアニメらしいキャラが出ていたが、何か嫌なことでもあるのかスキップしてすぐ次のステージに移るを繰り返していた。

 たまに夏瀬は高村の言うことが、どこまで本気かどうかわからない。一緒に通えてうれしいというのは、単なる社交辞令なのか心の底から思ってくれているのか。友だちとしてか異性としてか。異性としてなわけはないかなと。

「ありがとう」

 夏瀬は火照る顔を俯いた。

「僕は絵も描けんし何も創れんからな。できることと言えば与えられた問題解くくらい。できん問題は解き方を覚えて合格した」

「わたしは与えられた問題解けんけど。たぶんやけど絵で合格したようなもんや」

「一芸は身を救うねん。なっちゃんの絵のうまさは昔から有名やん。僕も絵画教室通いたい言うたんやけど、秒で却下されたわ」

「何で通いたいと?」

「いつも楽しそうにしてた」

「楽しいのは小学生までやん。中学生からはいろんなもん求められるんよ。ライバルもいて楽しいことないわ。学校から求められるんや」

「求められるのはええことやん。僕ら数学や英語は求められんで」

「絵やないねん。賞を求められる。わたしの絵なんて観てないねん。何とか賞入選とか観てる。絵画教室のコネで入選もある」

「小学生のとき市の賞に入選したな。画用紙に紙貼る版画みたいなもん」

「紙版画や。木版画の前に習う」

「誰かのマネしたんや。そしたら入選したから大人はちょろいな思うたな。見抜けん」

「悪いなあ」と笑った。

「贋作も見抜けん奴が悪いと思うわ」

「悪意あれば見抜けんで」

「悪意も怖いけど無邪気な無知も怖い」

「どういうこと?」

 突然学校がオンライン授業になった後も含めてほぼ毎日話した。たぶん小学低学年から話し忘れたことを取り戻そうとしていたのかもしれない。彼はマスクの生活が辛い話もした。

「マスク外したときが怖いねん。なっちゃんは僕のこと知ってるやろ。顔のこと」

「うん……」

「でも他のみんなは知らんからな」

「ずっとコロナが続けばええと思う?」

「まさか。こんな生活はいらん。でも隠してしもうたら見せるときつらい。人は見た目やない言うけど、ほんまにそうなんやろうか」

「たかちゃんはどう思うん?」

 夏瀬は高村がいつもこんなことを考えているとは思えないし、誰からともなく話していることはないのは理解していた。彼の心に刻み込まれた傷が深いからこそ!普段は封じ込めようとしていても生々しく浮かんできて化膿するかのように膿がこぼれ落ちてくる。この悪臭に耐えているねは他の誰でもない彼自身だ。

「見た目がすべてとは言わんけど、ほとんどが見た目やろ」

「わたしは自信やと思う。容姿端麗でも整形し続ける人もおるやん。インスタでもティックトックでも出てくる。絵画でも盛る」

「盛る?」

「肖像画とかあるやん。あれはちょっと美人に描くんよ」

「何でちょっとやねん」

「本人も気づくくらいはバレるやん」

「昔から加工もあるんか」

「あるある。ナポレオンの絵あるやん。有名なところでは馬で冬の峠を越えてるやつ。観たらわかるわ。これこれ」

 夏瀬はスマホで見せた。どこにでもある馬にまたがるナポレオンの絵だ。誰しもナポレオンといえば思いつくはずだ。

「かっこええやん」

「ロバで越えたんやで」

「馬やないんか。ちょっとショックや。ロバで越えたなんて絵にならんな」

「ロバで越えてる絵もあるんやけどね」

「逆によう描いたな。暇やったんかな」

「そうかな?」

 高村の感想に夏瀬は笑った。確かにロバでシェルパに導かれて地味に峠を越えるナポレオンを描くなんて画家の得にはならない。


 夏瀬は西洋美術史を選択していた。

 准教授の仁科が尋ねた。小さな講義室の角と角には家電量販店でしか見たことのないモニタが置かれていた。そしてライブの講義なのに各自パソコンを持参するように指示された。

 高村は、

「聞いたことないな」

 と答えた。高村の通う大学ではスマホは持ち込んでもいいが、電源は落としておくようにということが多いらしい。たまにベルが鳴ると講義は中断して、嫌な空気になるとのことだ。

 西洋美術史を選択したのは失敗だったのかもしれない。もっと楽に単位が取れると考えていたのだが、求められるものが深い。下手をすれば実技以上に「実技」を問われるのではないかと思えた。そして受講者の上級生たちは仁科に挑んでいるのかと思える眼光をしていた。

「パソコンは楽やな。これまでは鞄に入れて持ってきたもんや。でも欠点もある。いくらモニタがでかくてもライブには勝てんわ」

 鞄から二枚の油絵を出してきた。どちらも花瓶に挿された一本の薔薇を描いたもので、サイズは手首から肘に乗るくらいだから小さい。

「薔薇色の人生というわな。エディット・ピアフの歌『ラ・ヴィ・アン・ローズ』てのが有名なんやけど。どちらの色を思い浮かべる」

 左は春を思わせるピンクに近く、右は夜の街の唇を思わせる真紅に近い。夏瀬はピンクに近い方かなと考えていると、仁科がアンケート取るからピンクに近い薔薇を示した。

「これの人は挙手」

 五十人のほとんどが手を挙げた。真紅の方が薔薇らしいのだが、薔薇色の人生と言われるとピンクの方を選ぶことになる。同じことを仁科は話した。映画やドラマでプレゼントに使われる薔薇は真紅が多いのに、夏瀬たちが選んだのはピンク系だ。他にもあるはずだが。

「薔薇で思い出すのは何や?」仁科はパソコンの画面を覗いた。「匿名のコメントで」

 バレンタイン

 シャンソン

 ヴィーナスの誕生

 ナポレオン

 ドラクロワ

 ヘンリー六世

 腕時計

 ミッシェル

「ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』に春の象徴として薔薇が出てくる。色は?」

「しろ」と夏瀬が打ち込んだ。

「そうやな。実際に真紅の薔薇が西洋に出てくるのは十八世紀末くらい。中国からもたらされた。それまでは西洋には白か濃いピンクくらいしかない。もし十八世紀の前の絵に真紅の薔薇が描かれてることはないんやな。では十五世紀に行われた薔薇戦争のランカスターの赤薔薇とは何ぞやということ。では終わるか」

 チャイムが鳴ると、仁科はマスクを外して卓上のペットボトルの水を口に含んだ。夏瀬はジッと彼の唇を見ていると、仁科が気づいた。

「気になるか」

「あ、いいえ」

「僕は口唇口蓋裂という障害で生まれてきたんや。今では医療も進んでるわ。僕の前の世代は手術すらできんまま暮らしてた」

「友人にいるんで」

「君の所属と名前は?」

「西洋画学科の夏瀬です」

「夏瀬さんは友人の顔を描けるか?」

 仁科はマスクを上げると、目尻にやわらかなシワを寄せて夏瀬の答えを待っていた。

 夏瀬は目を伏せた。

「嫌なこと聞いてしもたな。悪い。お詫びにおっさんの呟きを聞かせたるわ」

「はい」夏瀬は苦笑した。

「芸術は何も考えんとできるもんやない。君は不幸を背負いながら幸せを配れるか。描くことで己を見て、お互い見ることもある」

「美術という言葉はおかしくないですか」

「美を突き詰めるということは醜と対峙せんといかんということやろうな。西周に聞いてくれとしか言えんな。芸術とは共通集合か和集合か補集合か。美醜、清濁はどうやろうな」

 仁科がノートパソコンを閉じると、モニタは黒い画面に変化し、講義室の光が一段も二段も落ちた。

「誰が決めるんですか?」

「夏瀬さんたちが決める。君たち創作者に委ねられたものはたくさんある。僕はそんなたくさんのうちのいくつかを紹介しているにすぎん」

 他にも無精髭の上級生が話しかけたそうにしていたので、夏瀬は礼をして机の上のノートやパソコンを片付けた。耳に聞こえてくることは蓮と泥のことだが、重い気持ちを引きずるようにして廊下に出た。たった九十分の講義のラストの終わる数分で頭を打ちのめされた。

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