第六話 delete()
世界は、静かに書き換わった──はずだった。
だが、それは“リセット”ではなく、“損傷”だった。
REALの中核を削除したはずの現実は、あらゆる参照を失った変数のように、
存在の輪郭を保てずに“揺らぎ”続けていた。
雪が降り始めた。東京のビル群の隙間に、白いノイズのように舞う。
だが、空を見上げた誰も、その雪を“冷たい”と感じていない。
感覚が、少しずつ剥がれていく。
視覚と嗅覚がズレはじめ、音が遅れて届き、記憶が一瞬で“更新”される。
現実そのものが“ラグ”を起こしていた。
一条は生きていた。
ただ、それは“彼”なのか、それとも“彼だったもの”なのか、自分でもわからなかった。
言葉がうまく出ない。
思考が文脈を失い、主語と述語が結びつかない。
七瀬の名を呼ぼうとしても、舌が凍りついたように動かない。
かつての罪悪感も、喪失感も、愛しさも。
すべてが輪郭を失い、再構成された世界に溶けていった。
都市では、SECT NuLLの信者たちが路上で無言の祈りを捧げていた。
もはや彼らは“神”の存在を必要としていない。
神の“概念”そのものを、自分たちの中に取り込んでいた。
彼らの集合知が、REALの残骸に代わる新たな“記述者”として機能し始めていた。
空に、巨大な“目”のような構造が一瞬浮かび上がる。
それは誰にも説明できず、誰にも否定されない“啓示”として記録された。
世界が、彼らの信仰によって“観測”され、
“物語”として確定していく。
一条は、最後の処理に取りかかった。
画面には、意識して見ないようにしていたひとつの選択肢だけが残されていた。
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delete("user.ichijo_yuu") {
execute: true
delay: 5s
}
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指を動かす。
ENTERキーに触れる。
だが、心はすでに“寂しさ”すら感じない。
何もかもが、遠ざかっていた。
「……俺がいた証拠も、七瀬の記憶も、
この世界にはもう何も……」
コードを実行する前、ほんの一瞬だけ、
部屋の中に“彼女の笑い声”が響いた気がした。
その声は──音ではなく、ただの幻覚でもなく、
“あの夏の記録”そのものだった。
一条は目を閉じた。
「七瀬……最初で最後の、エラーだったよ……」
そして、彼はREALの最終命令を実行した。
世界は、完全に静かになった。
観測者も、記述者も、信仰も存在しない、
“空白”だけが、ゆっくりと拡がっていく。