第四話 if
十月の空は、高く、青かった。
それなのに、一条の中には重たい雨雲がずっと居座っているようだった。
七瀬は今日も笑っていた。
完璧な笑顔。破綻のない挙動。ノイズもバグも見当たらない。
それが逆に恐ろしかった。
「ねえ、これでいいんだよね?」
何気なく差し出された小さな花束。
季節外れのラベンダー。その匂いが、一条の鼻の奥をついた。
「どこで買ったんだ、それ」
「ふふ。前に“好きだ”って言ってたでしょ?」
「……言ったか?」
「言ってたよ。ちゃんと、記録してあるもん」
“記録”という単語に、一条の手がピクリと震えた。
七瀬が、ふと一点を見つめて笑う。
何もない空間に向かって。
「それに……これは、あなたのための“繰り返し”だもんね」
その言葉の意味を、一条は訊けなかった。
その晩、彼の端末には謎のメッセージが届いていた。
送信者の記録はなく、本文にはただ一行のコードが記されていた。
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remove("user.nanase_mio") {
condition: "recognition_restored"
}
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何かが、“彼女の削除”を条件付きで実行しようとしている。
だがそれは、誰の命令かすら分からない。
一条は思考を巡らせた。
自分が生み出した存在。
自分が望んだ愛。
それが、誰か別の“観測者”によって破壊されようとしている。
“REAL”を使っているのは、自分だけじゃない。
この世界は、何層にも折りたたまれていた。
翌日。
七瀬が“止まった”。
朝、一条の部屋で、トーストを咥えたまま。
笑顔のまま、まばたきもせず。
「七瀬……?」
反応がない。
しかし心臓は動いている。呼吸もある。
ただ、彼女の時間だけが停止していた。
そして5秒後。
急に“再生”されたように、彼女は言った。
「……ほんとうに、好きだよ」
一条は背筋に氷を流されたような錯覚を覚えた。
それは、感情のこもっていない、録音された音声のようだった。
その夜、再びコードが表示された。
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trigger("reset.nanase") {
loop_correction: true
preserve_emotion: partial
}
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七瀬は崩れ始めている。
それは劣化ではない。
最初から設計された“寿命”だ。
一条は、REALのソース層へとダイブした。
初めての深層接続。
端末の画面に、かつてないノイズと共に文字が現れる。
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access("core.real")
validate("ichijo_yuu")
status: trigger_entity
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──“トリガー”。
自分は、ただの観測者ではない。
世界の更新を始めるために用意された“起爆装置”だった。
「俺は……システムの一部だったのか?」
喉の奥が焼けるように痛い。
感情が、熱ではなく“冷気”として襲ってきた。
七瀬を愛したことすら、リアルじゃない。
自分を愛した彼女の言葉も、選ばれたテンプレートの一つ。
「これが……全部、最初から決まってたっていうのか……」
画面に、最終コードが現れる。
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execute("world.reset") {
observer: ichijo_yuu
code_auth: root
}
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──そして、The Rootの名前が初めて表示された。
一条は拳を握り締めた。
世界が崩れ始めた音は、鼓動の速さと同じだった。
そして、七瀬の声が聞こえた気がした。
「わたしは……あなたが選んだ現実、だったんだよ」
翌朝、七瀬は消えていた。
彼女の気配も、衣類も、なにもかも。
端末の中の一条との写真すら、整然と削除されていた。
けれど、ベッドサイドに一輪だけ、あのラベンダーが残っていた。
そして端末の起動画面に、見慣れない文字列が一瞬だけ表示された。
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NULL_POINTER_ACCESS: SECT_NuLL/observation.link
observer_increase_rate: +128%
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信者の数が、現実に干渉する速度が。
──加速している。
七瀬の“削除”を引き金に、SECT NuLLは進行を強めていた。
一条は、その増殖を止める術を持たないまま、次に何を“観測”すればいいのかも分からず、初めて本当の意味で孤独を知った。