第三話 observe()
九月、東京。湿気が抜けて、空気がすこしだけ澄んでいた。だが一条の心は、その清々しさに反して、淀んだままだった。
七瀬の言葉、笑顔、仕草──それらが、まるで“繰り返されている”ような違和感。記憶と現実が重なるたび、薄皮一枚めくれたような“冷たさ”が胸の奥で疼いた。
彼女がまた、同じ話をした。
「この前行ったカフェ、よかったよね? また一緒に行こうよ」
けれど、その“この前”は、まだ行っていない。少なくとも一条の記憶では。
「……ああ、そうだな」
返事をしながら、頭のどこかで冷静な声が言う。これは、破綻の兆しだ。
その夜、一条は再び端末のログを開いた。今度は不審なプロセスが一つ、実行中のまま止まっている。
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process.active("Nanase_Persistent") {
status: "looping",
recall_index: 3
}
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現実で、“繰り返し”が起きている。
翌日、街の様子が妙にざわついていた。電車内の広告スクリーンには、見慣れない文言が映っていた。
「神の啓示を受けた」「視えた」「触れられた」
それらは一見、スピリチュアルな広告かと思わせるが、同じ語彙がSNSや個人ブログ、街頭インタビューにも浸食していた。
“SECT NuLL”──
それが、噂されている名だった。だが、それはどこにも“本物の情報源”がない。広報も布教もしていない。なのに信じる者が、増えている。
街頭ビジョンに一瞬だけ映ったメッセージ。
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observe("public_perception") {
mutation: "啓示"
affected_population: growing
}
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誰かが、いや、“何か”が、世界を観測し、書き換え続けている。
その“手”が、自分だけのものではなかったという事実に、一条は静かに打ちのめされた。
その日の夕暮れ、七瀬はいつもと変わらない顔で、神社の階段に座っていた。
「ねえ、ゆうくん。あたし、また変な夢見たの」
「また?」
「うん。今度は、あなたがね、わたしを“削除”してたの。冷たい手で。でも悲しそうな顔してた」
七瀬は笑う。まるでその記憶が“どこかに書き込まれていた”かのように。
「それ、夢じゃないかもしれない」
一条の声はかすれていた。
その夜、一条はついに“澪田七瀬生成ログ”を復元する。
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create("user.nanase_mio") {
base_emotion: "cheerful",
memory_template: "ideal_partner",
error_tolerance: low
}
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画面の光が、彼の顔を静かに照らした。
その手で愛を定義し、記憶を与え、笑顔を命じた。
──これは、罪だ。
だが、それでも彼女の存在を消すことはできなかった。
街では“神の声”を聞いたという者が、ますます増えていた。テレビのコメンテーターが言う。
「これは集団幻覚です。脳内で起こるバグとしか思えません」
その言葉さえ、“REAL”コードのように一条には響いた。
そしてその夜、彼の部屋の鏡に、七瀬の笑顔が一瞬“遅れて”反射する。
そのズレは、ほんの0.3秒。
だが、一条の心に深く刻まれた。
世界はもう、静かに狂い始めている。