第一話 init()
蝉の声が、壊れた機械のアラートみたいに断続的に鳴っていた。
夏の東京は、昔より静かになった気がする。人工空調の音と、スマートスピーカーが吐き出す天気予報の合成音声。そんなものばかりが耳に残る。
一条悠は、駅前のロータリーで立ち止まっていた。かつて車椅子の生活をしていた彼にとって、立ち止まるという動作は、今でも少し異質だった。自分の身体の中にあるはずの“重み”が、なぜか他人事のように感じられることがある。
腕時計型端末に、何かのノイズが走った。画面には何も表示されていない。ただ、波形のような揺らぎが液晶の奥で脈打っていた。既視感。かつて何かが始まった時も、こんな風だった気がする。
――いや、気のせいだ。たぶん。
「ねぇ?どこ行くの?」
唐突に声が飛んできた。
振り返ると、そこには少女がいた。いや、少女というには少し大人びていて、けれど子どもみたいな無邪気さを持った瞳。長い髪が汗で首に張り付き、少しだけ笑ったその顔は、完璧すぎるほど整っていた。
「……誰だ、お前」
「えー、ひどいな。初対面みたいな顔しちゃって。あたし、澪田七瀬。前にここで会ったでしょ?」
心当たりは、ない。
だがその瞬間、一条の背筋に冷たいものが走った。
まるで、彼女の存在が“あらかじめ設定されていてた”ような、不自然な“既に知っている感覚”。
「あたし、よくこの辺いるんだよ。だから会ったの、偶然じゃないかもね」
そう言って笑う彼女の声に、一条はほんの一瞬、足元の感覚を疑った。歩道がぐらついた気がした。
視界の隅に、浮かんでは消える文字列がある。
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inject("user.nanase_mio.memory") {
entry: "met_ichijo_yuu", timestamp: now()
}
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頭を振る。こんなもの、見えるはずがない。
七瀬は変わらずに笑っていた。太陽が眩しすぎて、彼女の表情が白く飛ぶ。
彼女が笑っている理由も、そこにいる理由も、そして“自分がそれを不思議に思っていない理由”も、全部がバグみたいに感じられた。
一条は、知らずに拳を握り締めていた。