雨森と神様
雨森は母親が絶対だった。
母親がそう決めたなら、そう言うのならそれが全てであり絶対だった。
そんな雨森とその母親の関係性。
雨森の母は強い人間だった。雨森を出産するまでバリバリに働き、働いている自分自身に生きがいを感じていた。そして雨森を出産し、今度は育児を徹底していくと決めた。曲がったこと、自分の思う間違ったことなんて許さない。幼い雨森にはわかっていなかったが、物心がついて高校生になった雨森は母親がそう心に決めて生きてきたのだろうと察することができた。
雨森が幼く、記憶にすらない期間のことはわからないが、物心がついてある程度のことは理解できる年齢になってからは、母親は雨森を一人の大人の人間のように扱っていた。そして物心がつくとほぼ同時期に母親と父親の関係性が悪くなってしまった。母親は強い人間だったが、父親は基本的に感情が凪いでいて感情的になることもなく、悪く言えばパッとしない人間であった。二人が付き合っていた頃から母親が父親を引っ張っていく関係性であり、当時はそんな関係でも楽しくやっていけたらしいが歳を重ねるごとに母親はそんな関係で結婚生活や育児をしていくことに嫌気がさしていたようだった。そしてそのストレスをぶつけるような発言が雨森に矛先が向くようになっていた。幼い頃は「お父さんは昔からこうだから」と笑って話していることが多かったが、雨森を大人扱いしながら育てていくようになると笑えないような父親に対する愚痴、そしてそんな父親に似ている雨森に対する嫌味な発言が増えていった。
「あんたは性格まで父親に似ているから、結婚するなら私みたいな全部引っ張ってくれる人を選びなさい。ああ、でもそれじゃあ今のお母さんみたいに可哀想な思いを相手にさせてしまうかもね。」
そして雨森の母親は雨森にはこうあるべきでありこう生きるべきというレッテルを何枚も貼っていた。
雨森が変身して戦う女の子に憧れても、幼い子供相手に面倒を見る職業に憧れても、母親が「やめなさい」といえばそれらは憧れから除外されてしまう。そして雨森もそう言われるたびに納得していた。お母さんがそう言うなら自分の考えが間違っていたのだ。そうやって高校生になるまで幾つもの夢や憧れを捨ててきた。
雨森は思い出せなかった。いつから母親の言うことが絶対になってしまっていたのか。つまり思い出せないほど昔からそう生きてきたとも取れるだろう。お母さんはあの子好きじゃない。お母さんはそれ好きじゃない。お母さんはこれ好きじゃない。そう言われるたびに雨森は空っぽになっていたのだった。お母さんの物差しで測ってもらっている方がうまくいくから。自分の物差しはきっと壊れているんだ。雨森にはその思考が染み付いて二度と落とすことのできないシミになっていた。
母親はこんな時どうすればいいのかを全て知っている。雨森がそれを直接聞かなくとも母親が道を示してくれる。きっとその先は明るくて素晴らしい未来へと繋がっているんだと本気で思っていた。それを疑ったことすらなかった。
空っぽな自分を足がつくように繋ぎ止めていてくれているのはお母さん一人。
「お父さんと違ってあんたは言うこと聞くから助かるわ。」
雨森は中学校に上がる直前に精神科に通うことになった。
きっかけは雨森の些細な発言からだった。雨森はこの頃、ぼーっとすることが増えたり死について異常なほど母親に質問したりしていた。
「お父さんはきっと早死にするわ。だって今にも死にそうな顔してるじゃない?」
「じゃあ私も?お父さんと似てるんでしょ?」
「知らないよ。しぶとく生きてお父さんに見せつけてやれば?」
「うーん・・・いやだな。お父さんが逝く時私も逝こうかな?」
「あんた何言ってんの・・・?」
こんな調子で、雨森は死という言葉に過剰に反応を示すようになっていた。誰かが死んだニュースが流れれば食い入るように画面に釘付けになり、そうなったかと思えば誰とも話さない時は虚げに一点を見つめている姿が増えていった。そんな雨森の様子に母親が気が付かないはずもなく、雨森の様子を母親の妹に電話で相談をするようになっていた。
「今日もこんなことがあったの。もう話してたらこっちが死にそうなんだけど」
「学校で何かあったんじゃないの?」
「知らないわよ、あの子は学校のことなんて話さないし・・・」
「お姉ちゃんから聞きなさいよ、いじめにでもあってたらどうするのさ」
「いじめ・・・?私が育てた子がいじめになんて遭うわけがないじゃない!」
雨森はこの頃母親が伯母によく電話をしていたのを覚えていた。そしてその内容が自分のことであるというのも。決まって母親は雨森が寝る支度を終わらせ、自室に戻ったのを確認してから伯母に電話をかけていた。雨森は一度ベッドに入り、母親の小さな話し声が聞こえてくるとベッドから出て近くの死角でこっそり話しているのを聞いていた。
「ちょっと、そんなに大きな声出さないでよ!・・・疲れてるんだろうけどさ」
「疲れてるに決まってるじゃない・・・なんで・・・私の育て方が悪かったっていうの?」
「誰もそこまで言ってないじゃないの」
「いや、きっと間違えたんだわ。今からでも間に合うかしら・・・」
間違えた。そう聞こえた時に雨森は頭の中で考えた。あのお母さんが間違えるなんて、でもお母さんのことだから間違えたことも想定内だろうと考えた。きっとわざと間違えてこれから正して自分の人生が潤っていくのだと考えた。そう思うと空っぽな雨森は途端に嬉しくなり、早くお母さんの新しい物差しで正してほしいと思った。その日は珍しく嬉しい気持ちで眠りにつけていたことも今の雨森は覚えている。
「私じゃもう手に負えないわ。あの子を病院に連れて行かなくちゃ。」
雨森は中学生になった。そしてその頃、雨森の中で思春期特有の悩みも増えていった。
初めの違和感は中学の制服が届いた時だった。綺麗な箱に丁寧に仕舞われている制服を自分の体に当ててみた時に、直感で何かが違うと感じた。でもその時には何が違うのかまではわからず、母親に急かされながら制服を身に纏い自室で写真を撮られたことは覚えていた。そして晴れて入学すると、その違和感は大きくなっていった。まるで自分が二人も同じ体に入っているような気持ちになることが多かった。綺麗なお姉さんのような先輩が彼氏と帰っているのを見て、いいなと思った。それは彼氏がいる先輩に対してのいいなではなく、彼氏としてあの先輩と歩いているなんて。それが羨ましかった。そしてボーイッシュな髪型をしている同じクラスの女の子にも羨ましいと思っていた。この時の雨森は鎖骨あたりまでの髪を下ろして生活していた。この羨ましいという感情が雨森を悩ませていた。髪型なんて自分の好きにできる範疇で変えればいい。今ではそう思うが、当時の雨森には数多くの母親が作ったルールやレッテルが貼られていたため、自分の意思で何か容姿を変えようなんて考えは一ミリもなかった。
それでも自分の中にある気持ちは変わることはなかった。短い髪も、女性を好んでしまうのも、こんなことは全て母親に知られたらと考えると一気に恐ろしくなる。そう思う一方で、私もああなりたい。私もあの人と歩きたい。そう思うのもやめられなかった。そんな半分ずつの自分の声が心の中で大きくなっていく一方だった。じゃあ雨森は女を辞めればいいのか?そこまでの大きな決断は雨森には出来ずにいた。
「セーラー服でお母さん安心したわ。一番女の子らしく見えるじゃない?」
雨森に新しい悩みが増えた。それは進路だった。
今まで中学生までの進むべき道は母親が全て決めていたといってもいいだろう。
授業で自分の進路を考える時間になり、雨森は頭を抱えた。抱えたといっても抱えるほどの頭なんて端っからなかったのに。進路って自分で決めなくちゃいけないんだ。雨森はそこのラインに立たされていた。そういえばこの学年になるまで母親とは進路の話はしたことがなかった。だからこそ余計にこの時間をどう過ごすべきなのかを悩ませていた。これはきっと今一人で決めることじゃない。決めてしまったらお母さんに否定されるか、間違っていると言われてしまう。そんな失態を犯すわけにはいかない。そこで雨森は前の席に座っている女の子の進路を盗み見て丸写しをした。このプリントは持ち帰るものでもない。それが幸いになり、丸写しという卑怯な手でその場をやり過ごした。
そしてなんとか授業を終え、帰宅した雨森は母親に質問をした。
「今日授業で進路についてやったんだけど・・・」
「あら、もう進路のことを考える時期かぁ」
「それでね、お母さんと相談したくて」
「どこにするか迷ってるの?」
「迷ってるというか、お母さんはどこがいいと思う?」
「どこって。まずは選択肢を教えなさいよ」
母親は若干呆れたようにそう言った。その言葉に雨森はヒヤリとした。まず雨森の中に二択以上どころか一つも選択肢が存在していなかったのだ。
「もしかしてまだ決まってないの?」
簡単に見抜かれてしまった。きっと雨森の表情から読み取れたのだろう。当てられた雨森はヘラりと笑って頷いた。でも決まっていないと気がついてくれたお母さんはきっと今から提案をしてくれるだろう。そう思うと安心できた。
「そう。決まってないの。どうしたらいいかな?」
「どうしたらって?あんたのこれからの人生なんだから自分で決めなさい」
自分で決める。自分で決める?
雨森には即座に理解ができなかった。まるで母親に勢いよく突き放されたようだった。
その時雨森はとても焦りに焦っていた。母親のことだからいつものように母親なりの雨森の人生の正解を提示してくれると思っていたから。それなのに母親はあっけらかんと、当然だとでも言うように自分でそれくらい考えてみろと言い放ったのだ。雨森は焦りつつも、それだけの感情だけでなく、色々な感情が心に込み上げて文字通り情緒不安定になった。これまで雨森自身に関する重要な決断はすべて母親が決定していた。なんなら雨森には口を出すなと言わんばかりに。それなのに、そんな風に育て上げられたばっかりに。自分の人生の手綱は母親が握っているとがかり思っていたのに、気がつけばその手綱は私にバトンタッチされ、挙げ句の果てには自分で自分の首を絞めていたなんて。シンプルな怒りも当然あったが、それは無責任なのは母親だと怒る感情なのか、今更ことの重大さに気がついた自分の無責任さに対する怒りなのかはわからなかった。どちらとも考えられるが。
雨森はそう告げられた時になんて母親に返事をしたのか覚えていない。目の前が暗くなり気がついたら寝る時間になっていたことだけは覚えている。
レッテルが剥がれたわけでもない。レッテルだらけで目の前が見えない状態でいきなり家の外に放り投げられたような気分だった。そして雨森はようやく考えた。きっと母親の中の雨森に対する教育は終わりを迎えたのだろうと。だからここからは雨森の選択次第で未来が変わっていくのだろう。そこまで考えて雨森は恐怖に震えていた。今まで冷たい温室の中で与えられたものだけを咀嚼して飲み込んで、人工的な光だけで育ってきたのに。生まれて初めての選択がいきなり人生を悪い意味で大きく変えてしまうようなものになるなんて。
そして恐怖と同時に、謎の安堵感もあった。やっと終わったのか。そう思ってしまった。
物心ついた時からまるで一人の大人のように扱われながら教育されていたのが、これからは本当の意味で教育なしの一人の大人という扱いになる。ということはもう母親の物差しは関係がなくなるということでもあると考えた。やっと、やっと終わった。
そう安堵すると同時に、母親の貼ったレッテルたちが徐々に心から剥がれていくのを感じた。髪は短くてもいい。スカートは履かなくてもいい。女性に憧れてもいい。結婚はしなくてもいい。好きな服を着ていい。好きなものを見つけてもいい。離婚したお父さんに会いにいってもいい。そんな思いたちが成仏されるように浮かんでは消えていくような思いだった。そして残った心本体はレッテルで隠れて見えなかった部分が案の定空っぽでひどくひび割れているような、もしくは虫に喰われて穴だらけの姿になっている気がした。
真の自分の心が姿を現した時に、お母さんここまで育ててくれてありがとう。という言葉が頭の中に浮かんだが、どう考えても皮肉にしか聞こえなくて笑ってしまった。
お母さん、やっぱりお母さんは間違ってませんでした。
お母さんだけを頼りにして生きていた私が間違っていました。
お母さんのおかげで今の私が在ります。
お母さん、お母さん。お母さん。私のお母さん。
「おかあさんここまでそだててくれてありがとう!!」
雨森と母親についてまとめました。
少し暗い内容にはなってしまいましたが、楽しんでいただけると嬉しいです。