おまけ シドウィス視点
――愛を求めず、粛々と執務仕事に徹する。そんな彼女が執務室の窓から差し込む茜の光に照らされる姿が、メイドに話しかけられ優しく微笑む姿が、時折なにか遠い記憶に意識を飛ばしている姿が。
とてもとても、可哀想に私の目に映った。
愛を求めないのは、愛に臆病になっているからだと聞いたことがある。きっと彼女は、誰かを愛せないんじゃない。愛人を侍らす国王になにも感じない程に、愛する気持ちを粉々にされたのだろう。
……そこまで結論づけたが、私は彼女をどうにかする気持ちはない。国王は無能故に彼女の働きには敬意を称するが、彼女の心に興味はない。この王宮という墓場で、一緒に死ぬのだろう。そう漠然と思うだけであった。
そんな彼女に、特別であり隠すべき感情を抱いたのはいつだったか。
そこまで振り返り、あの時だと独りごちる。
◇
宰相である私はすぐに確認しなければいけない書類があった。だが執務室に彼女の姿はなく、私は少し苛立ちを覚えながら廊下を歩く。
靴音が、雨が窓硝子を叩く音と共に廊下に響く。湿った空気が服に染み付き、なんだか体が重く感じた。
そのまま歩き続けた末に、図書室で彼女を見つけた。ソファに行儀よく座り、私に背を向けながらなにかを熱心に読んでいる。私は彼女がなんの本を読んでいるかにはさしたる興味も湧かず話しかけた。
「■■■様。休憩の所申し訳ありません。確認していただきたい書類がありまして……」
そこで、言葉は止まった。彼女の手の上で開かれた、幼児向けの絵本に視線が向く。私の視線に気づいた彼女が、ほんのり頬を赤らめながら「ふふ、似合わないわよね」と自嘲した。
「……その絵本は、私も読んだことがあります」
気まずくて、私は話を変えるように絵本だけに意識を集中させた。頭の中で必死に、昔読んだ話を欠片を拾い集めるように思い出す。
確か、魔女の呪いで醜い姿に変えられた姫が、王子のキスによって元の姿に戻る話だ。特になんの捻りもない、ありふれたハッピーエンド。その絵本の何処が、彼女の興味を引いたのだろう。
「何故、今この本を?」
「いえ、なんと言うのかしら」
言葉を探す彼女は、いつもと同じように遠い記憶に意識を飛ばしている姿に似ていた。
「例え美しくても、王子様が選んでくれるとは限らないって思ってしまって。いやね、物語にこんなにのめり込んでしまうなんて」
確かに、美しい彼女と見比べた時国王の妾はかなり見劣りする。だが国王はその妾に入れ込んでいる。なんとも皮肉な話だ。
「……私ね。誰か一人を愛する人は嫌いよ。だってその他の人を、どうでも良いみたいに扱うもの。――でもね、こうも思うの。私が、その人に愛されるただ一人になれたら、どれだけ幸せかって」
金髪の王子は、真っ白なドレスを来た姫を抱き上げキスをしていた。
その動きをなぞらえるように、彼女が私を見上げる。
「ねえ、私のただ一人だけの王子様になって欲しいって言ったら、なってくれる?」
脳に雪が降ったように、なにも考えられない。真っ白な思考のまま、本の上に手を置く彼女に手を伸ばす。
そして、少し冷たい手と私の手が触れ合った。彼女は手が迫っていることに気づかなかったのか、目を見開く。私の目を数秒見つめ、自分のもう一方の手をサンドイッチになるように私の手に載せた。
それから、きゅう、と不器用に口角を上げた。今にも泣き出してしまいそうな、儚い笑顔だった。
「ごめんなさい。貴方は私の王子様になれないみたい。だってほら、貴方に触れられても、私ちっとも怖くないの」
私の手を押しのけた。そして彼女は立ち上がり、本を閉じる。
「貴方が婚約者だったら、私は貴方の手が怖かったかしら。それとも、今と同じようにまるで普通の恋人のように手を繋げたのかしら」
それだけ言い残し、彼女は扉の奥に消えていった。
雪を夏の陽射しで溶かされた私を置いて。
息が荒くなり、今も眼の奥に彼女がいるような錯覚に襲われる。
絵本を手に取って改めて読んでみれば、金髪の王子は『僕が君を守るよ』と安い台詞を言っていた。
その日から、私の一人称は『僕』へと変わった。
◇◇◇
日々は穏やかに流れていく。雨が降る季節が終わり、夏が来てもそれは少しも変わらない。
僕は、彼女の背を目で追うようになっていた。さしたる理由はない。ただ、彼女の姿がどうにも美しくて、ずっと見ていたかった。
だから、気づくことも沢山あった。
甘いモノが苦手なこと。王とダンスをする時、辛そうな顔をすること。
そんな彼女の喜ぶ顔が見たくて、メイドと共に甘くないクッキーを考えた。レシピは僕が考えて、当日メイドが焼いてくれた。
それを渡した時の、彼女の溢れんばかりの笑顔は今だって鮮明に思い出せる。花が咲いたように美しく、年相応の少女のようにあどけなく、僕はその後一人で泣いてしまった。
そして僕は時折、彼女に話しかける。それは季節の話の時もあれば、今日見たことを話す時もある。
取り留めのない話ばかり。だけど、それが物足りなくも幸せだった。彼女は僕になにも話してはくれない。だけどその優しい笑みを向けてもらえるだけでどうにも幸せで、僕はまた話しかけてしまう。
――そんな薄い硝子に包まれたような幸せが崩壊するのは、意外と簡単で。呆気ない。
ある日、王に呼び出された。急なことに戸惑いながらも行ってみれば、王はでっぷりとした顎を揺らしながら口を開いた。
「あの女が横領をしていると、彼女が言うんだ。だからあいつは近々処刑することにする」
「は?」
王は、悪びれもなく彼女を処刑すると言い放った。政治のことなどなに一つ分からない妾の言葉を信じ、誰よりもこの国に尽力した彼女を殺すと言い出した。
突拍子のない言葉に、なにも考えられない。言葉が出てこない。だが陶器が割れる音が響いて、ハッと我に返る。
「……そんなの、あんまりです」
扉に目を向ければ、ティーカップやティーポットが載っていたであろうトレイを落とした、メイドがいた。チーズクッキーを一緒に作った、彼女を誰よりも案じていたメイドだった。
『逃げろ』そう言いたいのに口は動くだけで、声は出ない。そんな僕の心情に気づくわけもなく、メイドは声を振り絞った。
「あのお方はっ、十七歳でこの国の為に死ぬことを義務付けられて! それでも懸命に今まで頑張ってきて! 答えてくださいよ、あのお方が、貴方たちに一体なにをしたというのですか⁉」
「煩いぞ」
「……う、あ?」
王の一言の後、メイドの後ろに騎士が現れサク、と嫌な音が響いた。メイドの腹から剣先が覗く。ジワリジワリと、彼女の服を、口を、カーペットを赤いモノが侵食する。
衛兵が剣を抜けば、支えを失くしたメイドは、ズシャリと床に沈み込んだ。
メイドに近づき抱きかかえるが、既に瞳に光はなく。あの世を見つめていた。荒い息を吐く。メイドのその雄姿に、忠義に、僕は最大限の敬意を払った。
亡骸をカーペットの上に、僕は丁寧に置いた。
「……なんだ、その目は」
僕を見つめた王が、心底不快だという声を上げる。それから、「やれ」と騎士に命令した。
こちらに伸びる手を避けようとしたが、力のない僕では出来ることなどあるはずもなく。捕まえられ、首を差し出すような体勢で押さえつけられる。僕は体を四方八方に動かしたが、より強い力で押さえつけられ成す術もない。
――でも、まだ死ねない。死に対する恐怖はない。だが、これだけを強く思う。彼女を一人にしたまま、死にたくない。
「……彼女のなにが、そんなに気に触ったんだ」
問いかけに対する答えはない。「誰にそんな口を聞いている!」と王の足で顔を踏みつぶされた。
チーズクッキーを頬張った時も、取り留めのない話をする時も。彼女は何処か、不安定な顔をする。笑っているのに怯えたような顔をするのは、そこは簡単に崩れ落ちる脆い所だと知っているから。
「どうしてあの人が、このような仕打ちを受けなければならない! あの人とまともに話したこともない奴が、彼女を貶めるなんて、僕は認めない! 彼女が成してきた頑張りが、その全てが認められないなんて、あってはならないんだ……!」
「黙れ、黙れぇ!」
剣が振り下ろされる。血しぶきが上がる寸前、僕は願った。骨が折れるくらいに顔を上にして、無慈悲な女神にそれでもと祈った。
――ああ、どうかどうか! 次こそは彼女の一番側にっ。どうか、愛しいあの人が一人にならないように!
それだけを、僕は願い続け死んだ。
◇◇◇
紅茶を飲む彼女を、宰相ではなくなった僕が見つめる。僕の眼差しが注がれていることに気づいた彼女は少し頬を赤らめて怒ってきて、その仕草一つ一つに、泣きたいくらい嬉しくなった。
生まれ変わった彼女に出会えた。
彼女の婚約者になれた。
僕の手を怖いと言う彼女に、仄かに喜びを感じてしまった。
もう一度、メイドと考えて作ったあのクッキーを彼女に渡すことが出来た。
彼女の危機に駆けつけ、助けれた。その時の嬉しさは、どんなモノにも例えようがない。
そして、好きという言葉を貰えた。宰相だった頃の僕には、ついぞ向けられなかった感情を、向けてもらえた。
彼女がずっと思い悩んでいたことを、吐露してくれた。
……僕は近々、幸せ過ぎて死ぬのかもしれない。そんな馬鹿みたいなことを、最近本気で考えてしまう。それくらいに今幸せで、毎日目がチカチカして痛いくらい眩い。
――彼女が三度の生で生まれ育った国々を、あの後彼女の言葉だけを頼りに調べた。
一つ目の国は、隣国と結びついたことに調子づき他国に戦争をしかけあっという間に負けたらしい。その後は隣国の王女もろとも処刑された。
二つ目の国では、聖女だと言った少女にはその実なんの力もある筈がなく、それが遂に露呈し民からの怒りを買い聖女は「魔女」と罵られ炎で焼かれたらしい。彼女と婚約していた男は、自分は騙されていた被害者だと言い続け部屋に籠もったまま、それを疎ましく思った家族によって殺されたとか。
三つ目の国は、生まれ変わってから真っ先に調べた。これは予想通りではあるが、王妃と宰相がいなくなったことにより国が傾き、それを不審に思った民、そして二人を慕った者により罪が明るみになり、革命が起き王と愛人は処刑された。
こうして、彼女の人生を翻弄し続けた国の末路を読んだ時ふと思った。この三人の女も、男爵令嬢のヴィオレットと同じ書物を持っていたのではないかと。
それなら、と安堵の息を吐く。
あの本はこの世の何処にももう存在しない。彼女が理不尽な運命に振り回されることは、金輪際ないだろう。
もう誰にも、メルフェナの幸せを害させはしない。この命が擦り切れようと、彼女に尽くすことを誓う。
紅茶を飲みながら、ちまちまと僕が今日焼いてきたチーズクッキーを齧るメルフェナをボンヤリ眺める。
春の風に白縹色の髪を揺らす彼女は、僕が宰相だったことを知らない。彼女は宰相とメイドが何故いなかったのかと嘆いていたから、本当なら教えた方が良いのだろう。
だけど、言うつもりはない。『宰相』だった頃の自分には、戻る気はない。僕は今、メルフェナの『婚約者』なのだから。メルフェナが特別な好きをくれた、僕なのだから。
「メルフェナ、今幸せですか」
そう問いかければ、メルフェナはキョトンと目を丸くさせた。それから、彼女では見ることの出来なかった、幸せいっぱいの笑顔を浮かべた。明日も、その先も、幸せが続くと信じてやまない笑顔。彼女はついぞ浮かべることは出来なかったあまりにも気の抜けた微笑み。
その笑顔が、僕は見たかった。だから、ここまで来れた。
「はい、私とっても幸せです」
メルフェナの言葉が耳に届いた瞬間、僕は瞬き一つの間に消える白昼夢を見た気がした。
真白の雪が、重たく冷たい雪が、世界を覆い尽くした白昼夢だった。その雪は、仄暗く淀んでいて、とある少女の願う小さな幸せなどすぐに消してしまうモノだった。
――だが、と僕は目を開ける。季節は巡る。春は来る。雪は溶ける。
黄色、水色、桃色、藍色、橙色。色んな花が咲き乱れる春の中で、草原を踏みしめ白いレースの付いたドレスを揺らしながら幸せを享受する。貴女はそんな場所にいるべき人で、そんな毎日を僕は永遠という時間を費やしてでも守りたいと願ってる。
ああ、と思う。どんな貴女も大好きで仕方ない。あの日僕の脳を鮮烈に焼いた、寂しそうな貴女も。僕に段々心を開いていってくれたメルフェナも。
そして、生まれ変わった貴女にもきっと恋をする。貴女が誰に生まれ変わろうとも、僕が記憶を失くしたとしても、貴女に焦がれ続ける。
だからどうか、一人で何処か遠くに行かないで欲しい。僕を探して欲しいとは言わない。だけど、ふとなにかが記憶に引っかかって立ち止まってくれたら。
僕はその間に貴女を見つけ、全速力で駆けていくから。