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「メルフェナはなにが欲しいですか?」
婚約を結んでから約一年。春と夏の隙間の季節で、私はそう問いかけられた。
外では、白い糸のような雨が降り止むことなく草木を濡らし続けている。大粒の雨粒が当たる度に、躍るように葉が揺れていた。
私はティーカップをソーサーに置く。どうやら彼は、私が誕生日を迎えた後に婚約を結んだせいで十五歳の誕生日を祝えなかったことを悔やんでいるらしい。
「特に思いつくものはありませんね」
悩んでみたが、特に欲しいモノは思いつかない。
「二番煎じは嫌だ……僕が初めてなのがいいんです」
それは砂の中から金を探すくらい困難なことだと思う。
私は、ドレスでも、宝石でもなんでも言おうとした。
だけど、眉を下げ紅茶を飲む彼を見た時、違う言葉が口をついた。
「私、食べたいモノがあるんです」
「食べたいモノ?」
目に光が宿ったシドウィス様に、コクリと頷く。
「その、甘くないクッキーが、食べたいんです。ええと、確かチーズみたいなしょっぱさで、白い粒が入ってて……」
それは、三度目の時甘いモノが食べられない私の為にメイドが作ってくれたクッキー。それだけはとても美味しく食べられて。だからこの世界で生まれた時も食べたいと思ったのだが、誰に話しても、どんな文献を読んでも、似たクッキーは見つけられなかった。
私の言葉を聞いたシドウィス様は、目を見開いていた。ゆらゆら金色の瞳が揺れて、水が張ったかのように潤んでいる。それから、一つ頷いた。
「それでしたら、必ず用意できます。楽しみに待っていてください」
「本当? 嬉しいです、ありがとう」
素直にお礼を言えば、笑ってくれた。
そして一カ月後、誕生日の前日。一つのプレゼントを手に、彼は我が家を訪れた。庭に置いてあるガーデンテーブルで向かい合うように座り、私は彼を見つめていた。
白い手袋をつけた彼の手に、ちょんと小さなピンク色の箱が乗っている。
「明日の誕生日当日は、メルフェナに一等似合うドレスと宝飾具を。今日は、メルフェナが欲したクッキーを」
期待か、不安か。私の手が震える。その手を叱咤しながら箱を受け取った。
巻かれた赤色のリボンを、丁寧に引っ張る。そして、箱を開ければ、在りし日のクッキーがいた。その時より形がいびつで端っこは焦げ付き欠けている部分もあったが、それは確かにあのクッキーだった。
「食べてみてください。きっと、貴女のお眼鏡にかなうと思います」
その声に惹かれるように、スティック状のクッキーを一つ手に取り歯を立てる。固いモノが割れる音と共に、チーズの風味が口いっぱいに広がった。
「そう、この甘くない味。思い出したわ、白い粒はごまだったのね。美味しい」
正妃だった頃私の誕生日を祝う、という形だけの儀式で出されたケーキは、甘くて甘くて吐いてしまいそうだった。
そうして疲れ果てていた時、自室にメイドがやって来てこっそりとこのクッキーを渡してくれた。その時覚えた感情が、鮮やかに蘇る。
花が柔らかい花弁を開かせるように。私の口元が綻んだ。
「ありがとうございます。本当に、嬉しいです」
そのままサクサクと食べ進めていき、一枚をぺろりと食べ終わる。
このまま全て食べてしまいたかったが、それはさすがに勿体ないなぁ、と思い直し蓋を閉めリボンを巻きなおした。
「これは後で、大事にいただきますね」
「はい」
思わずシドウィス様に笑顔を向ければ、フニャリと彼の口も緩む。
「では、メイドに預けてきますね」
立ち上がり、控えていたメイドに中になにが入っているかの説明をしながら渡す。大事なモノだから丁寧にね、と念押しすると粛々とメイドは頷き、箱を持ち屋敷へと歩いていった。それを見届け、私は振り返る。
シドウィス様の下へと歩き出す。
雨が降り止まぬ季節は終わり、白い陽が青々とした芝生に降り注いでいる。
自然と、幸せになりたいと思った。幸せになれるかも、と思った。シドウィス様のことはまだ愛してもないし好きでもない。だけど彼が私を大切にしてくれるから、私の心で枯れていた花が種を落とし、水と日光を浴び、新たな芽を生やし。花が咲いてしまう気がした。
サク、と芝生を踏みしめる。白縹の髪が揺れ、白いドレスがふんわりと裾を踊らせる。
シドウィス様に近寄る。彼は私にまだ気づいてないのか、下を向いていた。彼に目隠しをしたら、どんな反応をするのだろう? そんな興味に惹かれた私は、なるべく息を殺して彼に近寄った。
あと五歩、三歩、一歩――
「……なんですか、それ」
彼の真後ろに立った私から、呆然とした声が漏れた。
シドウィス様はようやく私に気づいたのか、バッと振り向き顔を蒼くさせた。
「どうして、手を火傷しているんですか」
「……すみません、クッキーを作ってる途中で火傷してしまいました」
「なんで、謝るんですか」
今日シドウィス様が手袋をしていたのは、火傷を隠す為だった。けどそれだと蒸れたり締め付けられたりして痛く、外していたのだろう。真っ赤に爛れた手は、とても痛々しい。
「……私、貴方のことをずっと変な人だと思っていましたけど、本当は大馬鹿者だったんですね」
あの日私を殺した熱が、ありありと蘇った。そしてその痛みを、クッキーを願った私のせいで彼が負った。罪悪感で吐き気が込み上げる。
「そんな火傷を負うなら、クッキーなんてちっとも欲しくありませんでしたっ」
「メルフェナ……」
困ったように、シドウィス様は自身の手を眺めている。
「どうして、自分を犠牲にするのです。私は貴方を愛する気なんてないのに、どうしてここまで尽くせるんです。到底理解できません」
睨みつければ、ヘラリと笑われた。目の前が真っ赤になる。
――二度目の生。私は公爵令息の婚約者だった。一度目、気づけなかったからあんなことになったから、私は今世こそはと必死だった。だから公爵令息の彼に相応しい人である為に努力は怠らなかった。
だが、彼が聖女様と学園で逢瀬を重ねていることが判明した。私は彼の不義理に怒った。彼の有責で婚約破棄になるだろうと思った。
けれど気づけば、私が聖女様に悪質な嫌がらせをし、公爵令息の彼が傷つく聖女様を慰めたという美談へと話はすり替わっていた。何人かの友人は噂を信じず怒ってくれたが、清廉潔白と名高い聖女様が自ら「彼女に虐められました」と涙付きで訴えたことにより、私はあっという間に悪人になった。
聖女様を虐める者は心が汚い。炎には浄化の力がある。
そんな迷信がその国には残っていて、私は火あぶりの刑に処されることとなった。
当日。石を投げつけられ、聖女様と公爵令息の彼からは嘲笑を受けながら私の体に火が付けられた。炎が私の皮膚を焼き、呼吸をすれば肺を焼く。
「あああああっ!」
言葉なき声を上げながら、私は心臓が灰になるまで燃やされた。
あの時の痛みは、思い出すと夜眠れなくなるくらい怖いモノだった。
「……貴方は、大馬鹿者です」
唇を噛み締める。目をギュッと閉じれば、ポロリと一つ涙が転がった。
そこでハンカチーフが私の目に当てられた。涙がハンカチーフに吸い込まれていく。滲んだ視界の向こうで、彼は嬉しいような、不甲斐ないような顔をしていた。
「……僕はね、メルフェナ。貴女がとても大切なんです。だから、きっとどんなことでもしてしまう。――でも、僕は大事なことを見落としていました」
シドウィス様の瞳も、じんわり潤んでいた。
「僕はいつの間にか、貴女にとても大切に想ってもらっていたんですね」
「……っ」
違う。違う。私はもう、愛する人も好きな人も作らない。だって皆私を裏切るもの。裏切られるのに、想い続けることは出来ないもの。
……でも、今こんなに胸が痛むのは。クッキーを貰った時、あんなにも心が嬉しくなったのは。
「誰かを大切に想うなんて……私はまた、過ちを重ねてしまったと言うのですかっ?」
「……っ、違う、決して過ちなんかじゃないっ。間違えたのは、誰かを想い慈しんだ貴女を蔑ろにし、裏切った方だ! 貴女が、貴女の人生が過ちだなんて、そんなこと、誰にも言わせない……!」
ヒュッと息を呑む。でも上手く呑み込むことが出来なくて、私は何度も何度も不器用に息を吸った。
心がグッと掴まれたように痛くなって、私は嗚咽を上げる。
涙が、止め処なく頬を伝った。
しばらくしてから 私の涙は止まり、真っ直ぐシドウィス様を見れるようになった。
定まってないことはまだまだいっぱいある。だけど、言わなくちゃいけない言葉もいっぱいある。
「怒って、ごめんなさい。クッキーを、どうもありがとう。でもやっぱり、貴方が痛い思いをするのは嫌です」
「はい、約束します。メルフェナを今度は泣かせません」
素直な気持ちを話せば、ゆっくり頷いてくれた。心臓が、トクントクンとゆっくり脈打つ。
まだ、彼を愛してるかなんて分からない。だけど、確かにシドウィス様を大切に想ってる。それだけは、嘘じゃないと言える。