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愛する弟の幸せのために身代わりとなって婚約した令嬢のお話

「弟がブロゼルフ伯爵家のご令嬢との婚約するですって!? わたしは反対です!」


 サステラーズ伯爵邸、当主の間。そこに、鋭い声が部屋に響き渡った。

 当主の間には二人の姿があった。


 反対の声を上げたのは、麗しい乙女。伯爵令嬢リフィネディア・サステラーズ。

 肩まで伸びた真っ直ぐなダークグレーの髪。怜悧な輝きを放つ切れ長の瞳の色は、薄い紫。

 今年で16となる彼女の姿は、年齢に見合わぬ落ち着いた気品に満ちていた。貴族の通う学園でも、その身に纏う気品と礼節を重んじる姿勢から、淑女の鑑と謳われる令嬢だった。

 しかし身に着けた気品も礼儀に則った立ち姿も、その身から立ち上る怒りを隠しきれはしなかった。


 もう一人は部屋の主、ファーゼラルド・サステラーズ伯爵。

 グレーの髪を几帳面に撫でつけ、口元に立派な髭をたたえた壮年の紳士である。

 彼はこの部屋の主だ。年季の入った立派な書斎机に着き、リフィネディアの反対の声に動じた様子はまるでない。その佇まいは伯爵家の主に相応しい威厳に満ちていた。


「お前が弟のことを愛しているのはわかっている。だがこれは、家同士の契約の話だ。姉弟の情を挟む余地などない」


 伯爵は決然と娘の言葉を退けた。

 

 リフィネディアは3つ年下の弟、ベルデューロを愛している。学園への入学前はべったりだった。毎日、朝昼晩のハグを欠かさなかった。朝の着替えから食事の手伝い、本の読み聞かせに至るまで、お付きのメイドのように常に弟の傍にいて世話を焼いた。

 メイドのようにどころか、実際にメイドの仕事もやった。時折メイド服を身に纏い、弟の下着を洗うのだ。その姿は心底幸せそうで、使用人たちは止めることなどできなかった。伯爵が何度厳しく言い聞かせてもやめようとしなかった。

 

 そんなリフィネディアだったが、貴族令嬢としては優秀だった。頭の回転が早く判断も堅実で、学業においては常に優秀な成績を出していた。魔力も貴族としては平均以上に高く、その扱いもそつがない。何より礼儀作法は完璧で、洗練された所作と常に爵位を意識した振る舞いは、礼儀に厳しい貴族の間でも評判になるほどだった。

 

 学園に入学すると、リフィネディアは寮暮らしとなった。弟とは休日しか会えなくなってしまった。

 どうなることかと心配したが、伝え聞く限りではうまくやっているらしい。優秀な成績を収めており、気品に満ちた聡明な令嬢として教師や生徒からの評判も高い。休日に家に戻ってくると弟とべったりだが、それでも会う時間が減った分、少しは弟離れができてきたのかと思っていた。

 だが、弟との縁談を聞いただけでこの有様だ。伯爵は深々とため息を吐いた。


「もうじきベルデューロも学園に入学する。そろそろ弟離れしてもらわなくては困る」

「それくらい心得ています。そもそも、弟の縁談自体には反対しません。愛する弟が家のために結婚しなければならないというのなら、笑顔で送り出すのが貴族の娘というものでしょう」


 落ち着いた態度で切り返してくるリフィネディアに対し、伯爵は訝し気な顔をした。


「……ではなぜ、反対するなどと言ったのだ?」

「弟はグレマトリアル子爵家のご令嬢、ミルディージア嬢と恋仲にあるのです。貴族の婚姻は家同士の契約ですが、姉としては弟の幸せを願いたいのです。どうか縁談の件はご一考いただけないでしょうか?」


 そう言って、リフィネディアは恭しく頭を下げた。

 伯爵は唸った。グレマトリアル子爵家は同じ派閥に属する家で、サステラーズ伯爵家との親交も深い。弟のベルデューロが彼の家の令嬢と会う機会が多いのも知っていたが、恋仲に至っているとまでは思わなかった。

 弟を愛してやまないリフィネディアが言うのなら本当の事なのだろう。グレマトリアル子爵家は名家であり、結婚相手としては申し分ない。

 しかし、伯爵は首を横に振った。


「残念ながらそれは駄目だ。ブロゼルフ伯爵家との縁談は、昨年の大河の氾濫への対処のため、協力し合ったしたことから出た話だ。それを断ればブロゼルフ伯爵家との間に禍根を残すことになるだろう。伯爵家当主として容認できない」


 およそ一年ほど前の事。サステラーズ伯爵家とブロゼルフ伯爵家を通る大河で氾濫が起き、その被害は広範囲に及んだ。両伯爵家はこの難事に対し、協力して対応に当たった。人員の融通や資材の運搬、資金の確保など、様々な面で互いを補い合った。

 被害は最小限に抑えられ、被災地の復興も順調に進んでいる。この成果は、両伯爵家が結びつくことの意義を当主たちに認識させるに至った。その流れで生まれたのが今回の縁談だったのだ。

 

 伯爵も人の親だ。ベルデューロにも幸せになってほしいと願っている。それでも色恋沙汰を理由に、同格の貴族との縁談を無かったことにするわけにはいかない。


 リフィネディアは頭を上げた。その瞳には並々ならぬ決意が感じられ、伯爵はおもわずゴクリとつばを飲み込んだ。


「わかりました。そういうことでしたら、わたしが反対した本当の理由を話さなければなりません」

「本当の理由だと?」

「実はわたしはブロゼルフ伯爵家のご長男、ヴィーライル・ブロゼルフ様を以前よりお慕いしていたのです。ですのでブロゼルフ伯爵家とのご縁談は、どうかわたしに受けさせてもらえないでしょうか?」

「な、なんだとっ!?」


 伯爵は思わず驚愕の叫びをあげた。

 まずリフィネディアがこんなことを言い出すのがあまりにも予想外だった。彼女はひたすらに弟にべったりで、他の異性に興味を示すことすらなかったのだ。

 これまでもいくつも縁談の話はあった。だがリフィネディアは弟のベルデューロが家督を継ぐべきと主張しており、弟の婚約が決まるまで安心して婚約などできないと言って受けようとしなかった。

 リフィネディアを説得するのは難しい。だからこそブロゼルフ伯爵家からの縁談の申し出は、弟のベルデューロに受けさせることにしたのだ。

 

 そして、今になってこんなことを言い出すのも奇妙なことだ。ブロゼルフ伯爵家の縁談の話が来て、たまたまその家の長男を好きだったなど、偶然にしては出来過ぎている。運命と言うにはあまりに作為的だ。


 疑わしくはあったが、それでも、伯爵はこの流れに乗ることにした。

 弟にべったりで、縁談に興味すら示さないリフィネディア。そんな彼女が自分から縁談を受けると言ってきたのだ。この機を逃すわけにはいかなかった。


「……わかった。私にも娘の願いをかなえてやりたいという親心がある。お前が縁談を受けると言うのなら、先方にはそのように伝えよう」

「ありがとうございます、お父様!」


 リフィネディアは晴れやかな笑顔を見せた。今まで見たことのないとびっきりの笑顔を前に、伯爵はなんとも言えない不吉な予感を覚えるのだった。




 サステラーズ伯爵は、縁談の相手の変更についてブロゼルフ伯爵家に打診した。先方にも都合がある。断られる可能性も考えられたが、それは杞憂に終わった。ブロゼルフ伯爵家は諸手を挙げて承諾してくれた。回答を持ってきた使者によれば、ブロゼルフ伯爵家の長男ヴァーライルもまた、リフィネディアに恋心を抱いていたと言うのだ。

 これにはサステラーズ伯爵も驚いた。あの弟の事しか考えていないような令嬢が、学園で密かな恋を育てていたということなのだろうか。あるいはこれは、運命なのか。

 疑問は尽きなかったが、それでこの縁談をとりやめられるはずもない。相思相愛だというのならむしろ理想的であり、反対する理由はない。

 

 縁談の契約はつつがなく進行し、ブロゼルフ伯爵家で両家の当主立会いの下、顔合わせする運びとなった。

 

 伯爵子息ヴァーライル・ブロゼルフは大柄な青年だった。

 短く切りそろえた金髪。太い眉の下にある薄い緑の瞳は、精悍な輝きをたたえていた。

 がっしりとした体つきに分厚い胸板に太い腕。無駄なく鍛え上げられたその姿は、王家直属の精鋭騎士と並んでも見劣りしないだろう。

 そしてその身体は見せかけではない。彼は凄腕の剣士であり、その技の冴えは学園でも随一と謳われている。

 しかしその所作は流麗で、無骨さはまるで感じない。さすがは伯爵家の嫡男といった佇まいだった。

 

「学園ではリフィネディア嬢の気品ある姿に感服していた。貴方のような素晴らしい令嬢とこのような縁ができて、喜びに堪えない」

「ヴァーライル様の模擬戦での剣の冴えにはほれぼれしておりました。不束者ですが、どうかよろしくお願いいたします」


 ヴァーライルの誠意に満ちた真っ直ぐな言葉を、リフィネディアが落ち着いた微笑みで受け取る。

 たくましい精悍な青年と、折り目正しい可憐な乙女。実に似合いな二人だった。

 この縁談に不吉なものを感じていたサステラーズ伯爵だったが、そんな二人を見ていると、どうやらそれは気のせいに過ぎなかったのだと思うようになった。なにより、縁談を避け続けた娘が正式に婚約を交わしてくれて、ほっと胸をなでおろすのだった。




 伯爵令嬢リフィネディア・サステラーズが伯爵子息ヴァーライル・ブロゼルフを慕っているというのは、偽りである。

 リフィネディアはこれまでの人生で、弟・ベルデューロ以外の異性に魅力を感じたことなど一度としてない。ヴァーライルとの婚約は、「弟が伯爵令嬢と婚約すること」を回避するために過ぎなかった。

 

 リフィネディアは貴族の令嬢である。貴族の家に生まれた以上、家のために結婚することは避けられない。これは弟のベルデューロも同様である。いかに弟が愛しかろうと、その想いだけで貴族の義務から逃れられるわけがない。リフィネディアはその事実を正しく理解していた。

 

 弟の結婚が避けられないのなら、次に考えるべきは「どうすれば自分にとって有利になるか」ということだ。

 リフィネディアは結婚後も弟から遠ざかるつもりはなかった。ことあるごとに弟の家庭のお邪魔して、弟を愛でながらその伴侶にネチネチと文句をつける……そんな穏やかでちょっと毒のある、素敵な未来を夢見ていた。

 その実現のためには、弟の嫁の家格は低い方が望ましい。嫁が同格以上の貴族令嬢の場合、関係がギクシャクしかねない。上下関係をきちんと整えておくことが、貴族の人間関係においてもっとも重要なことなのである。

 

 だから弟と子爵令嬢ミルディージアの仲を取り持った。子爵令嬢ミルディージアは大人しい令嬢だった。爵位も伯爵より低い子爵であり、サステラーズ伯爵家との交流も深いという理想的な相手だった。

 子爵令嬢ミルディージアに惹かれていく弟の姿は、リフィネディアの心を苛んだ。だがそれは耐えられる痛みだった。男が女に抱く愛など性欲の延長に過ぎない。血を分けた姉弟の間にある絆は、その程度のことでは揺らがないと、リフィネディアは確信していたのである。

 

 順調に計画は進んでいたが、予想外のことが起きた。川の氾濫への対処のために、サステラーズ伯爵家とブロゼルフ伯爵家との関係が急速に進んでしまったことだ。縁談に消極的なリフィネディアではなく、弟の縁談に話が進むことは当然予想できたことだった。

 だからリフィネディアは、次善の策として自分からその縁談を受けることにしたのである。

 

 貴族令嬢である以上、いずれは望まぬ相手と婚約しなければならない。相手が伯爵家の子息なら申し分ない。弟の嫁との上下関係も問題なく保たれる。弟の身代わりになるというシチュエーションもリフィネディアにとっては好ましいものだった。

 

 縁談が進むうち、ヴァーライルは以前からこちらに興味を持っていたと聞かされた。意外には感じたものの、どうでもいいことだった。リフィネディアは特に心を揺らすこともなく、ただ「都合がいい」と受け止めただけだった。

 

 こうしてリフィネディアは、伯爵子息ヴァーライルとの婚約関係を結んだのだった。

 

 

 

 春休みの間に結ばれた二人の婚約関係は、新学期を迎えた学園で話題となった。

 品行方正にして清楚可憐、男に興味を持つそぶりも見せない、麗しい伯爵令嬢リフィネディア。

 質実剛健にして勇猛果敢、学園の令嬢たちに見向きもしない、精悍な伯爵子息ヴァーライル。

 異性との付き合いなど無縁だった二人が、婚約関係で新学年を迎えたのである。学園の誰もがこの新しいカップルに注目した。

 

 クラスの異なる二人だったが、リフィネディアは休み時間のたびにヴァーライルの下へとやって来た。他愛のない日常の話題や授業の感想を交わし、時間が来れば自分のクラスへと帰っていく。昼休みは食堂でいっしょに食事を摂るが、そこに親し気な空気はなく、当たり障りのない会話を交わすだけだった。

 お互いに触れ合おうとすらしない静かな付き合い。冷めた関係に見えるかもしれないそれは、しかしこの二人に限っては違った。

 礼儀作法を重んじるリフィネディアは、自分から異性に触れようとしない。ヴァーライルの方もまた、そんな彼女を尊重して無理に距離を詰めようとしない。それでも、互いに二人でいる時間を少しでも長くとろうとしている。奥ゆかしくも愛情深い、清く尊い関係。学園の生徒たちはそんな風に受け取った。

 

 周囲からは好意的に見られていた二人の関係だったが、リフィネディアにとっては苦労とガマンを伴う付き合い方だった。

 この新学期に入り、ついに弟・べルデューロが入学してきた。本当ならそちらの方をかまいたい。近くにいたい。お世話したい。だが婚約者を放って弟ばかりを構うのは問題である。婚約者として義務を果たしていないと判断されれば、破談もあり得ない話ではない。

 この婚約がダメになり婚期が遅れれば、貴族令嬢として瑕疵がつく。弟の嫁に頭が上がらなくなる事態は、リフィネディアにとって避けねばならないことだった。

 

 手っ取り早く仲を深めるなら、少しは身体を許すことも考えなくてはならない。キスやハグ程度なら、結婚前でも不作法にはならない。

 だがヴァーライルにはそういう隙は見えなかった。彼はどうも、あまり女性に興味がないようなのである。授業の模擬戦ではいつも令嬢たちから黄色い声援が飛ぶのだが、その声に応えることはなかった。むしろ迷惑そうにしているように見えた。

 

 年頃の殿方なら女性の胸やら腰に目が行くものだが、そういう視線を感じたことはない。こういう殿方に色香で迫るのは逆効果となる……リフィネディアも乙女として、そうした恋の常識は心得ていた。

 そもそも彼女は礼儀作法の元に厳しく自分を律しており、学園内でもそのことで評価されている。それを崩して媚びるのは、貴族令嬢としての自分の価値を落とすことにもなる。

 

 そこで考えあぐねた結果、とにかく一緒にいる時間を増やすことにした。短い時間で濃密な関係を築けないのなら、接する時間を増やして関係を積み上げるしかない。

 これが現状における最善手ということはわかっている。だがそれは、弟と接する時間を減らすことを意味する。それはリフィネディアにとって心をすり減らす苦行だった。

 しかもその努力の成果はなかなか見えてこない。周囲は「清く奥ゆかしい関係! 素敵!」などと言って盛り上がっているが、実際のところ関係はまったく進んでいないのだ。

 

 新学期が始まって3ヶ月ほど経った頃。リフィネディアはそろそろ限界を感じていた。やり方を変えるべきかもしれないと考え始めていた。

 ヴァーライルが自分の邸宅にリフィネディアを招いたのは、そんな頃の事だった。




 休日となり、リフィネディアはヴァーライルの家、ブロゼルフ伯爵家へとやって来た。使用人に案内され、ヴァーライルの私室の前に着いた。

 そこまで来ると、使用人は速やかに立ち去った。ヴァーライルからは二人きりで内密な話をすると事前に聞かされていた。使用人すら近くにいさせないつもりらしい。

 

 リフィネディアはごくりと固い唾を呑みこんだ。いよいよ来るべき時が来てしまったのかと思った。

 これまで肉体的な接触こそほとんどなかったものの、過ごす時間を少しずつ積み上げてきた。もともとヴァーライルはこちらに好意を持っていると聞いている。そろそろ手を出してきてもおかしくはない。

 関係が進むなら、それはこの婚約関係が盤石になるということだ。本来なら歓迎すべきことだろう。


 だがしかし、それで一線を越えてしまうというのはまずい。


 結婚前にそういうことをすればバレるものだ。たとえ周囲にバレなかったとしても、子供ができてしまえば関係を結んだ日を逆算できてしまう。結婚前に一線を越えたと知られるのは、貴族令嬢にとって恥となる。リフィネディアにとって、それは弟の嫁に頭が上がらなくなることを意味する。

 

 ヴァーライルが事に及ぼうとするなら止めなくてはならない。だが性欲に支配された殿方に言葉は通じない。その上、相手は剣の道を志し、体格にも恵まれている。力ではとても敵わない。魔法を使うくらいしか対抗手段がないが、そこまですると婚約自体が終わりかねない。

 キスくらいで満足してもらえないだろうか。でも私室で二人きりの状況で、殿方はそれだけでガマンできるものだろうか。

 

 いろいろと心配事はあったが、ここで留まっていても仕方ない。リフィネディアは意を決し、扉をノックした。

 すぐにヴァーライルが扉を開けてくれた。

 

「……ああ、リフィネディア。よく来てくれたね」

「はい。お招きに与り光栄です」

「さあ、部屋に入ってくれ」

「失礼いたします」


 リフィネディアはきちんと作法に則り、礼をしてから部屋に入った。

 広々とした部屋だった。ベッドに勉強机に本棚。来客を迎えるためのテーブルを囲むソファーもある。部屋の調度品はどれも落ち着いた高級感がある。

 奥の壁には様々な剣が飾られていた。どれも細かな美しい装飾が施されている。実戦用ではなく観賞用の置物なのだろう。

 剣を志す伯爵子息の部屋としては、おおむね一般的な部屋といった感じだった。

 

 ヴァーライルに促されるままソファに着く。ヴァーライルは対面に腰を下ろした。そのタイミングに合わせたようにドアがノックされ、ヴァーライルが入室を許可するとメイドが入ってきた。メイドは二人分の紅茶を出すと、一礼して速やかに部屋を立ち去った。

 

 紅茶の香りにリフィネディアは少し安堵した。いい茶葉だ。そしてその茶葉の風味を増す淹れ方も見事だ。さすがブロゼルフ伯爵家のメイドだ。

 少し気持ちが落ち着くと、ヴァーライルの様子をうかがう余裕ができた。いつも精悍な面持ちの彼だが、今日はなんだかその顔に暗い陰が差していた。甘い雰囲気も下卑た情熱も感じられない。下心をもって婚約者を呼び出した子息には見えなかった。

 

 がっしりとした体つきの男性が肩を落とす姿にはなんだか不安をかき立てられるものがある。リフィネディアは漠然と、戦場から訃報を受け取る時はこんな感じなのかもしれないなどと思った。


「君に告白しなければならないことがある……」


 沈んだ声でヴァーライルは切り出した。本当に誰かの訃報が告げられそうな空気に、リフィネディアは身を固くした。

 

「まずはこれを見てほしい」


 そう言って取り出したのは一つの魔道具だった。

 リンゴくらいの大きさの球体と、それを支える台座。球体は深い青に染められ、いくつもの星が刻まれている。

 

 魔道具『夜空の星々のように(スイートスター・)思い出は輝く(リメンバランス)』。

 

 心に残る映像を、球体に刻まれた星の数だけ記録する魔道具だ。使用者の思い入れが深ければ深いほどその映像の精度は高まる。

 便利な魔道具だが、記録の精度に信頼がおけないため公式の場で使われることはない。

 ちょっとした旅先で見た美しい光景を残したい、晴れがましい祝いの席の光景を残したい、恋人との記念日の思い出を残したい……そういった個人的な思い出を残すために使われる。リフィネディアもよく知る魔道具だった。

 

 ヴァーライルが魔道具を操作すると、映像が浮かび上がった。

 映し出されたのは花畑の中で花冠を編む、ハニーブロンドの髪のかわいらしい少女だった。


「これは私の妹、ネスティリーネが花畑で初めて花冠を編んだときの姿だ」

「これは見事ですね……」


 リフィネディアは感嘆の息を漏らした。

 魔道具『夜空の星々のように(スイートスター・)思い出は輝く(リメンバランス)』の映し出す映像は曖昧なものになりがちだ。どれだけ鮮烈な旅の思い出でも、背景がぼやけていたり周囲の人々の服装がその国の物でなかったりすることがある。白黒の映像しか残せないこともある。思い入れによって変動するという性質から制御が難しい。便利ではあるがそういう欠点を持つ魔道具だった。

 

 だが、今映し出されている映像は驚くべき美しさだった。極めて現実感のある鮮やかな色彩。その映像の細かさも凄まじい。周囲の花の一本一本の種類が分かり、ネスティリーネの髪の毛一筋の流れすら伝わるほどだ。並の思い入れの深さではここまでの映像は記録できないはずだ。

 ヴァーライルは魔道具を操作し、次々と映像を浮かび上がらせていった。

 

 粉雪の舞い散る中、笑顔で舞う少女。

 人形相手に真剣な顔でおままごとする少女

 得意げな顔でホットケーキを切り分ける少女。

 自分より大きなモフモフの犬に抱き着く少女。

 木刀を持とうとして、重くて持ちあがらなくて泣きべそをかいている少女。


 いずれもが彼の妹ネスティリーネであり、どれもが色鮮やかで精度の高い映像だった。

 これにはリフィネディアも感服するしかなかった。彼女も『夜空の星々のように(スイートスター・)思い出は輝く(リメンバランス)』を所持している。記録した映像は全て愛する弟の姿である。

 ヴァーライルの披露した映像の数々は、質も量もリフィネディアのものに引けを取らないものだった。

 

「この魔道具は思い入れが深ければ深いほど記録の精度が上がる。これまでの映像を見てもらえばわかるかと思うが、私は妹を深く深く愛している」

 

 リフィネディアは深々と頷いた。言葉はいらない。疑う余地のない真実だった。


「君のサステラーズ伯爵家との縁談は、最初は妹のネスティリーネが受けることになっていた。だが、妹には早すぎる縁談だと思った。そんな理由で縁談を断れば両家の関係は悪化する。そこで私が代わりに受けることにしたのだ」


 どこかで聞いたこのあるようなことを話し始めた。リフィネディアにとって、すごく身に覚えのある内容だ。


「君のことを好きだから婚約を受けたというのは嘘だったんだ。私のことを慕ってくれている君のことを騙したままに付き合ってきた。すまなかった!」


 そう言ってヴァーライルは頭を下げた。

 貴族子息が自分から貴族令嬢に対して頭を下げる。プライドを大事にする貴族がなかなかできることではない。彼はそうまでして誠意を見せてきたのだ。

 

「どうか頭を上げてください。頭を下げる必要などないのです」

「必要はない……それはどういうことなのだろうか?」

「実は私も、同じような理由でこの縁談を受けることにしたのです」


 そうしてリフィネディアもまた、自らの事情について話した。

 この縁談の話が最初に弟のベルデューロに来たこと。弟には既に想い人がいたので、自分が縁談を受けることにしたこと。これまでヴァーライルを慕う態度をとってきたのは、この縁談を破談にしないためであり、すべては愛する弟を幸せにするためのことだったと、包み隠さず話した。ヴァーライルの誠意に応えるには事情をつまびらかにしなければならなかった。

 

 話しながら、リフィネディアは己を恥じた。この婚約関係を維持することばかり考えて、婚約相手の心情に想いを馳せることができていなかった。だがヴァーライルはそこに至っていたのだ。

 肉親への愛情の深さで負けたつもりはない。だが、人間的には負けた気がした。


「なんと、そういうことだったのか……」


 これまで暗い陰を纏っていたヴァーライルの顔がようやく明るさを取り戻した。リフィネディアは口元に温かな笑みを浮かべ、そんな彼を見つめた。


「私たちは似た者同士でしたのね」

「実に奇遇な話だな。だが、こう言っては変かもしれないが……なんだかホッとした」


 ヴァーライルは、はーっと長いため息を吐いた。


「それにしても……まさか学園でも一番と呼ばれる品行方正な令嬢が、そこまで弟を愛しているとは思わなかった」


 その言葉に、リフィネディアは花のように上品に微笑むと、誇らしげに語り始めた。


「私が礼儀作法に気をつけるようになったのは、弟への愛ゆえです。幼いべルデューロがハイハイで近づいてきたとき、かわいさのあまり取り乱してしまいました。いかに弟が可愛くても、礼節を忘れては姉失格。そこでわたしは、礼儀作法で自分を律することとしたのです」


 それはリフィネディアにとって誇るべき成果だった。

 彼女はただ弟への愛だけで、淑女の鑑と謳われるまで至ったのだ。

 

「私の剣の腕も、妹を想ってのことだ。ネスティリーネをいつでも守れるようになりたい……その一念から剣を学び始め、ついに学園一と言われるまでに至った。国の大事とあらば、喜んでこの剣を王に捧げよう。だがそれは、この王国に妹がいるからなのだ」


 それはヴァーライルにとって誇るべき成果だった。

 彼はただ妹への愛だけで、学園一の剣の使い手と謳われるまでに至ったのだ。

 

 二人ともこのことを他人に話したことはなかった。

 二人の愛は、友人どころか親に話してもなかなか理解してもらえない。かと言って、愛する弟妹に対して語るようなことでもなかった。だから語る機会がなかった。

 しかし今、同じ道を行く者が目の前にいた。


 お互いに見つめ合い、うなずき合った。

 そして、ヴァーライルはすっと右手を差し出した。

 

「私たちは生まれも愛する相手も違うが、弟妹を想う気持ちは同じ。これからも婚約者として協力し、この縁談を成功に導こう。我が妹ネスティリーネの名に懸けて、婚約者としての義務を全うすることを誓おう」


 リフィネディアは彼の右手を固く握り返した。


「はい。我が弟ベルデューロの名に懸けて、婚約者としての義務を全うすることを誓います」


 二人はかつてない充足感を覚えた。

 これまで兄弟・姉妹のいる子息や令嬢とは何人も出会ってきた。だが自分ほどに深い愛を持った者はいなかった。

 生まれて初めて出会った、真の意味で同格の相手だった。

 

 だが、その安堵もわずかなことだった。すぐに疑問がわいてきた。

 本当に同格なのだろうか。相手の愛は、本当に自分と全く同じレベルのものなのか。

 その疑問が浮かぶと、確かめずにはいられなくなった。

 口火を切ったのはリフィネディアだった。

 

「実に素晴らしい妹君の記録を見させていただきました。ですがわたしも『夜空の星々のように(スイートスター・)思い出は輝く(リメンバランス)』を所持しています。そこに記録された我が弟ベルデューロのかわいらしさは、今見た妹君の可憐さに劣るものではありません」


 上品な微笑みで、しかしきっぱりと語るリフィネディア。さすがにその言葉にはヴァーライルも黙っていられなかった。

 

「ほう、それは素晴らしい! ならば次は君の家に赴き、ぜひ見せていただきたい! だがしかし。君の愛の深さを疑うわけではないが、我が妹ネスティリーネに劣らないとは、少々身内びいきがすぎるのではないかな?」


 リフィネディアは口角を上げた。あくまで上品な表情を保ったまま、笑みを深めた。それは全力での舌戦を開始する覚悟を決めた令嬢の顔だ。


「弟のかわいらしさときたらまさに天使でした! 弟の誕生日に天使降臨の記録がないのかと、教会で何度も調べましたわ!」

「我が妹のかわいらしさは、やがて女神に至るだろう! 私の方こそ、妹の誕生日が女神生誕記念日ではないのかと、何度となく教会に問い合わせたものだ!」

「魔道具の記録などなくても、私ならば弟のかわいらしさを、自らの言葉と声で表現してみせましょう!」

「私の方こそ、たかが魔道具一つで妹のかわいらしさを表現し切れたなどと、おごるつもりはない! 君がそのつもりなら、私も自らの言葉で妹の魅力を語ってみせよう!」


 こうして二人は自らの愛する者について、全力で自慢し合った。

 

 日が暮れても二人の自慢し合いは続いた。夜が更けて夕食の時間となった。貴族らしく静かに上品に夕食を摂ったあとは、再びヴァーライルの私室で言葉をぶつけ合った。

 それは激しい議論ではあった。しかし、相手を打ち負かそうとする意志はあったものの、悪意も怒りもなかった。

 愛する者について友人たちに語ると、小一時間もしないうちに誰もが辟易して退散してしまう。こんなにたくさんの言葉、長い時間、話すことができたのは初めてだ。どれほど深く愛を語ろうと、相手はそれ以上に深い愛の言葉で返してくる。そのやりとりがどうしようもなく楽しかった。


 語るうちに夜も更けて、リフィネディアはブロゼルフ伯爵邸に泊まらせてもらうことになった。

 

 翌朝早く、リフィネディアは出立することとなった。婚約者の家に初めて遊びに来て、朝帰りだけでもあまりいいことではない。その上、のんびりするわけにはいかなかったのだ。


「実に楽しい時間でした」

「ああ、こちらも楽しかった」

「では、ヴァーライル様。学園ではこれまで通りの付き合いといたしましょう」

「ああ、承知している」


 それは昨晩の語り合いのなかで決めたことだ。

 急に距離を縮めては周囲の不審を招くことになる。縁談を成功させるにはそうした不安要素は極力排除しなければならない。

 これまでの付き合いは学園で評判がいいようだった。弟妹について語り合うことは今後も二人きりの時にすることにして、それ以外は現状維持に努めることにしたのだ。


「全てはこの縁談を成功させ、我が妹と君の弟の安寧のために」

「共に力を尽くしましょう」


 二人はがっちりと握手を交わした。そこに男女の間につきものの甘い気配は微塵も無かった。

 まるでドラゴンの戦いを前にした冒険者パーティーが交わすような、熱情と信頼の込もった握手だった。




 リフィネディアは昼前にはサステラーズ伯爵邸に帰って来ることができた。

 ブロゼルフ伯爵領とサステラーズ伯爵領の間には転移魔法陣が作られていたので早く帰ることができた。そうでなければ週末の休みにちょっとお邪魔する、といったことは難しかっただろう。


 昼食を摂りながら両親に今回の訪問について話した。話が合って夜更けに至るまで話が盛り上がったために泊まらせてもらったと報告すると、両親はとても喜んでくれた。一応嘘は言っていない。

 

 そのあとは弟のベルデューロを私室に招いた。

 本来、休日はベルデューロと過ごす大切な時間だ。今回はヴァーライルの家への訪問に費やしてしまった。

 あの訪問は意義あるものだった。ヴァーライルの事情を知ることができたし、協力関係を結ぶこともできた。

 それでも弟との時間に比べられるものではない。弟妹トークで気持ちが盛り上がったこともあり、弟へ触れ合いたい欲求は高まっていた。学園への経路は転移魔法陣で短縮できるから、明日の朝まで家にいられる。一秒たりとも無駄にはできなかった。


 やがて、小気味いいノックの音がした。その響きだけで、リフィネディアにはノックするかわいらしい弟の姿が精密に想像できた。

 

「どうぞ」


 弾む声を抑えて入室を促すと、天使のようにかわいらしい男の子が入ってきた。リフィネディアの最愛の弟、ベルデューロだ。

 明るいグレーのやわらかな巻き毛は、どんな高級な織物より柔らかだ。輝く碧の瞳のきらめきを前にしたら、どんな宝石も色あせるに違いない。あどけなさの残る顔。ふっくらした頬は瑞々しく、ほおずりすればどんな回復魔法にも勝る癒しが得られる。

 やはり弟はかわいい。世界一かわいい。リフィネディアは改めて確信するのだった。

 

「よく来てくれました、わたしのかわいいベルデューロ!」

「姉様ーっ!」


 リフィネディアが両手を拡げ迎えると、ベルデューロはその胸に飛び込んだ。

 いつものハグ。学園に入学する前は最低でも朝、昼、晩の三回はハグしていた。入学後は休日だけしかできなくなった。

 回数が少なくなったからこそ、気持ちを込める。ぎゅっと、ぎゅーっと、愛する弟を抱きしめる。そして弟の頭を撫でる。指先から伝わる弟の柔らかな髪の感触は、いつも心に安らぎをくれる。

 慣れたいつもの幸せは、しかしすぐに終わった。不意に弟の身体がこわばったのだ。

 

「どうしたのですか?」

「……姉様、他の家の匂いがします」

「え、そうですか? ドレスも替えたし香水もつけ直したのですが……」


 リフィネディアも少し匂いをかいでみるが、特に変わった感じはしない。


「姉様は、婚約者の方が大事になってしまったんですね……」


 ベルデューロが寂し気な声でそんなことをつぶやいた。リフィネディアの胸がきゅんと締め付けられた。これまで弟を最優先して生きてきた。他の異性には目もくれなかった。

 だから初めて見た。世界一かわいい弟が見せた新たな一面、「嫉妬」。


「心配することはありません。たとえ結婚して、子供ができても孫ができても……いつだってわたしにとっての一番は、ベルデューロです!」

「本当?」

「ええ、もちろんです!」


 リフィネディアはぎゅっと少し強めにベルデューロを抱きしめた。弟もぎゅっとしがみついてきた。

 姉の婚約相手に嫉妬する弟。なんてかわいいのだろう。まだ自分の知らない可愛さを見せてくれるとは思わなかった。弟のかわいさは無限の可能性を秘めている。

 これでまたヴァーライルに自慢するネタが増えてしまった。リフィネディアは次の弟妹トークが楽しみになった。




 そして再び学園生活が始まった。

 リフィネディアとヴァーライルは今まで通りの付き合いを続けた。たくましい貴族子息に、しとやかな貴族令嬢がそっと寄り添うという清く尊いお付き合い。

 だがひとつ、変わったことがある。週に何度か、二人っきりの場を作り、熱い弟妹トークを繰り広げるようになったのだ。

 

 これは周囲をざわつかせた。手も触れあわないほど清い付き合いをしている二人が、示し合わせて姿を消すのだ。何をしているか誰もが想像せずにはいられなかった。

 

「実は見た目より関係が進んでいるのかもしれない。二人っきりのときはきっとあんなことやこんなことを……!」

「汚らわしい妄想をするな! 二人は清い交際を続けているはずだ!」


 生徒たちは「正統純潔交際派」と「隠れ不純交際派」に分かれ、裏で激論を交わし合うのだった。

 

 

 

 そうこうするうちにリフィネディアの弟の婚約も決まった。ベルデューロの想い人、子爵令嬢ミルディージア・グレマトリアルと正式に婚約し、お付き合いすることになったのだ。

 子爵令嬢ミルディージアは亜麻色の髪の落ち着いた雰囲気の令嬢だ。ベルデューロとは同い年だが、すこし大人びて包容力を感じさせる乙女だった。

 二人がいっしょにいる様は初々しくかわいらしいものだった。

 

 学園の昼休みなど、二人がいるのを見かけることがあった。そのたびにリフィネディアは近づきたくなった。だが、それはできなかった。

 近づけば婚約者に対して、弟のかわいさについて何時間も語ってしまうことだろう。そうすればドン引きされてしまうことくらい、リフィネディアでもわきまえていた。だからこそ干渉するのは弟の結婚後と、固く心に誓っていたのだ。

 しかし、理性だけで湧きあがる想いを抑えきれるはずもなかった。

 そんな時はヴァーライルを伴って人気のない校舎裏や空き教室などに駆け込んだ。

 

「かわいいかわいい、かわいいーっ! ちょっとはにかんだあの恥ずかし気な顔、最高っ! 最高すぎますっ! わたしの弟こそが最強です!」

「それは浅慮というものだ。君は知らないのか? 恋する乙女と言うものは驚くほど美しくなるのだ。妹はまだ婚約者がいないのにあのかわいらしさ。伸びしろは無限大だ」

「それでもわたしのベルデューロの方がかわいいんです!」

「いいや、私のネスティリーネの方がかわいい!」


 防音の結界を張った上でお互いの弟妹への想いを叫び合った。おかげで気持ちが発散できた。リフィネディアは理解のある婚約者ができてよかったと心底思った。

 

 こうして二人がそろって姿を消すことが更に増えた。そのことにより「隠れ不純交際派」が勢力を増し「正統純潔交際派」がピンチに陥ったりするのだが、それは二人のあずかり知らぬことである。

 

 学園生活は穏やかに過ぎていった。裏での噂はどうあれ、リフィネディアとヴァーライルは貴族らしい清く正しい付き合いを続けていた。リフィネディアの弟ベルデューロも、婚約者との付き合いを順調に続けているようだった。

 

 そして夏季休暇も近づいたころ。学期最後の夜会。そこで、事件は起きた。

 

 


「僕はこの伯爵令嬢ネスティリーネとの間に真実の愛を見つけた! 子爵令嬢ミルディージア! 君との婚約は破棄させてもらう!」


 学期最後の日に催された学園の夜会。和やかな空気に包まれた中、突如その宣言が会場を走り抜けた。

 リフィネディアは耳を疑った。その声はまぎれもなく、愛する弟・ベルデューロのものだったのだ。

 ヴァーライルは目を疑った。距離があっても彼が見紛うはずもない。宣言の場に彼の妹・ネスティリーネの姿があったのだ。

 二人は急いで宣言の場に駆け付けた。そして信じられないものを見た。

 

 婚約破棄の宣言をしたのは、リフィネディアの弟・ベルデューロだった。

 その隣に寄り添うのはヴァーライルの妹・ネスティリーネだった。

 そして対峙するのは、ベルデューロの婚約者、子爵令嬢ミルディージアだったのだ。

 

 リフィネディアにもヴァーライルにも予想外の出来事だった。こんなことが起きるだなんて、今の今まで夢想すらしていなかった。

 だが、弟妹のこととなると力を発揮する二人だ。

 リフィネディアはベルデューロの表情と立ち位置から全ての事情を覚った。ヴァーライルもまた、一瞥しただけで、妹の真意を読み取った。

 二人は見つめ合いうなずき合うと、すぐさま行動に移った。

 

 まずリフィネディアが動いた。

 ベルデューロとネスティリーネの前に立つと、二人を背にし、優雅に一礼した。そして会場の皆に向け言葉を放った。

 

「夜会にお集まりの皆様、お騒がせいたしました」


 洗練された所作によく響く落ち着いた声。先ほどの例外的で型破りな宣言とはまるで性質の異なる、完璧な礼儀作法に基づく言葉。礼節を重んじる貴族の生徒たちは、リフィネディアの所作と言葉の、その完璧さに一瞬で呑まれた。


「ただいまの婚約破棄の宣言は、わたしこと伯爵令嬢リフィネディア・サステラーズと、伯爵子息ヴァーライル・ブロゼルフが預からせていただきます。正式なことは新学期にお知らせいたします。ただいまの宣言は夜会の余興としてお聞き流しくださいますようお願いいたします」


 しんと静まり返った会場に、その声は染み渡るように響いた。

 その間にヴァーライルはほとんど音を立てず、無駄のない動きでベルデューロとネスティリーネに迫った。剣で鍛え上げててきた屈強な肉体で、二人を傷つけることなく容易くとらえた。

 リフィネディアは次に、弟の婚約者、子爵令嬢ミルディージアに頭を下げた。


「ミルディージア嬢、大変失礼しました。後日、正式に謝罪に伺います」

「は、はい」


 戸惑いながらどうにかそう答えるミルディージアに、リフィネディアは彼女を安心させるように上品な微笑みを向けた。

 そしてリフィネディアとヴァーライルは、ベルデューロとネスティリーネを連れ、颯爽と会場を去った。

 声をかける隙も暇も与えずに、婚約破棄の宣言はリフィネディアとヴァーライルによって収められてしまったのだった。




 会場を後にすると、四人は夜会の会場脇に設置された控室の一つに入った。

 扉を閉めるとリフィネディアは控室に備えられた魔道具に魔力を注ぎ、防音の結界を発動させた。貴族は密談を要することが多く、こうした部屋にはこの種の魔道具が備えられているものなのである。

 

 テーブルを挟み向かい合って座る。

 並んで座るリフィネディアとヴァーライルの対面に、ベルデューロとネスティリーネが座る。

 ベルデューロとネスティリーネは拗ねたようにそっぽを向いていた。対して、リフィネディアとヴァーライルは口も開かず、ただじっと二人のことを見つめている。

 やがて沈黙に堪えられなくなったのか、ベルデューロが言葉を発した。

 

「僕の婚約破棄の宣言をどうして邪魔するの!? やっぱり僕の事より、婚約者の方が大事になっちゃったんだ!」


 肩をいからせ不満をあらわに叫ぶ弟に対し、姉はただ静かに微笑んだ。今見せた弟の怒りをまるで意に介していない上品で落ち着いた微笑みだった。

 いつもリフィネディアが弟に向けるのは、温かで柔らかな笑顔だけだった。あまりに冷たく落ち着いた姉の姿にベルデューロは鼻白み、続く言葉を失った。

 リフィネディアはゆるやかに、だが決然と言葉を発した。


「ベルデューロ。わたしにとってはいつだって、あなたのことが一番大事です。もしあなたが本当に真実の愛を見つけたのなら、わたしは王国全てを敵に回してでもその成就に力を尽くしたことでしょう。でも残念ですが、それはできません。あなたの愛が偽りだからです」

「ぼ、僕の愛が偽りだって!? 姉様にどうしてそんなことがわかるの!? 僕は本当にネスティリーネのことが……」

「だって、うらやましかったのでしょう?」


 姉の確信に満ちた言葉に遮られ、ベルデューロは言葉を続けることができなくなった。


「あなたは姉様のものをすぐ欲しがります。それでいつも与えてしまったわたしも悪かったのでしょうが、それでもこれは看過できません。わたしがヴァーライル様と仲良くしているのがうらやましくて、その代わりとして、ネスティリーネ嬢と付き合おうとおもったのでしょう? それは真実の愛ではありません。子供の駄々です」


 ベルデューロは消沈して顔を伏せた。言葉を返すことすらできない。リフィネディアの言ったことは正鵠を射ていたのだ。

 リフィネディアは弟を愛している。弟の考えそうなことは全て想定できる。婚約破棄の宣言の場で、一目でこの真相に気づいていた。だから動揺することもなく、あそこまで落ち着いた態度で事を収めることができたのだ。


 ヴァーライルは彼女の言葉に深々と頷くと、彼の妹・ネスティリーネに目を向けた。

 

「お前も同じなのだろう、ネスティリーネ? 私がリフィネディアと仲良くするのが面白くなくて、自分も同じことをしてやろうと思っただけで、ベルデューロ殿のことを本当に愛してなどいないはずだ」


 ネスティリーネは頬を膨らませそっぽを向いた。何も言い返さない。それはつまり、言い返せる言葉が無いということだ。

 

「ネスティリーネ、ちゃんとこちらを向きなさい」

「それだけじゃありませんわ! ミルディージアはわたしにイジワルしたんですわ! 婚約破棄されて当然ですわ!」


 ネスティリーネはバン、とテーブルを叩いて言い返した。まなじりを吊り上げ、その瞳は怒りに燃えていた。

 そんな妹の怒りを受け止め、ヴァーライルは深々とため息を吐いた。


「いや、それは大げさだ。ミルディージア嬢は、せいぜい自分の婚約者に近づくお前にちょっと注意をした程度なのだろう?」

「な、なんでそんなことがわかりますの!?」

「もし本当にひどい意地悪をされたのなら、お前は私に泣きついてきたはずだ。それが無かったのだから、それしか考えられない」


 そう指摘されると、ネスティリーネは途端に口ごもった。妹をこよなく愛する兄には、彼女の心の動きまでお見通しだったのだ。


「貴族にとって婚約とは家同士の大切な契約。それを姉様への嫉妬で反故にするなんて許されません。わかっていますか、ベルデューロ?」

「そうだぞ、ネスティリーネ。嘘を言って相手を陥れるなんていけないことだ。こういうときはどうすればいいかわかっているね?」


 弟妹のために婚約を結んだ姉と兄が、自分たちのことを棚に上げて二人の婚約破棄を責めた。

 ベルデューロもネスティリーネも、姉と兄が婚約した本当の理由は知らない。自分たちの考えを全て暴かれ、いつもやさしい顔しか見せない二人に責められた。もはや二人には抵抗する意志も手段も残っていなかった。

 

「僕が悪かったです! ごめんなさい、ごめんなさい姉様!」

「うううっ……嫌いにならないでぇ……ごめんなさい兄さん、うえええええん……!」


 ベルデューロもネスティリーネも、涙をぼろぼろと流しながら謝った。泣きじゃくるその姿は幼い子供そのものだった。

 そんな二人を目にすると、リフィネディアもヴァーライルもたちまち厳しい顔を崩した。


「ちゃんと謝れましたね! えらい! それでいいんですのよベルデューロ!」

「なんて素直な子だ! 嫌いになんてなるものか! 愛しているぞ、ネスティリーネ!」


 リフィネディアとヴァーライルは謝罪する弟と妹をやさしく抱きしめた。

 ちょっと厳しい態度を見せても、やはり甘い姉と兄だった。




 翌日から夏季休暇が始まった。

 リフィネディアとヴァーライルはすぐさま両伯爵家の会合を開き、事の次第を説明した。

 当主たちはベルデューロとネスティリーネの幼さをわかっていたので、すぐに事情を理解してくれた。

 夜会で宣言された婚約破棄宣言だが、即座にリフィネディアたちが事態を収拾したこともあり、サステラーズ伯爵家もブロゼルフ伯爵家も大きな問題にしないこととなった。

 

 念のため、関係する家には今回の件を大事にしないよう取り計らってもらうように書状を出すこととなった。


 それらの方針が決まったところで、次は弟の婚約者の家、グレマトリアル子爵家に向かった。

 まずは姉・リフィネディアと弟・ベルデューロ、そして兄・ヴァーライル、妹・ネスティリーネの四人で訪問して事情を説明した。そして子爵令嬢ミルディージアに謝罪した。

 まずこの四人で事情説明と謝罪を行い、それから各家の当主間で協議して補償をどうするか決めるという段取りだった。

 ミルディージアは怒りを見せることはなく、心を傷つけられた様子すら見せなかった。


「謝らなくていいんですよ。ベルデューロ様が本当に浮気したのではないことはわかっていました。お姉さんがとられると思ってあんなことをしてしまったんですよね? そういう純真なところも、ベルデューロ様の素敵なところなのだと思います」


 おだやかな笑顔を浮かべてそんなことを言った。ベルデューロは顔を真っ赤にしてぺこぺこと何度も頭を下げていた。いろいろな意味で恥ずかしくなったらしい。そしてちょっと嬉しそうだった。

 こうして今回の婚約破棄は、グレマトリアル子爵家でも問題としないこととなった。

 

 関係者全員が安堵する中、リフィネディアはただ一人、危機感を募らせていた。弟と相性のいい令嬢を選んだが、子爵令嬢ミルディージアは予想より器の大きい人物だった。本気で弟を取られてしまうかもしれないなどと、今さらながらに実感したのだった。

 

 こうして今回の婚約破棄について、関係する家の間では解決した。あとは学園の方だが、今は夏季休暇だ。休み明けの全校集会で、あの婚約破棄は気の迷いで、両伯爵家でも無効の扱いとなったと報告することにした。

 婚約破棄の場を預かったのは学園内でも評価の高いリフィネディアとヴァーライルだ。こちらも問題なく収まることになるだろう。

 

 こうして今回の婚約破棄の騒動は、問題なく収束することになったのだった。

 



 婚約破棄に関する対応がひとまず終わったころ。

 再びリフィネディアはヴァーライルの私室に招かれた。

 

「今回は本当にありがとうございました。ヴァーライル様がいなければここまでうまく事を収めることはできなかったでしょう」

「こちらこそ感謝している。君がいなければ、もっと事態は厄介なことになっていたに違いない」


 お互いに感謝し合ったあと、紅茶の香りを二人で楽しんだ。

 落ち着いたところで、リフィネディアはしみじみとつぶやいた。

 

「それにしても……今回は痛感しました。わたしは弟がかわいいあまりに甘やかしすぎていたのかもしれません。弟を愛するのなら、もう少し厳しくすることも必要だったのでしょうね」

「ああ、そうだな。私も深く反省した。妹がどんなにかわいくても、貴族としての在り方はきちんと教えるべきだったのだ」

「弟がよりよい貴族になれるよう、これから一層気を引き締めたいと思います。でも……どうしても弟に対しては甘くしてしまいそうです。わたしが間違えそうになったら、ご指摘いただけますか?」

「もちろんだ。それについては、こちらからもお願いしたいと思っていたのだ。私が妹に甘くし過ぎた時には、どうか指摘してほしい」

「ええ、承知いたしました」


 二人は頷き合った。すると、どちらともなく笑いが漏れた。ホッとしたら、なんだかとても楽しい気持ちになったのだ。


「あなたと婚約して本当によかったと思います。友人たちには姉の愛というものがなかなか理解してもらえません。こんなこと、あなたにしか頼めませんもの」

「私も同じ思いだ。君が婚約者でよかった。妹を愛する兄の心情というものを、本当の意味で分かってくれるのは君だけだ」


 ヴァーライルは、あの日、婚約の真相を明かしたときのように手を差し出した。

 リフィネディアはニコリとほほ笑むと、その手を取った。


「全てはわが愛しい弟と、あなたの素敵な妹君のために!」

「全てはわが愛しい妹と、君の素晴らしい弟君のために!」

「これからもよろしくお願いいたします!」

「こちらこそ、よろしく頼む!」


 二人はがっちりと固い握手を結ぶのだった。

 

 

 

 こうしてべルデューロとネスティリーネの婚約破棄は未遂に終わった。すべては丸く収まったように見える。だがリフィネディアとヴァーライルは、二人そろって見落としていることがあった。

 

 ひとつは、この婚約破棄を事前に察知できなかったことだ。

 弟妹を深く愛する二人が、その心情の機微を見落とすことなどありえない。学園に通うようになって接する時間が減ったとしても、本来ならもっと未然に察知できていなければおかしいのだ。


 もう一つは、婚約破棄に対して厳しい態度をとったことだ。

 本来の二人であれば、叱るような態度はとらなかった。もっと甘い態度で、弟妹に敵対する態度などとらず、寄り添いあやすようにして、ゆるやかに軌道修正していたはずなのだ。

 

 これら二つのことは、この二人にとって異常なことだった。しかし二人その異常性に気付かない。

 

 お互い共通の事情を持ち、弟妹に対する愛を思う存分に気兼ねなく話せる存在。学園では時間の許す限り共に過ごし、そして時には二人きりとなって激論を交わす。そんな相手との付き合いが楽しくないわけはない。それに夢中になるあまり、婚約破棄が宣言されるまで弟妹の企みに気づけなかった。

 

 そして弟妹を叱る態度をとったのは、リフィネディアもヴァーライルも、お互いのことを大事な存在だと思うようになったためである。

 これまで二人にとって大事な存在は一人だけだった。それが二人に増えたことで、無意識に比べるようになった。そのことにより、弟妹のことを少しだけ客観的に見ることができるようになったのである。

 視点を変えればこれまで弟妹を甘やかしすぎていたことは明白だった。そして婚約破棄という不始末を前にしたことで、厳しくしなければならないという考えに至ることができた。だから叱ることができたのである。


 リフィネディアとヴァーライルはお互いを同志と認め、深く信頼し合っている。そのせいで、その先を考えることができていない。異性として惹かれ合うという、ごく当たり前の可能性に考えが至らない。

 

 二人がお互いの本当の気持ちに気づくのは、しばらく先のこととなる。

 結婚式の後。初夜の場。何も隠せず取り繕えない状況になって、ようやく初めて、弟妹のためだけでなく、お互い深く愛し合っていることに気づくのである。

 

 その時が来るまで。二人は、仲の良い婚約者を演じているつもりでいるのだった。

 


終わり

「弟のために望まない婚約をする令嬢」というネタを思いつきました。

でも悲劇にはしたくなかったのでコメディ調にするべくキャラや設定を詰めていったらこういう話になりました。

当初の想定より文章量が増えてしまいましたが、なんとかまとまってよかったです。


2024/7/11 22時頃

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。


2024/7/12、7/13

 誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!

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