神様が見える人
林の中の小社にも、朝の散歩ついでといった風に、社の周りのごみ拾いなんかしてくれる人達が数人いた。氏子という程信心してくれるわけではないが、社は子供達の遊び場の1つと認識されていて、町の公共物の美化と思われているようだった。
そんな風に訪れる中に1人の女性がいた。小さな頃から他の子供達と一緒に時折訪れていた人。社の回りでよく鬼ごっこやかくれんぼをしていたっけ。皆、大きくなるにつれ、訪れる仲間も1人減り2人減りしていった。そしてあの頃一緒に来ていた子供達の姿がなくなっても、その女性だけはずっと1人でも来てくれていた。特にお願い事がなくても時折お参りに来てくれる人だった。
彼女も小さい頃には何度か迷子として社に潜り込んだものだった。ただ彼女の場合、必ずしもお迎えが来るとは限らなかった。むしろ朝まで社で眠って明るくなった道を1人帰っていくほうが多かったかもしれない。お迎えに来るのは決まってお婆ちゃんで、泣くでもなく、喜ぶでもなく、いつもため息を1つついてお婆ちゃんの手を取った。帰っていく背中がひどく疲れて見えたのを覚えている。
そんな彼女も大人になり、迷子として社に来ることもなくなった。今は時折仕事帰りとおぼしき姿で夜訪れる。いつも缶コーヒーを2本いれたコンビニ袋を下げて現れる彼女。1本を社に供え、その脇に座り込むと月を眺めながら、もう1本のコーヒーを飲む。何を話すわけでもないが、きっと心の中で神様を話し相手にしているのだろう。だから御供えのコーヒーを挟んで横に座り、彼女の気が済むまで付き合う。こちらの自己満足でしかないとわかっているが、なにがしかの温もりを感じてくれたらいいな、とは思う。
「婆ちゃん亡くなったよ」
一言だけポツリとこぼした。ぎょっとして彼女の顔をみたけど、特に感情は読めなかった。
「あの頃、お社と婆ちゃんしか居場所がなかったんだー」
もうお社だけになっちゃったね、と薄く笑った。
「いつも避難場所になってくれてありがとうね」
お社の正面に周り、居ずまいを改めると手を合わせて深く頭を下げた。またね、と一言残すと帰っていった。
ある夜、彼女が持ってきたのはコーヒーではなく、缶酎ハイ。一缶を供え、その横に座り込むと自分の缶の蓋をぷしっと開けた。月のない夜。暗闇にお社のぼんやりとした気持ちばかりの明かりの中で空を見上げながら缶をあおる。
「暗闇なのに、なんでここだけ薄明かるいのかなあ」
首をかしげながらビニール袋から新しい缶を取り出す。1人ぼうっと空を見上げなから、ごくごくと音を立てて酒を飲む。いつもと違う様子に文月も音羽もおろおろするばかり。心配顔で御供えの缶を挟んだ所に膝を抱えてしゃがみこんだ。
3缶目が空になりかけたところで、
「およ?あなた達だれー?」
こちらを向いた彼女とばっちり目があった。
あ、あなた達って、俺と兎のこと?文月と音羽が目をぱちくりさせていると、彼女がにじり寄ってくる。
「聞こえてますかー?あなた達は誰でーすかー?」
完全に酔っぱらっている。何故だか文月が見えているらしい。
「見えるの?なんで?」
「はあ?見えるでしょー。あなた誰よぅ。迷子ぉ?」
答える間もなく話題がくるくる変わっていく。やだ、兎がいるー。かーわーいーいー。
「可愛いなんて、いや、それほどでも……」
やだ、兎が謙遜してるぅ。あっという間に手の中に拾い上げられ、ほおずりされんばかりになっている。
その日から神様の姿が見えるようになった女性と世間話をする仲になった。女性の名は聡子といった。はじめは聡子の話をうんうんと聞いて、スッキリして帰って貰うつもりだったのだが、気がつくと文月の弱音や愚痴を聞いて貰う方が多くなっていた。穏やかに聞いてくれる聡子。いつしか聡子が来るのを心待ちにするようになっていた。
「なんで貴女だけ、俺たちの姿が見えるのかなあ」
「うーん、もしかしたらあの世に近づいてるからかもね」
からからと可笑しそうに笑う。
「近付いてって、若いのにまだまだ遠くでしょうが」
すると彼女は首をかしげながら
「神様って、そういうのわかる訳じゃないんだ?」
私もうすぐ死んじゃうんだって。世間話のように言った。
彼女がお酒を持って現れたあの日は、病院で余命宣告を受けた日だった。若かったから、ちょっとぐらいの体調の悪さは体力でごまかしていた。疲れがたまってるのかな、なんて暢気に考えている間にどんどん進行していたらしい。さすがにこりゃいけない、1度病院にいってきっちり治すかと思った時にはもう遅かった。
あと3ヶ月くらいかなあ。前日まで普通に自力で生活してぽっくり逝くのが理想なんだけど、と微笑む。
すっかり死を受け入れている聡子は、神様に助けてくださいと願ったりはしない。余命の話をした後も今までどおり淡々と暮らしている。治療に専念すれば助からないのか?良い病院があるんじゃないかと、文月のほうがやきもきするけど、いーの、いーのと笑うばかりでいつも通りに変わらぬ毎日を過ごしているようだ。
俺に治すほどの力がないから、頼っても無駄だと思われてるのかと、落ち込む文月。
「ごめんねえ。俺、病気治癒の力はからっきしなんだよ。あ、でもでも、病に強い神様もいるし、誰か紹介して……」
「いやいやいや。要らない、要らない。気にしないで?」
両手をぶんぶん振る。
独り者だし、親兄弟との縁も薄いし、成り行きで良いと思ってるという聡子。今の穏やかな暮らしがぎりぎりまで送れればそれで満足だから、と。
「このお社に、ちゃんと神様が居てくれたのがわかって、もう十分満足したから」
両親は共働きで2人とも忙しく、家にいる時間が少なかった。その上、物心ついた時にはもう険悪な状態で、手こそ出なかったが、頭の良いもの同士の冷やかな舌戦で、家の中は冷えきっていた。娘に怒りを向けるようなことはどちらもしなかったが、温かな情愛を与えることは欠けていた。
家の空気が冷えていく度、子供部屋へ閉じ籠った。リビングから姿を消した子供を気にかけて様子を見に行くような両親ではなかった。長ずるにつれ、険悪な空気を嫌って、こっそりと家を抜け出すようになったが、両親が気づくことはなかった。幼子に夜の行く宛などない。嫌な言葉が聞こえてこない森のお社に逃げ込むしかできなかった。
夫婦の様子を心配して、時折様子をみにきた祖母だけが、抜け出す子供に気がつき迎えに来ることがあった。それもいつもいつも対応できるわけではない。
両親には私は見えていない。
だれも私を見ていない。
そんな時、お祈りしたお社の神様が願い事をかなえてくれた。ああ、見てくれる人がいると思えた。やっと自分の存在を肯定できた。
それからは家の外の世界へ早く行こうと、勉強も頑張った。社会人になって家を出て1人で暮らすようになると少し楽になった。それでも時々寂しくなるとお社に行った。手を合わせて心の中で話を聞いて貰えれば、心が安らいだ。
でももうお願いはしなかった。もし、願い事が叶わなかったら、あれは偶々で、誰も私の事を見てくれる人なんて居ないことがはっきりしてしまうと思ったから。神様が見てる。私を見ていてくれる神様が存在する。そう思いたかった。
「さとちゃん。聞いてる?」
不意に、神様が彼女の名前を呼んだ。驚く聡子。
「あれ、ちがった?子供の頃、みんなそう呼んでたよね?」
と不思議そうにする神様をみて聡子は泣き出した。神様は本当に私の事を見ててくれたんだと実感した。
「ふふふ。ちゃんと居た」
もう十分、と穏やかに笑った。
「俺、居るだけでいいって何」
そりゃあ俺、力ないから小さいことしかできない役立たずだし。病気治してあげるなんて高度なことできないし。でもでも、お社に来てくれる人ぐらい、悪いことばっかりじゃないよって、生きてればちょっとは良いこともあるよって思って欲しい。
誰もこんなちっちゃい、ちゃっちい社に期待なんかしてないだろうけどさ。
聡子の病気を知った日から、文月は1人でぐじぐじぐじぐじ言うことが増えた。言えば言うほど落ち込んでネガティブになっていくだけなのに、ついその考えに戻ってしまう。
「ぶつぶつ言い過ぎで気持ち悪いです」
ついに音羽に叱られた。
「彼女がもう悩んでないのに、拘りすぎてて、貴方ちょっとコワイです」
はいはい、気持ち切り換えましょーと、手をパンパンと鳴らす。
「でもさあ、数少ないこのお社を気にしてくれる人なのよ。大事にしたいのよ」
俺が居て良かったって言ってくれたのよ、あの人は。
「はーい、ネガティブ、ネガティブぅー。いい加減にしてー?」
兎の呆れ顔に、涙目で恨めしそうになる。
自己評価が低いタイプの文月は、地元では思いの外愛されているのだが、まったく気がついていなかった。自分を神様として認めてくれる彼女を何とかしてあげたかった。
「来ないね」
兎が言った。
「うん、来ないね」
神様が答えた。
しばらく聡子はお社に姿を見せていなかった。彼女の気配が日に日に薄くなっている気がする。具合が悪いのだろうか。このまま会えないまま居なくなるのだろうか。
我慢しきれず聡子の気配をたどり、家に様子を見に行くことにした。お社からさして遠くない所に彼女の住まいを見つけた。
トントン
扉をノックしたけど応答がない。どうしようか迷った。
「中で倒れて動けなくなってたら」
女性の一人暮らしの部屋に上がり込むのを躊躇していると、音羽が扉をすり抜けて部屋の中へ飛び込んでいった。音羽を追いかけなきゃ……と言い訳しながら文月も部屋の中へ入った。
布団に横たわる聡子。病気が進んでいたんだ。
死の間際、聡子の枕元に現れる文月と音羽。
「お願い事、ひとつしても良い?」
「もちろん」
「さすがにちょっと怖いから、死ぬ瞬間は手を握っていて欲しいな」
こと切れる聡子。文月に手を握られたまま、すうっと体から魂が抜け出す。文月は手を離そうとしない。
「離したら、あの世に行っちゃうから。俺、離すの嫌だ。これから誰が俺の話聞いてくれるの」
目に涙一杯ためて、子供のように嫌々と首を横に振った。
「行かないで。俺の眷属になって一緒に居てくれない?」
きょとんとする聡子。うーんと考え込む姿に文月は言った。
「俺、頑張るから。神様の仕事頑張って、神力強くなるから。複数眷属いたって維持できるくらい働くから」
俯いたまま一息に言ったあと、目だけそうっと上げて聡子を伺う。じーっとこちらを見ていた聡子が口を開いた。
「眷属って私も兎になっちゃうの?それはなぁ……」
ブンブンと音が鳴りそうな位首を横に振った。
「ならない、ならない。人型のまま。それなら、居てくれる?」
「私、神様業できないよ?眷属って手伝えなきゃいけないんじゃ?」
「手伝いは、俺の話し相手。俺のメンタルを支える担当で」
よろしくお願いします、と繋いだままの右手を差し出して頭を下げる。ちょっと躊躇ったあと、聡子は両手で文月の手を取った。
桜町の小学校の裏山には小さなお社がある。そこには白兎と女性を連れた人見知りの神様が住んでいる。