スプラッター落語への招待
このエッセイには残酷な表現が含まれております。
また、「胴斬り」「首提灯」「たが屋」といった古典落語へのネタバレが含まれています。
なお、本エッセイに登場する「スプラッター落語」は私の造語であり、落語界で正式に定義された物ではありません。
【枕】 スプラッター落語とは
日本を代表する伝統的話芸、落語。
皆様は「落語」と聞いて、どのような噺をイメージされるでしょうか。
子供の幸せを願うあまりに長い名前を付けてしまう親が登場する「寿限無」や、物忘れの激しい侍がコミカルに描かれる「粗忽の使者」といった、腹の底から笑える滑稽噺でしょうか。
それとも、巧みな話術で勘定を誤魔化す「時そば」や「壺算」のように、機知に飛んだ頭脳的な噺でしょうか。
私としましては、「芝浜」や「幸助餅」に代表されるような、人間同士の優しさや思いやりを描いた人情噺も、胸にジ~ンと沁みますね。
こうしてズラズラッと列挙致しました噺が、江戸や明治の昔から今日まで脈々と語り継がれてきた、いずれ劣らぬ珠玉の噺達である事は、疑いようの無い周知の事実ですね。
さて、今日では「日本の伝統話芸」としてお堅いイメージを抱かれる機会も多い落語ですが、元々は庶民に向けた大衆娯楽でした。
そのため、御子様にも安心して聞かせられるような御行儀の良い噺ばかりとは限りません。
所謂「艶笑噺」と呼ばれるセクシーな内容の噺は、それだけでCDが発売出来る程に揃っていますし、死体を乱暴に扱う「黄金餅」や「らくだ」といったブラックユーモアに満ちた噺も御座います。
そして生身の人体が無残に損壊され、切断された首や手足が血飛沫と共に飛び交う、「スプラッター落語」と呼びたくなるような凄惨な噺だって…
私は本エッセイで、落語の中でもそうした血生臭い噺について語っていきたいと思います。
とっつき易さと凄惨具合を判断基準に、「前座・二つ目・真打ち」の三段階に序列化した、三つの噺を語らせて頂きます。
【前座】 「胴斬り」
〈あらすじ〉
侍との喧嘩の末、上半身と下半身を両断されてしまった男がいました。
ところが、たとえ転ぼうが斬られようが決して只じゃ起きない所が、日本の庶民の持つ逞しさ。
男は両断された身体を活かして、上半身と下半身で別々の仕事先へ奉公する事にしたのです。
かくして上半身は火の見櫓や風呂屋の番台へ、下半身は蒟蒻踏みへと、それぞれに残された身体部位を活かせる職場へ奉公するのでした…
こちらの「胴斬り」は後述する二つよりも比較的マイルドな口当たりなので、スプラッタ落語の中でも御子様に安心して聞かせられると思います。
と言いますのも、残虐なゴアシーンを経た後日談という趣なんですね。
別々の人生を余儀なくされた上半身と下半身が、アッケラカンと前向きに生きているので、普通なら人生終了の凄惨な出来事が起きているにも関わらず、明るい後味になっているのがおススメです。
【二つ目】 「首提灯」
〈あらすじ〉
ひどく泥酔した男が、夜の街で道を訊ねてきた侍に罵詈雑言を浴びせ、挙げ句の果てには羽織の家紋に唾を吐きかけるという、無礼を演じます。
余りのやりたい放題に怒った侍は、居合いの刀風をサッと浴びせ、何処へともなく去っていくのでした。
これに気を良くした男は、侍の後ろ姿に更なる悪態を浴びせるのですが、どうもおかしい。
喋る度に、喉から空気が漏れる不思議な感覚。
恐る恐る首筋に手をやれば、血がベッタリ。
知らぬ間に斬首されていた事に気付いた男は、文字通りに頭を抱える始末…
侍への過剰とも思える悪態の景気の良さと、首を落とされた後の右往左往振りの落差が面白い噺です。
切断された首を抱えて歩き回る姿は、文字通りの「首提灯」…
しかし、想像される光景は確かに凄惨ですが、酔いが覚めた男の狼狽えるユーモラスさで、見事に中和されているんですね。
【真打ち】 「たが屋」
〈あらすじ〉
木桶や樽がバラバラにならないように固定する輪を「箍」と言います。
この噺は、箍を修理する職人さんが主人公です。
花火大会に詰め掛けた群集で大混雑な橋の上。
箍屋が群集に押され、侍とぶつかったから、さあ大変。
箍屋が幾ら謝っても、頑固な侍は「屋敷で手打ちにする。」の一点張り。
やけのやんぱち、箍屋も腹が据わりました。
悪態を散々にぶちまけ、逆上して切りかかって来た共侍の片割れを返り討ち。
そのまま刀を取り上げ、残る共侍の両腕を切り落として頭から真っ二つにするや、残るは馬上の上役との一騎打ちと相成りました。
騎乗した槍持ちの侍という不利な相手だが、箍屋には群集という強い味方がついています。
箍屋を救えとばかりに群集達がドッと詰め寄せ、馬上の上役は体勢を崩されてしまいます。
この千載一遇の好機を、たが屋が見逃すはずもありません。
刃を一閃させるや、馬上の侍の生首が空へ高々と舞い上がる!
この快挙に湧いた群集達による「た~が屋ぁぁ!」の歓声が、江戸八百八町に轟いたのでした。
箍屋が侍相手に無双する、アクション要素満載のダイナミックな噺です。
侍の首だの手足だのがポンポンと景気良く切り飛ばされ、血飛沫もバシャバシャと吹き出て、スプラッター要素も大満足。
一応、「日頃から桶の裏側を叩いていて力持ちで、江戸っ子として喧嘩慣れしている」という説明があるにしても、たかが町人でしかない箍屋が侍を三人も倒せるものなのか?
そして何より、侍三人を殺害した箍屋は、今後どのような裁きを下されるのか?
そうした疑問はありますが、このダイナミックな無双振りは、聴く者に痛快な高揚感を与えてくれます。
【サゲ】 スプラッター落語の果たした役割
こうして見ていきますと、流血したり手足や首が切断されたりといったスプラッタ落語の共通項として、「武士と町人の諍い」が挙げられます。
考えてみれば、所謂「人斬り包丁」と呼ばれている日本刀を腰間に差せるのは武士階級ですからね。
たとえ無闇に切り捨て御免は出来ないにしても、やろうと思えば人間を殺傷出来る刃物を携行している武士階級は、町人にとっては相応に威圧感のある存在だったはずです。
だからこそ「首提灯」や「胴斬り」の町人、そして箍屋は、武士に思いっ切り悪態をつくんです。
寄席の主な客層である町人達は、箍屋を始めとする落語の町人達が武士に物怖じせずに景気良く啖呵を切る姿を見る事で、自分達の中に蟠っている武士への反感を健全に発散していたのでしょうね。
特に、侍達を景気良く斬殺して無双する「たが屋」に至っては、胸のすくような爽快感だったでしょう。
-しかし、侍達を倒して終わる「たが屋」はともかく、「胴斬り」や「首提灯」の主人公は斬られてしまっているではないか。
このような御指摘もあるかと存じます。
寄席の客達や噺家達も、同様の事を考えていたでしょう。
幾らなんでも、侍に喧嘩を売ったら只じゃ済まないってね。
しかし「胴斬り」や「首提灯」の町人は、斬られて終わりではありません。
どっこい、たくましく生きているんですね。
腰を境に上下へ分断された「胴斬り」の町人は、別々に奉公する事で変化した身体へ見事対応し、斬首された「首提灯」の町人も、自分の頭を提灯みたいに高々と掲げて火事を野次馬する強かさを見せています。
こうした落語の町人達が見せる強かさや逞しさも、寄席を訪れた町人達を元気付けたに違いありません。
武士階級への不満や反発心を健全に発散させ、自尊心をくすぐるエールを町人達に送って明日への活力とさせる。
ここで挙げたスプラッター落語は、ある意味では大衆娯楽としての落語の最たる物なのかも知れませんね。
※ こちらの素敵なFAは、黒森 冬炎様より頂きました。