6 何もかもがおかしいウォータールー(ワーテルロー)の戦い
一八四二年にノルマン王国にて始まった清教徒革命。ノルマン全土を巻き込んだ争いは遂には国王チャールズ一世を処刑し革命政府が樹立した。だが混乱は続き、最終的にはオリバー・クロムウェルの台頭を招いた。
自身の率いるニューモデルアーミーと卓越した戦闘指揮でノルマンの内乱を鎮めたクロムウェルは、今度は欧州全土を席巻した。アルプスを越えてバチカン教国を屈服させ、ライン川を越えて今日のブランドル諸国を配下に治めた。
何より洋一たち秋津人にとって忘れられないのが一八五三年の九州侵攻であった。鎖国中の秋津に欧州最強の軍隊が押し寄せ、たちまち北九州一帯を占領してしまった。上陸したノルマン軍は一年ほどで撤退したが、戦乱は織田幕府の寿命を削り、ノルマン軍と向かい合っていた薩摩、長州による倒幕運動を招いてしまった。
生き残りを図るために幕府は反ノルマンの急先鋒だったブランドル王国と同盟を結んだ。その後クロムウェルのオスマン遠征と失敗、激化する討幕運動、退位したクロムウェルの復活などの紆余曲折の末、一八六七年六月十八日、このウォータールーにてクロムウェルの率いるノルマン軍とブランドル、オランダ、ワルシャワ、そして織田幕府の派遣した遣欧秋津軍による連合軍が相まみえた。
洋式調練を受けた伝習隊を中核とした織田幕府軍一万五千は、しかしこのとき最悪の状態であった。決戦の二日前に、本国にて十五代将軍織田慶信が大政奉還の後、名古屋城を明け渡したとの知らせが入ったのである。二七〇年続いた織田幕府は終わったのであった。
連合軍参謀長モルトケは意気消沈した異国の同盟軍に不安を覚えたが、クロムウェルを前に一万五千の軍を手放すわけにも行かなかった。ノルマン軍は七万二千、連合軍は六万八千。たとえ怪しかろうと使わざるを得なかった。
かくして戦史に名高いウォータールーの戦いが始まった。ワルシャワ騎兵が到着するまえに連合軍を撃破しようとクロムウェルは前進を命じた。モルトケは防御に徹し、増援が到着したら打って出る策であった。
ここでまず見込み違いが発生した。ノルマン軍の砲撃に恐れをなして、連合軍右翼、フーグモントに配置されていた秋津軍があっさりと潰走してしまったのである。彼らは九州での実戦経験が無く、異国の地で初めて欧州最強を謳われたニューモデルアーミーの火力を見せつけられたのであった。
フーグモントは煉瓦の塀に囲まれた農園であり、この戦場において数少ない障害物であった。少なくともほかのどこよりも防御に適した場所だった。
モルトケの目論見では地形を利用して全域で攻撃を受け止め、ワルシャワ騎兵の到着まで持ちこたえるはずだった。扱いにくい異国の兵たちに、一番守りやすい場所を与えたはずだった。それが碌な抵抗も見せずに潰走してしまった。どの歴史書でも「ここで記すには憚られる言葉を、モルトケは発した」と書かれるほどであった。
一方クロムウェルにとっても予想外の展開であった。両翼に攻撃を仕掛けて連合軍の増援をそこに引きつけ、機を見て薄くなった中央を突破する。それが彼の作戦であった。だがフーグモントが抵抗らしい抵抗もできずに潰走してしまったために増援を送るどころの話ではなくなっていた。
双方ともに想定外の事態に、戦場は奇妙なよどみがが漂った。ノルマン軍は予想外に早く手に入ってしまったフーグモントでとりあえず防御体勢を取ろうとするが、相手は攻めてくる様子を見せない。これでは戦力吸引の目的を果たせない。連合軍側はオランダ軍を中心に右翼に新しい戦線を構築して立て直しを図ろうとしていた。
だがクロムウェルは、オランダ軍の移動が遅いとみて作戦の変更を決意した。中央突破のために温存していた予備軍、クロムウェル旗揚げ時より彼に従うノルマン軍の最精鋭部隊、老鉄騎隊をフーグモントへ向かわせたのである。
フーグモントを起点として体勢の整わないオランダ軍を突破し、連合軍中央を側面から叩く。それがクロムウェルの狙いだった。成功すればブランドル主力を撃破し万全の体制でワルシャワ騎兵三万と対峙できる。騎兵単独であればたやすく撃破できるし、逃げたところで合流できる味方は遙かオーストリアぐらいであろう。オランダとライン同盟をを対ノルマン同盟から切り離せれば再び欧州の覇権を握ることができる。老いたクロムウェルの脳裏にはおそらく勝利と栄光の光が見えたであろう。
鉄騎隊動くの報はモルトケにも届いていた。しかし彼は予備隊を投入しなかった。どんな結果になろうとも、主力は整然と撤退しなければならない。
モルトケはすでに敗北した場合を想定していた。クロムウェルの予測とは違ってオーストリア軍七万とブランドル軍三万とバイエルン軍二万はあと二日でブリュッセルに到着する。クロムウェルが活用して欧州を荒らし回った鉄道による迅速な兵力は、モルトケたちブランドルによって研究され、更に洗練されたシステムとなった。欧州中から二週間でクロムウェルを倒すために戦力を集められる。もはや欧州の人食い虎の時代は終わっていた。
だが、ここウォータールーで敗れれば、その後クロムウェルを倒すのはオーストリア主力の軍になる。優れた鉄道システムを構築し、これまでも、そしてここでも多くの血を流したのにブランドルはそれに見合った発言力を得られない。この後の欧州での覇権と念願のドイツ地方統一のために、まとまった戦力は残しておかなければならなかった。
この状況の元凶である遣欧秋津軍は、フーグモントから半マイルほど離れた場所にいた。散り散りになった兵は集まってきたが誰も彼もが敗残兵の顔をしていた。遠く異国の地で幕府の終焉を聞き、朝廷より派遣された軍監に賊軍呼ばわりされて、そしてノルマン軍の砲火による手痛い洗礼を受けた。戦意なぞ、欠片も残っているはずがなかった。先ほどまで自分たちのいたフーグモントには続々とノルマン軍が入ってきていた。
しかしそんな中、一人の剣士が前に進み出て、刀を抜くと高らかに声を上げた。
「各々方、あれぞ我らが名古屋城ぞ」
そう叫ぶとともにただ独り、フーグモントへ向かって白刃を振りかざし駆けだした。(今日に至るまで、その人物の名前は判明していない)
銃兵の斉射が響き、その無名の剣士は陣前百歩の所で崩れ落ちた。だがそれを見ていた秋津兵全員が立ち上がった。大将の明智光弼は馬を進ませて、木瓜の旗を振りかざして叫んだ。
「これより神君信長公にお目通りじゃ。かかれ!」
そうして秋津の残兵は一斉にフーグモントへ向かって突撃した。後に「アケチチャージ」と呼ばれる常軌を逸した行動は敵味方双方を驚かせた。もちろんノルマン軍は銃と砲でそれを迎え撃つ。先頭を走っていた明智光弼を初めとして多くの兵が討死した。半数は撃ち倒されたであろう。だが残り半数がフーグモントへと斬り込んだのである。
フーグモントは二百年ぐらい前に戻ったかのような光景となった。刀を抜き放った武士たちが銃兵や騎兵に斬りかかる。ノルマン兵たちは逃げ惑ったが、老鉄騎隊は踏みとどまり、隊列を組み、逆襲にすら転じた。狭い農園の中で異様な接近戦が繰り広げられた。
(この時鉄騎隊が賛美歌を唄い、織田方が謡曲の「敦盛」で返したという伝説がある)
フーグモントでの戦闘は三十分程度だった。その短時間で双方おびただしい犠牲を出し、遂に老鉄騎隊はフーグモントから潰走した。
「鉄騎隊敗れたり」
連合軍の一部から上がった声は瞬く間に前線に広がり、大合唱となった。老鉄騎隊は常勝クロムウェルの象徴であった。これまで彼らが投入されて負けたことは一度も無い。その鉄騎隊が敗れた。その衝撃は砲弾のように兵士たちを揺るがした。
追い打ちをかけるように東の稜線上にワルシャワ騎兵の姿が現れ、ノルマン軍の側面へと襲いかかった。護国の英雄、信仰の徒、そして欧州の人食い狼、クロムウェルの野望はこうしてウォータールーにて潰えた。クロムウェル自身はパリへと脱出したが、最終的に退位し、セントヘレナ島へ流された。
そして同時に織田幕府二百七十年の最期の輝きでもあった。一万五千のうち、生き残ったのは三千に満たなかった。
モルトケの報告は彼らに対する困惑が表れていた。
「アキツのサムライは二回も戦場を壊した。一度は我々を。もう一度はクロムウェルを。自分は彼にいささかの同情の念を抱いた」
勝手に敗北して勝手に突撃して勝手に死んだ異邦で異教の同盟国を、モルトケは最後まで計りかねた。
かくしてこのウォータールーは、クロムウェルと織田幕府の終焉の地となった。