17 舞踏会の華
誰もが魅了され、尻込みする中歩を進める男に、羨望の視線が集まる。シュトラウスはそれをすべて受け止め、芝居めいた足取りで進む。
彼女の前に立ち、シュトラウスは優美に一礼する。
「一曲いかがですか。美しきレディ」
彼女は微笑みを崩さない。一秒、二秒。気が遠くなるほどの一瞬が流れた。
重たい空気をゆっくりとかき分け、彼女の手が上がった。
「ええ、喜んで」
その美しい手をシュトラウスが取ると同時に、音楽が奏でられた。
紅のドレスと紺地に白襟の軍礼服が優雅に舞う。まるで彼ら二人のために会場があるかのように大きく動く。誰もがその華麗な舞を見守った。
「お上手ですね」
女性の言葉にシュトラウスは答える。
「ブランドル将校のたしなみです。特に貴女のような方のためなら、どこまでも」
「まあ、では」
彼女は動きを一段大きくした。より伸びやかに美しく。当然難しく。それもまたシュトラウスは受けてみせる。
「こんなに気持ちよく踊れるのは久しぶり」
身体全体で舞いながらも息も切らせず彼女は云った。
「私もですよ。今日は人生最良の夜になりそうだ」
シュトラウスも余裕の表情は崩さない。
「さすがは軍人さん。沢山の軍功を上げられたのでしょうね」
彼女の視線がシュトラウスの胸に並ぶ勲章に向けられる。
「大したことはありませんよ。気がついたら増えていくものですから」
少なくともこの程度では彼は満足していない。もっともっと、この戦争で手柄を立てるつもりであったし、その自信もある。
「ところでこれは」
踊っている手を一時外して彼女は端の一つを撫でた。
「少し雰囲気が違いますね」
他と少し離れた場所にそれは留められていた。銀色に輝く翼を広げた鳥の形。
「これは軍のものではないですから」
自分の勲章をシュトラウスは一瞥する。
「シュナイダー・ルフトレン、世界で二番目に速い男の証ですよ」
自嘲とも誇りともつかぬ響きでシュトラウスは答えた。
「まあ、それは惜しかったですね」
「これは手厳しい」
シュトラウスは小さく笑う。
「しかしまあ、結果的に二番目で良かったと思ってますよ。何しろ我がシュトラウス家の紋章は銀の兜ですから」
「それは素敵ですね」
彼女は一回転しながら微笑む。男の魂を蕩かす甘い笑み。
「実は私も、素敵なものを持ってますの」
わざとらしく彼女は声をひそめた。
「ほほう、それは興味がありますな」
シュトラウスも合わせて声をひそめる。
「こちらですわ」
そう云うと彼女はシュトラウスの手を掴み、自分の胸元へと運ぶ。さすがにシュトラウスの眉が上がる。その様子を楽しむと、そっと自分の胸にある白いバラの花を、持ち上げた。
花の下に、燦めくものがあった。翼を広げた鳥のような形状の、金色に輝く勲章。世界で一番速い証だった。
シュトラウスは眼を見開いた。自分の見たものが信じられない。覗き込もうとすると彼女の上体が大きく後ろに反った。
白鳥のような美しい曲線に、周囲からどよめきが走る。それを支えながらもシュトラウスは混乱していた。もう一度花から上に視線を転じる。反った上体がゆっくり持ち上がってくる。
そこには何も変わっていないはずなのに、間違いなく紅宮綺羅の顔があった。
「やあウェルター、久しぶり」
先ほどまでの麗しい令嬢ではなく、傲岸不遜な声が返ってきた。
「……キーラ。一体どうして」
答える代わりに綺羅のステップが拍子ごとに一手増える。合わせるためにシュトラウスの動きも激しくなる。くるくると素早く回っているために周囲は気がつかないであろうが、彼の目つきは鋭くなる。
「せっかく欧州まで来たんだ。ついでに挨拶をと思ってね」
普通は敵陣営にわざわざ挨拶には来ない。
「この前も逢ったのにろくに返事もしてくれないんじゃ、直接逢いに来るしかないじゃないか」
「三日前の紅い尾翼はやっぱり君か」
記憶から三日前の戦闘がまざまざと思い出される。
「リールの街中でJG27のトラックを見かけたから、ここに来れば逢えると思ったが。まさか君の方から来るとはね、ウェルター」
くすくすと綺羅が笑う。
「案外と気づかないものだな。私、綺麗でしたか? 男爵様」
わざとらしく令嬢の声で綺羅が云った。
「自分の置かれている場所が判っているのかキーラ」
何かをごまかすように怒気をはらんでシュトラウスが詰め寄る。
「ああ、徒手空拳で敵陣の中でただ独りだ。抗ったところで虜囚となる運命からは逃れられまい」
大きく回りながら綺羅は笑い、そして不意に近づいた。
「だが君はそんな野暮はしまい。銀騎士殿」
耳元で囁かれて、シュトラウスは口元をわずかに歪めた。
「ずるいやつだ。大体奥の手を隠しているんだろ」
「まあそれは否定しないが」
ドレスの下に拳銃は忍ばせているが、それ以上の策は無いことはおくびにも出さなかった。
「せっかくの素敵な舞踏会だ、せいぜい楽しもうじゃないか」
そう云って踊る彼女は実に楽しそうだった。この会場の主役は間違いなく紅宮綺羅だった。そしてそのパートナーは自分である。シュトラウスはほんの小さくため息をつくと力強くステップを踏み込んだ。
やがて曲が終わり、二人は中央に立つ。贅沢な時間を心ゆくまで堪能した。堪能したのは二人だけではない。終わった途端に会場を揺るがすどよめきと、拍手が鳴り響いた。
「やあ、なかなかうまいじゃないか。楽しかった」
称賛自身は本気なのだろう。屈託のない顔で綺羅は笑う。
「ブランドル将校のたしなみだ」
同じ台詞を、もう一度云う羽目になった。
「もう一曲と云いたいところだが、どうやらそうも行かないらしい」
何故か綺羅がシュトラウスの影に回り込む。誰かが近づいてくる気配がした。
「フランダース伯だ。あとはよろしく頼む」
素早くシュトラウスの手を取るとそれを自分の唇のそばまで持ってきて、軽く触れた。
それを別れの挨拶として綺羅は妖精のように離れた。楽団の方に手を伸ばし、うなずく。それだけで彼らは従い、新たな音楽が流れ始める。それに合わせて人々が動き始める中を、紅い蝶の様に彼女は去って行った。
気まぐれな妖精の余韻をいつまでも堪能していたかったが、シュトラウスは踵を返した。目の前に老いた紳士が自分の方に、そして去って行った綺羅に向かってきていた。
「やあフランダース伯」
切り替えると満面の笑みでシュトラウスは声をかけた。
「これはシュトラウス男爵」
本当は娘と云うことになっている謎の女性を追いかけたいが、声をかけられたのでフランダース伯は対応せざるを得ない。
「実に素晴らしいご令嬢ですな。美しいだけでなく教養もある。父親としてさぞ鼻が高いでしょう」
声をかけられた方は微妙に引きつった笑顔を貼り付けている。何しろ娘が見覚えのない顔になって称賛されているのだ。
「次の休暇にお屋敷にお邪魔してもよろしいかな」
フランダース伯はわずかに引きつった顔になる。次の休暇に来られても、あの麗人は家に居ないのである。
「ん? ああ、なるほど。あれほどの美貌だ。すでにやんごとなき血筋と水面下で動きがあるのですな。いや、何もおっしゃらなくて結構」
シュトラウスは勝手に早合点してみせる。
「しかし伯爵もお人が悪い。手に届かぬ高嶺の花を垣間見させるとは。今宵はあまたの男が焦がれ焦がれて生殺しになるでしょうな」
高笑いしながらシュトラウスは心の中で悪態をつく。まったく、何故自分があいつの尻拭いをしなければならないのか。莫迦莫迦しいにもほどがある。