16 虚飾の舞踏会
戦時下だというのに、この屋敷だけは奇妙な華やかさに満ちていた。多くの車が玄関に並び、着飾った紳士淑女を降ろしていく。中には馬車まで居る。
「やあすごいもんですね。すぐそばで戦争しているとは思えないほど煌びやかだ」
降り立ったブランドル空軍の少尉の制服を着た青年は子供のように周囲を見回した。
「自分、貴族様の舞踏会って初めてなんですよ。ありがとうございます隊長」
従兵としてついてきたフランツ・クローゼは上官を振り返った。
「何事も経験だよフランツ。油断していると飲み込まれる。そういう意味では社交界も戦場も似たようなものだよ」
軍礼服を粋に着こなしたその男は招待状を入り口の執事に渡す。一瞥するだけで執事は恭しく頭を下げた。
「フォン・シュトラウス男爵様。お待ちしておりました。どうぞ中へ」
堂々たる足取りでその男、ウェルター・フォン・シュトラウスは屋敷の中へ踏み入れる。撫で付けた輝ける金髪に深い灰色の瞳。すらりとした長身は絵物語の王子のようであった。
「にしても、リールを占領したのは九日前ですよ。よくこんな舞踏会開けましたね。我々が展開したのだって四日前だってのに」
着飾った男女が蝶の様に舞い、豪勢な食事と極上の酒が振る舞われ、、楽団の奏でる音楽は心を躍らせる。まるで天国のようであった。
「社交界は戦場とは異なる理屈と異なる時間が流れているのだよ。なにしろ共和国なのにフランダース伯はノルマンの貴族だ」
「あ、そういえば」
冷静に考えれば共和制と貴族が共存しているのはおかしな話だった。
「まあ爵位は名誉称号みたいなもので大きな意味は無いらしい。ただ大統領をウィンザー家の世襲にしたりとノルマンの方々は王制やら貴族制やらに未練があるらしい」
「二度も革命して時代の先端を進んでいると自慢しながら、伝統と箔がほしいんですか。莫迦莫迦しい話だ」
「わがブランドルだって帝国になって七十年だ。伝統の長さを競い合うにはいささか心許ない。だからこそこういった社交は大事になってくるのだ」
シュトラウスは周囲の紳士淑女を眺める。
「見たまえこの魑魅魍魎たちを。変わり身の早さでは欧州一のこのたびのホストたるフランダース伯、そんな風見鶏でも関わりを持ちたいブランドルの貴族たち。軍功を武器に箔をつけてのし上がりたい軍人たち。新しい支配者に媚びを売っておきたいノルマンの商人たち。それぞれの思惑が蛇のように蠢いているぞ」
シュトラウスはおどかすが、若いクローゼにとっては煌びやかな女性たちに目を奪われていた。
「すごいなぁ。本当にすごい。こんなに綺麗な人たちが拝めるなら、毒があってもかまいませんよ」
「若いなぁ君は」
純情な部下を笑いながらシュトラウスは広い会場を見回す。当然向こうからも彼らは見られる。互いに品定めは重要なのだ。
「無論、男女の出逢いの場としても社交は重要だよ。とくに女性はこういう所で結婚相手を探し、あるいは遊び相手を見繕う。そちらの意味でもやはりここは戦場だよ」
「ならここでの男性軍の覇者は隊長ですな」
部下の言葉通り、シュトラウスと視線の合った女性は誰もが頬を赤らめ熱のこもった眼を向ける。撫で付けた輝ける金髪に深い灰色の瞳。すらりとした長身はギリシャ彫刻を思わせる。
「自分としてはそのおこぼれに預かれれば充分です。期待してますよ」
「買いかぶりすぎだよ」
そう云いながらもシュトラウスは小さく笑う。自身の容姿には自信があるようだった。
「まあこういう場所でのコツみたいなものは教えてやろう少尉」
給仕からシャンパンを受け取りながらシュトラウスは云った。
「まず、無難に遊ぶなら夫人にしておくことだ」
「え? 逆じゃないんですか」
「未婚の女性は結婚相手を探しに来ている。人生がかかっているだけに必死なのだよ。遊び半分で付き合うとやっかいなことになる」
シュトラウスが眼だけで示した方角にはおそらく未婚の若い女性の二人組がこちらを見て何事か話し合っている。自分の伴侶としてふさわしいかどうか値踏みしているのだろう。その視線は確かに狼のように鋭い。
「そこへ行くと夫人は気楽だ。まして跡継ぎを産んでいればもう仕事は果たした。大手を振って遊べる」
視線を転じた先に居た黒髪の男爵夫人は、目線が合うと意味ありげに微笑んでくれる。
「残念ながら君は平民出のベルリン育ちだ。結婚相手としては物足りないが、遊び相手なら狙い目はある」
「そんなものですか」
ドギマギしながら慣れない手つきでクローゼもシャンパンを受け取る。
「もう少し違った目線で見ると、例えばあちらなんかお勧めだ」
シュトラウスはグラスをわずかに動かして指し示した。
「ベルク公夫人。デュッセルドルフからわざわざ来られたらしい。よっぽど社交が好きなのだろう」
「公爵夫人は恐れ多いですよ。それにあの、できればもう少し若い方が」
どうひいき目に見ても公爵夫人は四十より下ということはなさそうだった。
「まあ慌てるなフランツ。狙うのはその後ろ、右側なんかいいかな」
視線をわずかにずらすと公爵夫人に従う若い女性が二人いた。付き添いの侍女だった。
「公爵夫人ともなるとその侍女もそれなりに高い地位と教養を持っていて、遊びの呼吸も心得ている」
見てみると夜会服こそ着ていないが栗色の髪が似合うなかなか綺麗な顔をしていた。
「あと、侍女と親しくなれば公爵家ともコネができる。なかなか悪くないと思うよ」
色と欲が混ざり合うのが社交界。その混沌を楽しむようにシュトラウスは指南をした。
「はあ、いろいろ考えなきゃいけなくて大変ですねぇ」
そう云いながらもクローゼも色々目移りしている。彼の場合は欲より色の比率が高かった。
「なに、難しく考えることはない。最近は五機も墜とせば騎士になれる。地位は後からついてくるんだ。今は若さを武器にぶつかってみることだよ」
上官としてというよりか人生の先輩として悪い遊びを教えているかのようだった。
「ためになる話をありがとうございました。ところで隊長は誰を狙うのですか」
期待に満ちた眼で、クローゼは自分の上官である美丈夫を見た。
「そうだなぁ」
当然説明しながら目星はつけてある。粋に気楽に遊べる相手から、少々危険な花まで。空の英雄ウェルター・フォン・シュトラウス、社交という名の戦場でも遅れを取るわけには行かない。
もったいぶって周囲を見回していると、わずかながら人のざわめきに揺らぎが生じた。
「どうしたんですかね」
「誰かが到着したのかな」
見回すと、階段を背にして執事が姿勢を正していた。
「お待たせしました、我がフランドル伯ジェームス様が次女、レディ・エリザベス・サマセット様でございます」
扉の開く音とともに、階上に人影が現れる。その人が歩み進むごとに会場の空気が変わる。
紅を基調とした夜会服を優雅になびかせ、亜麻色の髪を結い上げたその女性は一礼してからゆっくりと階段を降りてきた。この会場のすべての視線が集まり、中心となる。
あれが美なのか。誰もがそう感じてしまった。内心に抱えていたその概念が、目の前に現れてしまった。
誰もが息を呑み立ちすくす中を、彼女は歩む。その後ろにオスマン風の衣装を来た男女の召使いが付き従う。
階段を降り、周囲を見回してから彼女はもう一度礼をする。その瞬間になんともいえない、無音のどよめきとも云うべきものが会場を揺らした。
「す、すごいですね。すごいですね」
クローゼは呆然とそれだけを繰り返していた。あまりのことに表現する言葉が見当たらない。だが周囲の人間も同じようなものだろう。どれほどの格式と教養も、あの美しさの前ではかすんでしまう。誰も彼もが息を呑んでいる。そこに何故かフランダース伯まで含まれているのかよく判らなかったが。
全員の視線を集めた彼女は、挑発的に周囲を見回す。誰も彼もが彼女に値踏みされているのだ。一種異様な緊張が走る。
流された視線、ほんの一瞬だがこちらで止まった。クローゼはそう感じた。錯覚かもしれないが、そうであってほしかった。
「ねえ、隊長」
すがるようにクローゼが声をかける。
「フランツ」
対照的に冷静な声が返ってきた。
「済まない。一つ大事なことを君に教えていなかった」
振り返ると、シュトラウスは真っ直ぐ彼女を見据えている。
「恋は危険なほど、面白いってね」
そう云うと帽子を部下に預けて、シュトラウスは前へ進み出た。