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13 孤独な逃走

 できる限り身を隠しながら、それでいて周囲がよく見えるように。朱音は慎重に木立を抜けていた。

 このまま田園の中にいてもいいことは何もない。しかし自力で歩いて移動しようにも地図も何もなくては話にならない。人里目指して市街地の方に戻るしかなかった。

 果たしてブランドルはアラスの街を占領しただろうか。朱音が遭遇したのはそれほど多くはない。偵察とかそういったものではないだろうか。ただ確かめるために市街地の中心にまでは行く気にはなれない。うっかり出くわしてしまったら終わりである。とにかく市街地の周囲でなんとかしたかった。

 時折樹にも登って、朱音はとりあえずの目標を定めた。街外れであろう場所に、他よりも目立つ尖塔が立っている。まずはそこを目指そう。朱音は何度も周囲を見回しながら木立の間を小走りで抜けた。

 敵地に取り残された場合の指針は一応通達されていた。困ったときはまず教会を目指せ、と。

 耶蘇の総本山であるバチカン教国には開戦後すぐに多額の献金をした。長崎の大浦天主堂など六つの耶蘇教の施設の改修、増築も半額を秋津で持つようにした。その甲斐あって秋津人は異教徒でも教会の庇護下に置かれるようになった。教会にさえ逃げ込めば、バチカン教国経由で帰国できる。そんな話であった。

 もちろんすべてがうまくいく訳でもなかろうが、目立つ尖塔に向かえば助けてくれる。本当にこの窮地から救い出してくれるのなら、耶蘇を信じてもいいかもしれない。朱音はとりあえず異国の神を想像して拝んでみた。

 御利益があったのか、朱音は無事に教会とおぼしきところまで誰にも会わずにやってこれた。

「ごめんくださぁい」

 ひそめているのか張り上げているのか自分でも判らない声で朱音は中に声をかけた。

「どなたかいませんかぁ」

 残念ながら返答はない。朱音のノルマン語が判らなかった訳でもないだろう。門を押すと、いともたやすくそれは開かれた。

「ごめんください」

 再び声をかけながら敷地に入るが、相変わらず返答はない。

「どなたか、居ませんか」

 扉に手をかけて、開いているかどうか確認しようとしたところ、扉が地面に倒れてしまった。反射的に柱に隠れるが、それでもなお誰も出てこない。意を決して朱音は扉の向こうに身体を滑り込ませた。

「どなたか、居ませんかぁ。……居ませんねぇ」

 中を見て、朱音は察してしまった。ここには誰も居ない。地面は埃が積み上がり、天井も一部が落ちて朱みの増した空が見えていた。これは昨日今日居なくなったのではない。人が居なくなって数年は確実に経っていた。

 あてがなくなってしまった。長椅子に座って朱音は考え込む。街中になら活動している教会はあるかもしれないが、人目のつく市街地に様子も判らず行くのは危険だった。ここは街外れなので都合がよかったのに。

 しばらく沈んでいたが気を取り直して朱音は立ち上がった。ここに居ても事態は良くならない。何か役に立つものはないだろうか。朱音は正面にぶら下がっている神様に謝ってから物色することにした。

 とはいえ引き払っているのでめぼしいものはない。今切実にほしいのは食料だが、それはまず無いであろう。器の類いがいくつかあった程度であった。庭に井戸があったので、できればあれを使えるようにしたい。鞄の中にワインがあるが、なんとなく手を出しづらい。

 服がタンス一つ分残っていたのは幸いだった。おそらくタンスを最後に運び忘れたのだろう。適当な布と紐で水を汲めそうだ。いくつか組み合わせて朱音は庭に出た。

 井戸は釣瓶がなくなっている。布を袋のようにしてくみ上げられないかとしたが、なかなかうまく掬えない。水を吸って重くなった布を持ち上げたところでふと気がついた。絞ったらどうだろう。

 中に戻って食器を持ってくる。いくつか並べた上で、布を絞るとしたたり落ちた水が器にたまっていく。朱音は満足げにうなずいた。

 本当は沸かした方がいいのだが、残念ながら火付け道具は見つからない。割と胃腸は丈夫な方だとは思っている。意を決して器の一つに口をつけた。

 数時間ぶりの水が身体に染み込んでいく。些細なことではあるが、今生きていることを朱音は実感した。もっと飲みたいが、生水を沢山飲むのも危険な気がする。どうしようかと逡巡していると銃声が聞こえてきた。

 慌てて井戸の影に回り込む。一発ではなく連射音。そんなに遠くない。逃げるべきだと思ったが、別の考えも浮かんできた。銃声と云うことはおそらく戦闘である。そして戦闘と云うからには敵と味方がいる。ブランドルと敵対する、味方が。

 確認してから逃げてもいいかも。できるだけ音を立てないように朱音は銃声の方に向かった。

 それは思っていたよりも早く遭遇した。なにしろ向こうから歩いてくるのである。しかも喋りながら。

「……あぁもう、なんで撃ったんですか」

「ん? こっちに向いたから」

「絶対気づいてなかったですよ。やり過ごせば何の問題もなかったのに」

「だって本当に連射するのか心配じゃないか」

「ほらやっぱり!」

 ものすごく聞き慣れた、秋津語だった。草藪の中から朱音は声を上げた。

「桃栗三年!」

 反射的に少年の声が返ってくる。

「柿八年! 朱音、朱音なのか!」

 藪から立ち上がると、そこには懐かしい顔があった。まさか再び逢えるとは。

「洋一、と、え? なんで綺羅様まで……」

「やあ朱音ちゃん、救けにきたよ」

 驚きと安堵で膝の力が抜けてしまった。

「しっかりしろ、ほら水だ」

 水筒を出してくれるけどそれはもういい。

「来てくれたんだ、アミアンから。これでもう大丈夫なんだ、還れるんだ……」

 うれしそうな朱音だが、なぜか洋一は歯切れの悪い様子だった。

「還れるんだよね?」

「うん、まあ、そのつもりだったんだけど……」

 どうにも煮え切らない。やがて朱音を立たせると洋一は自分たちが来た方を指し示した。

「ちょっと見てほしい」

 そう云うと木立の間を足早に歩き出す。朱音は慌てて付いていくしかない。

「戦闘に巻き込まれたらしいって聞いて、拝み倒して車で来たんだ」

 歩きながら洋一はこれまでのことを話した。

「教会を目指せば合流できるんじゃないかと思って、車を停めて周囲を偵察していたんだ。そしたらこいつが近づいてきて」

 藪をかき分けたところで洋一が地面を指さす。そこにはブランドルの制服を着た兵士が横たわっていた。

 うつ伏せになってピクリとも動かない。そして周囲の地面に黒いシミのようなものがにじみ出ていた。

「し、死んでるの?」

「うん」

 重苦しく洋一が答える。

「いや、俺はやり過ごせると思ったんだよ。気づいた様子はなかったし、でも隊長が撃っちゃって」

「だから頭をこっちに向けたんだって」

 口答えする綺羅を恨みがましく洋一は睨んだ。

「で、撃ち合いには勝ったけど、ほら」

 洋一は奥の藪をかき分けた。そこには「くろがね」が隠されていた。

 喜んで駆け寄った朱音であったが、よく見ると「くろがね」が傾いていることに気づいた。

「これ、パンクしてない?」

 洋一が力なくうなずく。

「あいつが撃ち返した流れ弾が当たった。ついでにエンジンも食らったらしい」

 よく見るとボンネット部にいくつか穴が開いている。

「予備タイヤは一つある。で、走れそう?」

 整備員としての意見を洋一は求めた。朱音はボンネットを開けて覗き込む。

「ああ、ダメねぇ。よりによってキャブレターに当たってる」

 それを聞いて洋一は両手で抱えながら頭を左右に振った。

「ああもう、ここまでうまくいってたのに……」

 アミアンから六十㎞を敵に見つからずに走破し、打ち合わせも何もなく、教会だろうという推測だけで落ち合うという奇跡のようなことまで起こしたというのに。

「車がなければアミアンまでどうするんだよ。一日じゃつかないぞ」

 歩兵の行軍目安は一日二十四㎞、少し無理をして三十二㎞と云われている。これから夜通し歩き続けて十五時間連続で歩けば着くだろうが、それはあまりに非現実的な計算だった。

「あの、洋一。悪いけどあたし歩くのそんなに得意じゃないよ。多分一日二十㎞いかないでへばると思う。技科練の演習でそんな感じだった」

 おずおずという朱音の言葉に洋一はうなずく。

「俺だってそれほど体力無い」

「私もだよ」

 搭乗員に整備員と、歩くのが専門ではない者ばかりだった。

「大体アミアンだって今日で撤収なんだ。その先のルーアンまではさらに百㎞以上ある。地面は素人で街育ちの俺たちに歩ける距離じゃない」

 普段乗っている飛行機なら全部会わせても三十分以内で移動できる距離なのに、持っている脚だと少なく見ても六日ぐらいはかかりそうだった。

「車が無事ならぎりぎり日没前にアミアンに戻って今日中にシェルブールに飛べたのに。それならちょっとエンジントラブルで遅れたことにできたんだけど」

 文句を云いながら洋一はブランドル兵の脚を持って道路の端に移動する。藪の影で目立たないところに置くと手を胸の前で組んでやる。死体に触るのは気持ちのいいものではないが、自分でやったからにはやらなければならないことだと思っていた。

「弔うの?」

 朱音が尋ねる。

「埋められないから最低限だけどね。成瀬一飛曹が云ってたんだ。俺たちの仕事は基本背中から撃つし、不意は突くし頭数は多い方がいいし、勝つためならどんな手でも使って殺し合う。けど、死んじまったら仏様だ。手ぐらい合わせてやれって」

 神妙に手を合わせて洋一は南無阿弥陀仏と唱える。朱音と、綺羅もそれに続く。

「それに、そういう心持ちじゃないと『還ってこれなくなる』んだって。よく判らないけど」

 どこからどこへなのかは判らないが、還れなくなるのは、多分困る。ひとしきり念仏を唱えてから洋一はその辺の枝を折ってブランドル兵にかぶせる。

「あと、すぐ見つかるとまずいしね」

 本当に最低限だが、戦闘の痕跡を覆い隠す。振り返ると綺羅はブランドル兵の持っていた短機関銃を取り上げていた。

「新型は小ぶりだな。こっちの方が取り回しやすいな」

 ブランドルの現用短機関銃を構えてあちこちに向けてみている。木製銃床のベルクマンに比べればプレス鉄板の新型は随分と近代的に見えた。

「そうだ教会、教会の人に頼めば」

 不意に思い出して洋一は顔を上げた。アミアンに残してきた十式艦戦は最悪諦めたとしても、バチカンの協力があれば脱出の目処は立つはずだった。

 しかし朱音の首は横に振られる。

「誰も居ないの。ずっと前から無人みたい」

 説明しながら一行は教会に向かった。

「残念ながら食料も乗り物もないの。頑張って水は汲んだけど」

 そう云って井戸の前まで案内する。

「なかなか頑張ったじゃないか。できれば沸かしたいところだが、火種はないのかね?」

「見当たらなかったですね。洋一、マッチ持ってない?」

「煙草吸わないからなぁ。機体の救急袋には入っていると思うけど」

 慌てて飛び出してきたのでそういった細かい装備を忘れてしまった。そしてそれは三人とも同じだった。念のため空き瓶に井戸の水を入れておく。

「あとは服ぐらいですね」

「この先この格好では目立つかもしれないから、それは拝借しておくかね」

 秋津海軍の搭乗員服と整備員服の三人連れで欧州を歩くのはたしかに目立ってしまうだろう。朱音は適当に三着取り出すと各人に渡した。

「さて、どうしたものかな」

 このままここに居てもいいことはないが。かといっていい指針は見当たらない。朱みが増しつつある空の下で三人は頭をひねった。遠くから鐘の音ならぬ、汽笛が聞こえてきた。

 その瞬間に、洋一の頭の中で何かが閃いた。

「そうだ列車!」

 鞄の中から地図を出して、そして走り出した。方角は先ほどの汽笛に向かって。

「ここアラスからアミアンまで鉄道が通っているんだ。空から何度か走っているのを見たことがある」

 草木をかき分けながら洋一は先頭で足早に進む。

「それに乗ればアミアンにつける!」

 十分も歩かぬうちに、彼らは線路に出た。そこにはたしかに貨物列車が停車していた。

「動いてくれるかな」

 追いついた綺羅は尋ねる。十両以上の貨車が連結され、遙か向こうに機関車らしきものが煙をたなびかせている。

「多分水の補給かなにかだと思います。さっき汽笛を鳴らしたから火は入っていると思いますが」

 木立から見ているともう一度汽笛が鳴る。今度は長い。終わると同時に前からガチャガチャと金属のぶつかり合う音が近づいてくる。

「発車します。乗りましょう!」

 幸い郊外の給水所に人目は多くない。木立から飛び出して三人は列車に走り寄った。そばに来たときにはもう列車は進み出している。まず洋一が飛び乗り、綺羅がそれに続く。そして二人で朱音を引き上げた。

 貨車の中に倒れ込むようにして三人は入った。ようやく息が落ち着いてきたところで洋一は振り返った。

「悪くても今晩中にはアミアンに着くと思います。そこからなら歩いて飛行場まで行けますから、朝には離陸できます。十式を燃やさなくて済みますよ」

「うん、よくやった丹羽三飛曹。このまま何日も歩き続けるのかとうんざりしていたところだった。そこからすれば天からの福音のようなアイデアだ。」

 そう云って綺羅は洋一の頭をなでてくれた。

「よしてくださいよ、子供扱いは」

 一応もう十八なのだ。些か身体が小さいことは気にしている。でも、こうしてなでられるのも案外と悪くない。

「何デレデレしてんのよ。でもまあ歩くのに比べれば遙かにいいわね」

 朱音が珍しく褒めてくれる。早くこの恐怖から抜け出したいのだろう。

「いろいろあってもう疲れましたよ。少し休みましょう。数時間でアミアンですよ」

 そう考えるとこの木箱が詰め込まれた貨車の中が急行の一等車に思えてきた。鉄道の旅も悪くない。乾パンを配りながら、洋一はそんなことを考えていた。


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