11 アミアン基地撤退
アミアン 遣欧秋津海軍基地
吊り床をトラックに押し込んで洋一は声を上げた。
「これで終わりです」
「おう、じゃあシェルブールでな」
トラックの運転席に座る整備員が手を振ると、トラックは砂埃を巻き上げ去って行った。洋一は咳き込みながらそれを見送った。
これで寝床は行ってしまった。再会できるのは明後日と云うことになる。彼ら整備員たちは陸路で今日はルーアンに泊まることになっている。自分たちは飛行機で直接シェルブールまで飛ぶ手はずだった。
向こうでは槙が整備員たちに手伝われながら荷台に乗込むところだった。隣には綺羅の荷物も積まれている。見送りに来た綺羅に槙は声をかける。
「では明後日の午後に。二日分の着替えは渡しましたから」
「心配しなくても大丈夫だよ。もう子供じゃないんだから。まあ槙さんのお茶で目が覚ませないのは残念だな」
「もう」
槙さんの困り顔を堪能すると綺羅は後ろの整備員たちにも声をかける。
「では諸君、槙さんを道中よろしくね」
合計四人の整備員たちはバネでも仕込まれたように立ち上がって敬礼する。
「お任せください」
「命に代えましても」
ブランドル軍一万でも向こうに回して大立ち回りしそうな勢いだった。対照的に軽く手を振って綺羅はそれを見送った。
振り返ると輸送機が離陸していく。司令部要員を乗せた最終便だった。ついで護衛を兼ねて向こうから第二中隊の四機が上がってくる。確か向こうはあれで最後だったはずだ。
陸も空も、派手に賑わった後の奇妙な静寂が漂う。今この基地に残っているのは六機ほどの十式艦戦と搭乗員、四人の整備員だけだった。
「さあ我々も出発だ。楽しかったアミアンともお別れだ」
楽しかったのかな。とにかく忙しかった。洋一にはよく判らない。ただ綺羅はどんな場所でも楽しめてしまえるのだろう。そういう心の持ちようは重要なのかもしれない。
初めての欧州の空、戦闘にベルリン飛行。随分いろんなこともあった。音に聞こえたフォッカーも一機撃墜できた。あの後スツーカを撃墜する機会にも恵まれて欧州での洋一の戦果は二機。通算で四機となった。あと一機でいわゆるエースになれる。そう考えると恵まれすぎるほど充実していたのかもしれない。
もっとも充実していた人もいる。紅宮綺羅はこの欧州派遣で六機の撃墜を記録している。十二空の猛者と秋津最多撃墜数を競っている最中だった。後退しながらも十二空は欧州に残るらしく、翔覽航空隊の撤退を一番残念に思っているのは彼女かもしれない。
閑散とした飛行場にトラックが走り込んできたのは、私物袋を座席の下に押し込んだところだった。
何事かと思うと彼らの脇に急停車したトラックから秋津の整備員が首を出した。
「朱音ちゃん来てない?」
「え、来てないですよ」
たしかルーアンに直接向かうはずだったはずだ。
「そうか……」
しかしその整備員は残念そうな顔で隣のノルマン人と話している。
「どうしたんですか?」
機体から降りて洋一は尋ねた。
「朱音ちゃんの乗ったトラックが遅れて、待っていたら後方で戦闘があってな。もしかしたら振り切ってこっちに来ていないかと思ったんだが」
「ど、どこですか」
「アラスを出た直後だよ。派手に爆発もしてたから無事だといいんだけど」
「済むわけないだろ、確認できなかったのか」
何事かと来ていた成瀬一飛曹が割り込んでくる。
「無茶言わないでくださいな、こっちは丸腰のトラックなんですよ。戦車の音も聞こえてきたし」
「戦車って、もうそんなところまで来てたのかい」
同じく騒ぎを聞きつけやってきた池永中尉が顔色を悪くする。アラスがその様子では、もはやこのアミアンも安全ではなくなっているらしい。
「もういい、あとはこっちでなんとかするからとっととルーアンに行け」
そう云って成瀬はトラックを送り出した。とはいえなんとかなる目処はたっていない。
「おい坊主、変な真似するなよ。俺たちはもうここを出発するんだから」
振り返って洋一に声をかけようとしたが、その対象がいなくなっていることに成瀬は気づいた。
「中尉。丹羽のやつは?」
「あれ? いつの間に」
かき消すように洋一の姿は見えなくなっていた。
積み上げられた物資を、洋一は必死になってかき分けていた。これからガソリンをかけられて燃やされる荷物から、少しでも使える物を探さなくてはならない。
まず側車。予備の燃料缶と水筒に食料。できれば武器も。誰かが狩猟用に持ち込んだ村田銃を背中にかけ、燃料缶やらを座席に乗せる。乾パンは一袋しか見当たらなかったが仕方が無い。懐には南部式拳銃。これでなんとかなるだろうか。いや、なんとかするしかない。
自分でも無茶なことは判っている。完全な命令違反で、敵前逃亡と取られてもおかしくない。普通なら陸軍に頼んで捜索して貰うのが筋だ。
だが今国境の主力部隊は包囲されて戦線は崩壊しつつある。誰も彼もが生き残るのに必死で、たかが三等技曹独りのために兵は出してはくれまい。
だからこそ、たかが三等飛曹の自分が、助けに行くしかない。
出征前に、朱音の父親は自分の手を取って云っていた。あの子は母さんに似て気が強いからね。なかなか弱音は吐かないと思う。だからこそ、誰かに助けて貰いたいんだ。頼むよ。気の弱い人だったが、自分には色々優しくしてくれた。そうだ、自分がなんとかするんだ。
「よし」
またがってハンドルを軽く揺する。何度かお使いで乗ったことはある。なんとかなるはずだ。
「いいわけないだろ莫迦」
横から強く蹴られて、地面に倒れ込んだ。振り返ると成瀬一飛曹が仁王立ちしていた。
「み、見逃してください!」
言葉の代わりに更にもう一発蹴られた。
「てめぇ海軍舐めてんのか。飯食うのも糞するのも生きるも死ぬも、命令があって初めてできるのが軍隊だ」
海兵団からの叩上げで十年は海軍の飯を喰っている成瀬一飛曹らしい迫力に、洋一は震え上がるしかなかった。
「まあその、穏便にね」
困り顔で池永中尉が後ろから顔をのぞかせる。階級は池永の方が上でも、下士官のことに関しては士官は口を挟まないのが不文律となっているので、どこか遠慮がある。
「でもね、困るんだよこういうことは。脱走兵出すと中隊長まで処罰が行くんだ。君一人の問題じゃ済まないんだよ」
洋一は唾を飲み込む。自分だけ銃殺になればいいかとも思ったが、綺羅様にまで迷惑をかけてしまうことになるのか。しかし、ここで引き下がってしまったら、朱音は絶対に助からない。
「お願いします! 明日中には合流します。エンジン不調で遅れたとか、そんな感じで」
「そんな感じもこんな感じもあるかい」
成瀬に胸ぐらを掴まれる。正直鬼よりも怖い。だがここで目線をそらすわけには行かない。
「まあただな」
そんな様子を見て、成瀬はあきれたように鼻を鳴らした。
「兵隊としちゃあ失格だが、ここであっさり見捨てるようだったら、男としてお前をぶん殴っているところだった」
不意に手が離されたので、洋一は地面に膝をつく。池永もほっとした表情を浮かべる。
「しっかしまぁ、実際問題どうするかってぇと、困ったもんだなぁ」
立場上、鉄拳制裁を振るってでも止めはしたが、かといって妙案があるわけでもない。
「俺たちがとっととここを発たなきゃいけないのは本当だし、陸軍はてんてこ舞いで頼りにならないし、ブランドルの偵察隊がうようよしている中をこんな装備で行かせるのもなぁ」
そう云いながら成瀬は洋一の背中にある村田銃の銃口に指を突っ込む。
「いいか、こいつは整備科の誰かが持ち込んだ私物で、元々は明正時代の単発銃で、しかも手入れがしやすいように線条も削り落とした狩猟用だ。射程も短い。イノシシ相手ならともかく兵隊相手にできる代物じゃない」
そうは云っても拳銃よりましな装備はこれぐらいしかない。
「そうだ、これぐらいは必要だな」
背後から声がしたので全員が振り返る。三人とも驚きの色を見せたが、成瀬と池永は焦り様相が追加される。一番関わってほしくない人が来てしまったのだ。
「ほら」
洋一に歩み寄るとその人物は何かを投げつける。
「ベルクマン短機関銃だ。こっちに来た直後に陸戦隊から貰った。すごいぞ、この大きさで連射するんだぞ」
木製銃床に黒光りする金属部品が取り付いている。
「開戦前にブランドルから輸入したものだそうだ。これも何かの奇縁だろう」
そう云って今度は弾倉の入った袋を渡した。
「あのう、これはですね」
やりにくそうに成瀬が声をかける。星の数よりメンコの数で池永とは渡り合えても、それが通用しない例外がこの紅宮綺羅だった。
「判っているよ。少年が少女を救うために一肌脱ごうというのだ。意気に感じるのが海軍じゃないかな」
彼女の海軍の認識は少しばかり他の人たちと違うようだった。
「それと、乗り物は「くろがね」の方が何かといいだろう。整備科にお願いして借りてきた」
振り返ると綺羅が乗ってきた五式四輪起動乗用車、通称「くろがね四起」があった。確かに最悪シェルブールまで行かなければならないとなると、余計に燃料を積める「くろがね」の方が向いているかもしれない。
ただ洋一たちはもう一つ気になることがあった。
「あの隊長、なんでもう一丁持っているんですか」
綺羅の背中には洋一に渡したのと同じベルクマン短機関銃がぶら下がっていた。
「ああ、私がついていく。それで問題あるまい」
「はぁ?」
その場にいた全員が声を上げた。
「三飛曹独りで行かせるからいけないのだ。だったら責任とって中隊長が引率すればいい」
何を云っているのか誰も理解できない。
「いやいやいや、それだったら俺が行きますよ」
「お願いします。お願いしますからそんな無茶なことを云わないでください」
成瀬や池永が必死になって止めるが聞く耳を持つ様子は無い。
「だったらこれは整備科の話です。俺たちが行きます」
よく判らないまま四起を貸すことになって様子を見に来た整備科の人間たちも声を上げる。それでも綺羅は表情を変えない。
「中隊には移動命令がすでに出ている。池永中尉や成瀬一飛曹は速やかに飛んでシェルブールで搭乗員たちを引率しなければならない。整備科も基地周辺がすでに安全でない以上速やかに移動する必要がある。小野三飛曹捜索は最小限でなければならない」
だからといってそこに綺羅が加わる理由には到底ならない。
「それに諸君、一番大事なことを忘れているぞ」
あたふたしている部下たちを前に、綺羅は胸を張った。
「この場で一番階級が上なのは私だ。司令部はさっき出発してしまったし、それに槙さんもいない」
槙がどれほど重要なのかは判らないが、確かに今、綺羅に命令できる人物はいない。
「そんなわけでこれは命令だ。みんな一番偉い私の云うことに従って貰おう。それが軍隊というものだ」
何か違う気がするが、階級は絶対であった。
「しかし、その、そうすると機体は置いていかなければならなくなりますが。十式は絶対に残置するなと云われているのですが」
池永はなんとか食い下がろうとする。十式は最新機なのだ。絶対に敵の手に渡すわけには行かない。
「そうだな」
そう云うと綺羅は並んでいる十式艦戦に向かって歩く。周りも仕方なくそれに続いた。
「私と丹羽三飛曹の機体に偽装網をかけるんだ。操縦席にガソリンの缶を置いてな」
全員で云われるままに作業をする。偽装網のかぶった機体は大きめの草むらのようになった。その頂上、操縦席辺りに綺羅はその辺りに咲いていた花の束を置いた。
「池永中尉。明日の正午にこの花を目安に銃撃しに来るのだ。我々は小野三技曹を救出後この基地に戻ってこの機でシェルブールに向かうが、思惑通りには行かない可能性もある。その時間まで戻ってこれなければ別の脱出手段を考える」
仮にブランドルがこの機を発見したとしても、一日では運び出せない。そう綺羅は読んだらしい。
「しかしそれでは脱出の余裕が」
「時間が経てば経つほど不利になる。どの道さっと行ってさっと逃げるしかないのだよ」
危ない道しかないのだ。むしろそれを楽しんでいるようだった。
「ではいこうか丹羽三飛曹」
そう云うと綺羅は当然のごとく≪くろがね≫の助手席に乗込んでしまった。洋一は慌てて運転席に座る。
「では諸君よろしく。池永中尉、うまいことごまかしておいてくれたまえ」
何気なくひどい仕事を押しつけて、「くろがね四起」は走り出していった。