14:鏡の女王亭
カフェ「鏡の女王亭」はモーニングも行っているため、開店時間は早い。
「準備中」のプレートがぶら下がっているガラス製の扉前を横切って、カティは裏手から店へ入った。
そしてお気に入りの小花柄のエプロンを羽織って、開店準備に取り掛かる。店長であるエーコも厨房にて、寝ぼけた顔で仕込みをしていた。
この店は、手作りキッシュが売りなのだ。一つ一つのキッシュが食べきりサイズになっているため、いつでも焼き立てが食べられるのも売りだった。
飴色の丸テーブルを磨き上げながら、カティはふうとため息。
「リー兄ちゃんの、人が変わっちゃった……」
彼女のつぶやきに、いつでも眠そうな顔のエーコが細い首をかしげる。
「大病患うと、人生観変わるって言うけどね」
「ううん、そういうのじゃなくて……本当に、人格がまるっと変わっちゃったんです」
「なんだそれ」
半眼気味の、エーコの茶色の瞳が丸くなった。
そんな彼女へ縋るような視線を注ぎつつ、カティは手短に事情と経緯を説明した。
ふむふむ、と話半分の様子で聞いていたエーコだったが、ややあってカティの顔へびしりと指を突き出す。そしてにんまりと、笑った。悪人の笑顔である。
「病院から、金踏んだくれるじゃないか。ケツ毛までむしり取ってやれ」
エーコらしいと言えば、らしい感想ではある。
肩を落として、カティはため息。
「いりませんよ、お尻の毛なんて」
「いや、わたしだっていらないよ」
それもそうか、とカティもうなずく。
「慰謝料、のようなものは貰ったらしいですけど、そういう問題じゃないですから……優しくて理性的だった、リー兄ちゃんが……」
「アホの子になったわけだ。たしかに、お姉さんも驚きだ」
「はい……」
しおれるカティの耳に、カランカランと軽快なベルの音がした。入り口に備え付けているものだ。
振り返ると、本日最初の客はロボット猫だった。キジ白のアルコである。
常連客であるセナという青年がドアを押してやりながら、アルコを通してくれていた。
尻尾を揺らして、優雅にアルコが振り返る。
「ありがとうね、セナ」
「ん」
手短な返事かつ、小さなうなずきを返すセナ。決して不機嫌なわけではなく、人に対してもロボットに対しても口下手なだけなのだ。
口下手で人付き合いがやや苦手なセナは、地下の発電所で働く技師だ。上背もありがっしりした赤毛の青年だが、そのいかつい見た目に反して、意外に気は優しい。
ロボット猫のアルコは、もちろんノミやダニもいなければ、抜け毛もない。表皮は定期的に張り替えているので、艶ならばっちりだ。
そのため、アルコに限らずロボット動物の飲食店への入店は、ほぼ自由であった。ロボットに埋め込まれているチップで、所有者もすぐに分かる。ツケだってし放題だ。
「鏡の女王亭」においても、アルコは主のリー以上に常連客である。
慣れた様子でおしぼりをもらい、それを揉む──もとい四肢を拭く。次いでカウンターに飛び乗った。セナも慣れた様子で、その隣に座る。
にゃあ、と一声鳴いてアルコはカティを呼んだ。
「いつもの頂戴な、カティ」
「はあい」
カティも笑顔で相槌を打ち、カモミールティーの準備をする。
調理はエーコの担当だが、飲み物の準備と接客はカティの担当だった。
鮮やかな黄色いお茶に、角砂糖を一つ入れれば、アルコの「いつもの」が完成だ。
彼女が飲みやすいよう、平皿に注いだそれをテーブルに置く。
「ありがとうね。それから、今朝はごめんなさいね?」
今朝が何を示しているのかすぐに分かったので、カティは弱々しく微笑んだ。
「アルコは悪くないよ」
「いえいえ。保護者代わりとして、恥ずかしいったらありゃしないわ」
ふん、と鼻息荒くアルコは言った。猫が鼻息を荒くしても、ただただ可愛いだけなのは正直言って、ずるい。
そんな思いをこっそり抱きつつ、器用に舌でカモミールティーを掬い飲むアルコを眺めていたら、彼女の小さな顔が持ち上がった。
「でもね、カティ」
「うん、なあに?」
「リーのことだけど、根っこのところは、ほんとに変わってないのよ。ほんとよ?」
それは、母のエダも言っていた言葉だった。
根っこは一緒と。
だとすると事故前のリーは、ずいぶんと猫かぶりが上手かったことになる。
セナのコーヒーの準備をしながら、カティは首をかしげた。
「……そう、なのかな?」
「そうよ。だってカティの家にお呼ばれする度に、『今日もデートに誘えなかった。僕は根性なしだ!』って悶絶して、面倒ったらありゃしない有様だったんだから」
初耳の醜態である。
カティだけでなく、エーコとセナの目も丸くなった。
「あのすかし眼鏡君に、そんな一面が……」
エーコの呟きに、セナも同意。
「意外っす」
しみじみそう言う彼の強面を、アルコは見上げた。
「アタシにとっては、意外でもなんでもないのよ。だからね、今はよそ行きの顔と本性が裏返しになっちゃった──そんな風に思えるのよ」
リーの本性が丸出しに。
花模様のカップにコーヒーを注ぎ入れながら、カティは考えた。
そして脳裏に浮かぶのは、
──カティ、大好きだ!
そんな、リーの満面の笑みと大音声での告白だった。
つい赤くなってしまったカティを、三人はおやおや、とのぞき込む。
「カティったら、真っ赤じゃない。あら、アタシったら余計なお世話焼いちゃったかも?」
「グッジョブじゃないっすかね」
顔を舐めるアルコへ、セナが小さく笑う。
そしてそっぽを向いたカティの背中をつつきながら、エーコはいじめっ子の顔でヒヒヒと笑った。
「おーおー。青春だな、セクシーガール。うらやましいな」
そんなニヤニヤ笑いのエーコを、コーヒーを受け取ったセナがちろりと見る。
「エーコさんは、いないんすか?」
「あい?」
素っ頓狂な問い返しに、セナは一つ唾を飲み込んで。
「……その、そういう悩んじまう相手は?」
「何、急に。わたしの訊いてどうすんの?」
全然ピンと来ていないエーコは、いっそ無邪気に首をかしげていた。そう。彼女は色恋に疎いのだ。
口下手なセナも、それで心折れたらしい。むっつりと俯く。
「いえ……なんでもないっす。ちょっと、気になったもんで……うっす」
「あ、そう?」
今日も玉砕、であったか。
カティとアルコは密かに視線を交わし、そっと苦笑し合う。