友誼の行方
今日はもう一丁いけるかなと......
思ってはいますが(´∀`)ダメだったらすいません
8月に入り、漢城府での生活は不快を極めた。
暑いのには我慢できる。だが一歩外へ足を踏み出すと、その悪臭に悩まされる。
上下水道が存在しないので、雨が少し強く降れば道という道は水で溢れる。
王宮からは離れているものの、公使館が高台に建てられたことには感謝しよう。
洪水が起きれば、その水は全て汚水と言っていい汚さになるからである。
洪水が井戸の高さを超えれば、井戸までが汚染される。
釜山の居留地の快適さは、やはり得難いものだった。今月半ばには夏季休暇と称して釜山に戻るつもりである。
しかし今日は漢城府の中心へ行かねばなるまい。閔氏一族に招かれている。
中でも閔泳翊は、事大党の多い閔氏でも若くして重要な地位に立ちながら、独立党に同情を持ってくれている。行かぬわけに行くまい。
景福宮の目の前にある閔氏一族の住居までは、通常奴婢の担ぐ輿で行く。悪臭に加え道は荒れているのでコレはキツい。
私は馬に乗ることを許可して貰えた。コレは立見少佐に感謝せねばなるまい。
自分も軍人であることにさせて貰った。以来どこに行くにも馬に乗る。すこぶる快適である。
全く少佐に感謝すべき事は多い。
彼の訓練は(コレは信じがたい事だが)兵士の間で極めて評判良く、その規律の正しさに国王からもお褒めの言葉を頂いたほどである。
新軍内には被虐愛好的な心理が働いているのか。
更には日本国政府の計らいで、新軍兵士にミニエー銃数百丁が贈られ、日本国を代表する公使としての私の立場は否応も無く上がったのだった。
訓練が順調でありまた銃も手に入った事もあって、立見少佐は軍事訓練を前倒しで始めたそうである。
だが格闘技と射撃からスタートしたので、新軍内には一気にケガ人が増加したそうな。
「ケガ人などと大袈裟なものではありません。脱臼した者が数十名、後はかすり傷でござる!」
私の脳裏に地面に転がる大量の兵士の姿が浮かぶが、深くは考えない事にする。
少々武士言葉が残る軍事顧問は、精悍な黒馬に跨がり堂々たる騎乗姿だ。
「少佐殿のお力で、日本国の朝鮮における地位が甚だ向上しております。私の扱いまで丁寧になり、今や清国の力を凌駕せんとしております。」
私は少々ゴマスリ気味に相手を持ち上げる。
「いや公使閣下、せっかくのお言葉ですがそれは無いですな。」
少佐は申し訳なさそうに言った。
「軍事訓練において感謝され、国王陛下のお言葉までいただきました。ソレでもこの国で、軍人の身分はかなり低い。日本国に軍事訓練を依頼してきたのも、程度の低い仕事であればこそでしょう。従ってワシがいかなる結果を出したとしても、日本国が清国の影響力を上回ることなどあり得ない。」
私は正直に驚いた。この軍人が単純な軍事教官などでなく、冷静な観察力と洞察力を持つ者と知ったためだ。彼を見る目を変える必要がある。
「まあ何にしても以前とは比べようも無く良い状況なのは間違いありません。」
私は同行者を見ながら少佐を元気付けるように言う。
朴永孝と金玉均は輿に乗り、ガタガタと不安定に体を揺すっている。
金玉均はこちらを向いてニカっと笑った。
彼ら独立党の立場も、立見少佐のおかげで上がっているのだ。良い事づくめだ。
コレならば小細工を弄さずとも、我等の目的は達せられるかもしれない。
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閔氏のお歴々が住う屋敷は、明代風の趣ある豪奢な建物である。
景福宮へ参内する際に何度か見た事はあるが、もちろん入った事はない。恐らく清国人以外の外国人がここに入るのは初めての事だろう。
朴くんと金くんに続いて極彩色に彩られた正門をくぐる。
2人の同行はここまでである。
彼らは閔氏と食事を共にするほど位の高い役人ではない。
案内されたのは応接間のような、さほど広くない部屋である。
木製の艶やかな椅子が並べられており、奥の椅子の脇に2人の紳士が立っていた。
政府最高実力者の1人、宰相の閔台鎬と、次世代の指導者である閔泳翊である。
笑顔で何やら言いながら出迎えてくれるが、当然何を言っているのかわからず通訳を待つ。
「本日はわざわざご足労いただきありがとうございます。」
通訳の声は義務的で冷たいが、目の前の本人たちの笑顔は気持ちを十分表現していると言って良い。
「こちらこそお招きありがとうございます。政府を支えるお2人のお招き、大変光栄に思います。」
私の礼儀に満足したのだろう、2人は我々に腰掛けるよう勧め、自分たちも木の椅子に腰掛けた。
「当初批判もありましたが、立見少佐のご指導は素晴らしい。国王陛下始め我々皆感銘を受けております。」
いい、これは10年間感じた事のない友好の雰囲気だ。
これも立見少佐の指導あっての事、ひいては福沢先生の御協力の賜物だ。
「勿体無いお言葉、忝のうございます。今後も国王陛下の治世のため、最強の軍隊を作り上げるべく努力してまいります。」
少佐も礼をもって応える。なんと素晴らしい雰囲気だ!
日朝修好条規以来、まあアレは沿岸の砲台を破壊したりもあって最悪の雰囲気だったが、政府高官とこのような友好的会合がもたれた事は無かった。
我々はしばし通訳を通し歓談。
茶を飲みつつ甘い言葉を交換し合う。
「このヨンイクが日本国との友誼は深めるべきだと、パクヨンヒョ・キムオッキュン辺りに吹き込まれていた。我々年寄りには考えられぬ事だが、余りにしつこいので、中軍程度ならば試してみようという事になった。」
ミン・テホ殿が笑顔で当時を振り返る。
「結局は若者の判断が正しかった。こういう驚きは何度あってもいいものだ。」
「宰相は先日の閲兵を経験し、すっかり立見少佐の支持者になってしまったのです。自国の軍隊が捧げ銃などするとは思っていなかったので。」
ミン・ヨンイク殿もご機嫌である。思うに彼の面子も立ったという事だろう。
ここで....1度打診してみるか?反応を見ておくだけでも価値はある。
「宰相閣下、このような両国の友誼が更に貴国の発展につながるよう、私より1つご提案がございます。」
2人は笑顔のまま私の言葉を待つ。なるべくさり気なく、さり気なく。
「実は日本国においても、このような外国人の雇用は頻繁に行われております。古くは旧幕府が外交顧問に据えたシーボルト殿、新しくは外務省法律顧問のヘルマン・ロエスエル殿。」
2人は真剣な顔つきに変わる。いけるか?
「我が国が天皇陛下を政治の中心へ押し上げたのも、こういった外国人雇用で列強の進んだ文化を吸収できたからと言えます。そこで如何でございましょうか?本邦の改革において多大な功績のある、後藤象二郎殿を.....。」
「公使閣下!ソレは無い。」
そこに宰相の鋭い声が飛ぶ。意味は通訳を待ってようやく知れる。
「我が国は日本とは大きく異なる。大中華の冊封を重んじ伝統を重視してきた国である。これが意味するのは徳による統治であり、幻術・奇術や商売による統治ではない。」
ミン・テホ殿はそう言ってその話を打ち切る。
ここに食い下がっても全く意味はない。この10年味わってきた朝鮮の壁だ。
目の前の蝋燭の火が、少し暗くなったように感じられた。
「さあそれでは支度が整いましたので、ご両名あちらのお部屋へお進みください。」
ミン・ヨンイク殿が不自然なほど笑顔で、我々2人を食事の席へと案内してくれる。
贅を極めた食事が用意されているのだろう。
しかし私の口には、なんの味わいも感じられぬであろう。
一歩進めたと思った友好の歩みは、何の意味も無いものだった。
この国は変わらぬ。
蒙昧無知であるまま、頑迷不遜であるまま、変わらぬ。変わらぬ。
私は勧められるまま酒を飲み続けた。
それは一筋の酔いも与えてはくれなかった。
不意に8月の暑さが体を襲い、不快さが増してくる。
香の焚かれた芳しい室内に居るのに、何故か私の鼻は漢城府の悪臭を嗅ぎとっていた。




