大関山陥落
なんかPVが見たことない数字になってます(°▽°)
皆さん、お読みいただいて本当にありがとうございます。
ブックマーク・評価もいただき、モチベ上がりまくりです。
日間10位に至っては・・・言葉もありません。頑張ります!
じゃあ従軍は明日からオナシャス......。
なんてヌルい話は当然通用しません。今から行くんだよ。決まってんだろ!
満男を置いてきちゃったのは可哀想だった。しかし今から呼びに行く時間もないしな。
自力で人吉まで来い!と投宿先に使いを出してもらう。
荷物も持ってこいよパシリ。
「犬養毅は兵の前に立つ記者だと聞いた。ワシと一緒に後方から見物じゃあ物足りないかな?」
「とんでもありません。こんな機会を頂けて感謝申し上げます。」
旅団司令官に随行を許されるなんて、本当の御用記者でもない限り貰える機会じゃない。
このひと月ほどで聞いた話では、東京日日新聞の福地って言う記者が、なんと山縣有朋総司令官に随行を許されているらしい。でもこの人、新聞記者兼政府役人みたいな立ち位置らしいので、まあ別格だね。
「んで、馬は乗れっか?」
「......徒歩でついていきます!」
馬乗れないからこのチャンス逃す、なんてあってはならない。
意地でも食らいつく!と思ったけど、駆け足で進むほどではなかったので問題なし。
そんなわけで、三浦少将は司令官付きの将校たちを引き連れ、打合せながら進軍中。
八代の征討軍臨時司令部から、人吉へと向かう。
薩軍本隊は盆地である人吉から離れて、山へ陣地を移動させるだろうということ。
その動きは斥候が探索中らしい。
ひとしきり話を終えた三浦少将は、コッチに寄って来た。
「話は聞いたろ?犬養君はどう思う?」
犬養君って呼び方明治っぽい!なんかこんなエライ人にトモダチっぽく呼ばれて、恐縮してしまう。
「どう思うとは......薩軍の布陣ですか?」
「ウチの若いのは、国見山に布陣するだろうって言ってるな。」
そんな事教えていただいていいのでしょうか?記事にしますよ!
でもこの時代、ツイート出来るわけでも無いから、そこまで情報規制の意識はないわけだ。
「私もそう思います。」
地図を頭に思い浮かべる。国見山は南側に街道を背負っており、退却の際も日向方面へ動きやすい。
「今の薩軍は、日向(宮崎)方面に展開している別働隊と、どうにかして合流したいだろうと思います。国見なら征討軍とはひとあたりして、すぐさま蝦野に退き街道沿いを移動できます。」
「意外と普通だなあ、え?」
三浦少将はヘラっと軽薄に笑った。だから俺別に戦術とか詳しくないし。
「国見はちょっと道が良すぎる。退くは易いが守りに難い。」
少将は誰ともなく呟く。
「大軍対寡兵の戦いだ。道の険しい山に頼りたいだろう?ワシなら大関山だね。」
「大関山ですか.....。そこだと確かに攻めづらいですが、兵を引くときには厳しいものになりますね。」
「ワシは幕末から薩摩隼人とは馴染みさ。アイツらは退く事を考えん。」
サラッと怖い事を言う。今のセリフ記事にいただきます。
イヤこの戦いは、日本で最後の内戦となるわけだけどね。
新国家ビジョンが持てなかった武士階級の反発、新国家の生みの苦しみなどなど、この戦争について報道は多くの見方を発信してきた。
しかし開戦時はともかく、ここに来て不思議と『西郷の大逆』という言葉は影を潜めている。
むしろなんでこうなっちゃった?みたいな原因究明の論調が目立ってきた。
まあその急先鋒が俺なんだけどね!
さらに新聞報道を通して『征韓論』が再度クローズアップされ、一般人の間で再び義論されているようだ。戦場にいるとその辺分からないけど、藤田茂吉さんからの手紙には、アツい世間の論争が伝わってくる。
西郷さんが下野した直接の原因だからな。
ソレにしても他社も急激に部数を伸ばしてんだよ!ウチだけじゃ無かったんだよ、クソ!つまり日本に新聞が広まっていったキッカケは、西南戦争だったというわけ。
前世で報道に関わってきた者としては、ちょっと驚きの事実。
報道する側としても人が殺しあう光景を見聞するのは辛い。それを記事にするときは更に気分が良くない。
でも確かに果たせる役割があるとき、俺たちは躊躇せず人の死を記事にする。
世間がこれで内戦の愚かさを知り、国を論じる気分が高まるのであれば、その間違った死は社会への警告に変わる。
内戦なんていう最悪の事態が、商売の契機になっていく因果な仕事。
役に立っているという実感がなければ、やってれるモノじゃないんだ。
この日は丸々行軍に費やされ、征討軍第3旅団は人吉へと到着した。
薩軍が使用していた設備は焼き落とされていたが、田畑への影響を出来るだけ避ける配慮がされていた。
住民たちは薩軍へ家屋などを提供していたようで、自分たちはすでに別の場所へ避難していたようだ。ここにも現地住民と薩軍の、心の通った情景が見て取れる。
これは官軍的によろしくない状況だ。
現地民が薩軍に脅かされて逃げ出したのなら被害者だが、薩軍を積極的に支援してたら『利敵行為』である。
「住民たちは薩軍の被害者である。罪を問うてはならない。」
三浦少将は早速指令を出し、住民への暴力行為を固く禁じている。
そうでなくちゃね。このカッコいいところもちゃんと記事にしますよ!
その晩なんと、司令官の作戦会議に同席という機会をもらいましたああ!
本当になんという厚遇ぶり。
全部記事にしますからね?止めても遅いですからね?
すっかりテンション上がった俺は、前のめりになって全発言丸写しに取るくらいの勢いだ。
「斥候より報告ありました。薩軍の布陣は大関山です。」
将校がウンザリしたようにに言った。攻める方としては超イヤなのだろう。
つまり守る方としてはそれが正解ってわけだ。
三浦少将はしてやったりと笑っている。
「おいツヨシ!」
今日の行軍の途中から、三浦少将はツヨシ呼ばわりしてくるようになった
俺もゴロちゃんと呼んで対抗すべきか・・・。時を遡ってSM○P結成か?
「その速記よこせ!議事録として採用する!」
ェェエエ〜!!俺のメモがああ!!
まさかゴロちゃん最初からそのつもりでえ?
軍人ってこういう所がアレだよな!
さて人吉の駐屯地では野宿同然、焼け落ちた小屋跡に布を貼ったりの急場しのぎということになった。
蚊帳はあるのでそこらに吊るし、貴重なロウソクの灯りでなんとか記事を書く。
ここでの戦闘はそう長くないと見られているので、本格的な造営は見送られている。
幸い雨じゃないけどね......。でもこれから間違いなく梅雨ですよね?
この生活まだまだ続くのか。
西南戦争っていつ終わるんでしょうか?冬まで続かない事を祈るばかりだ。
翌日早朝から第3旅団は、第1・第2旅団とともに大関山を二面攻撃!
数に劣る薩軍は1日もたず、夕刻には総崩れとなり部隊は四散した。
死者は数百名に及ぶ。攻め辛い地形の所為もあって、征討軍側の被害も大きかった。
3旅団の兵士たちが、両軍の死者を埋葬しているのが見える。
田原坂の戦いの頃はそんな余裕もなく、戦死者が野ざらしにされていたのだが、ここに来て死者に尊厳を払う気持ちが兵士の間でも高まっている。
なんたって皆同じ日本人なのだ。
おまけに薩軍の勇士達は一切死を恐れず、あまりにも勇敢であり、征討軍の兵士たちは彼らに尊敬の念を抱きつつあった。
更には残された彼らの物資や装備を見て、涙を流さないものは無かった。
彼らが身に着けている物資はあまりにも貧しく、薩軍が極限の行軍をしているのが一目で分かるのだ。
「ツヨシ、日本中のやつに伝えてくれ。」
三浦少将の目にも光るものが見える。
「戊辰戦争も西南戦争も間違いじゃねえ、必要な戦いだった。だがな、こんな戦いはこれで終わりにしなきゃあダメなんだ。」
内戦に次ぐ内戦を戦ってきた三浦少将。
その眼は埋葬から目を逸らさず、一人一人を見続けていた。
そして味方にも敵にも等しく涙を流していた。
俺も目を逸らさない。
日本が生まれ変わるためにこの使命を全うするのだ。
土を食ってでも生き延びて、この戦いを全国民に伝えきってやろう。
あれそういえば......満男はどうしたっけ?