生まれ来る者たち
明治13年(1880年)10月2日
「吉備津彦命とはどのような神なのですか?」
金之助はおっ母の持ってきてくれた『安産祈願』のお守りを見ながら何か言っている。
「....うん?」
俺は先ほどから座卓に向かって、パラパラと後藤さんから送られて来た書類に目を通している。
頭には何も入って来ないがな。
「いえ。ご母堂様が仰るにはこちらの神社のご神体が、先生のご一族と深いご縁があるとか?」
「縁?うん、そうだな。」
「して吉備津彦命とはどのような?」
「どのような?うん、そうだな。」
「せんせー.....。」
「うん?そうだな。」
「腑抜けじゃ。金之助、そいつは今使いモンにならん。」
次郎が呆れたようにそんな事を言っている。
「腑抜け?うん.....。」
「ワシが教えたるけえ、コッチ来い。」
言われて素直にはいと言い、縁側に寝そべる次郎の脇に正座する金之助。
「....先生は....ですよ、次郎さん。私も....気を紛らわせて....。」
「ほっときゃええんじゃ。どうせ.......おっても男は....じゃけえ。」
何言ってるか聞こえんが、大体の事は分かるぞ。
そーです、綾さんが朝から産気づいて、我が家は大騒ぎなのです。
おっ母が場を仕切ってお湯沸かせの産婆呼べのとやってくれ、更には渋沢さんの奥さんも参戦して『女子の戦場に殿御は立ち入るな』とやられた結果、俺たち完全に手持無沙汰。
矢野さんのお宅へ急ぎの使いを出した後、落着きを取り戻そうと書類なぞ読んでいるが効果なし。
「...吉備津彦命様はな、恐れ多くも....での、犬養家の.......っちゅう話じゃ。」
遠くの方で次郎の語りが聞こえてくる。ああ、そんなんどーでもいい、メッチャどーでもいい。
俺の人生で子供を得ることがあろうとは。
前世において戦場で人の死ばかりを見てきた所為か、結婚すら身近な事と思えなかったのに。
この時代は死産や幼くして病死する事が多く、出産は母体にすら影響がある事もあったっていうじゃない。
誕生ってなんだろか....命がけの出産までして俺たちはただ、子孫を増やし小さな人生を繰り返していく。俺は人生遡って生きちゃってるのかもしれないけどさ。ああもう今はただ、子供と綾さんが無事でいてくれることを祈るのみ。
そう!吉備津彦命さまよ!どーでもいいとかゴメンナサイ!あれウソだから!!
どうぞ母子ともに無事出産を終えられるよう、何卒ご加護を!
神社とか行った事ないけど!次実家に戻ったときメッチャお礼するから!
俺が両手を組んでブツクサ神に祈ってると、縁側からため息と共に声が聞こえる。
「腑抜けじゃの....」
「ですねえ....」
何とでも言うがいい。
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「ひー!めんこい女の子じゃあ!ほれ!アンタも抱いてやりい!!」
おっ母は顔面を崩壊させながら、書斎へやって来て俺を呼びつける。
俺は一気に脱力し、立ち上がる事が出来ずにいた。
「生まれた....そう、良かったあ....。」
おっ母は呆れた顔で俺を蹴とばす。
「ほれっ!こん腑抜けが!はよう女房んとこへ行ってやらんかい!」
イテエ、良かった、どっちも無事かあ。
「無事に決まっとロウ!ほれ早う!」
俺がノロノロと立ち上がり寝室へと入って行くと、汗で光った顔の綾さんが、それでも誇らしげに俺を見つめる。
「アナタ....無事生まれました。」
「うん....」
「女の子でしたけど.....」
「何言ってんの....女の子最高じゃない....」
俺は涙がグシャグシャに流れちゃって、何言ってんのか良く分からない。
綾さんの脇には真っ赤な顔をした女の子が、ウェエエとか細く泣いていた。
「2人とも無事で本当に良かった。俺、ほんと幸せだから。ありがとう綾。おれ、ほんと.....」
俺が泣き出しているのに綾さんは笑い出した。
それを見て俺もへへへと泣き笑いする。
「こん腑抜け!男がめそめそしてどーすんじゃ!赤子よりアンタが泣くな!」
また蹴とばされる。イテエぞおっ母、アンタもハナ垂らしてんじゃんか。
「抱いてやって下さい。」
綾さんがそう言ったので俺は恐る恐る手を伸ばすが、産婆にビシリと手を叩かれる。
「手ぇ洗っておいで!」
俺はそうやって蹴られたり打たれたり腑抜けと呼ばれながらも、どーにかこーにか娘を抱き上げる。
命の誕生を前に情けないもんだな、男なんて。
俺ってこの命を守り続けるほど、強い男になれるんだろうか。今さらなんだけど。
手の中の娘はとても頼りなく、それでもウェエエとか細く山羊みたいに泣きながら、俺の指を握ってくれた。
いや前言撤回。俺この子のためなら何でもできるわ。
「名前はどうするんじゃ?」
おっ母は目を細めて、孫の顔を眺めている。
「お母さま私たち....男の子の名前しか考えてませんで....。」
綾さんが弱々しく、申し訳無げにそう言う。
「いや、俺は考えてあるよ。」
俺はそう言って綾さんの脇に座る。
「この子は桜、サクラだ。」
「え......。」
桜の花の思いでは2人の絆。この子も2人の絆だから。
「でも.....」
へ?気に入らないの綾さん?なんで?
「この子は.....春生まれじゃありませんから......」
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「そりゃあ奥様が正しいよ。それで華ちゃんになったわけね。」
翌日、コワシさんがどこかで一報を聞いたらしく、お祝いに駆けつけてくれた。
「そーじゃろ?大体コイツはそそっかしいけえ。秋生まれの子供に桜は無いじゃろのう!」
次郎ごときが偉そうにそんな事を言う。はいはい、そーですねスイマセン。
「いやだからね、あの時俺は感極まってだねえ.....。」
「奥様が冷静で良かったね。」
コワシさんはケラケラと笑っている。どーせ冷静じゃなかったですよええ。
「まあホンにこの子は....ナンボ賢くなったか知れんけど、そそっかしいのは昔から変わらんねえ。」
おっ母が茶を淹れてくれた。すぐ失礼しますので、とコワシさんは恐縮の体。
だがチラチラとおっ母・次郎・金之助を気にする素振りなので、何か話かなと書斎へ案内する。
「いやお祝いついでに申し訳ない。こんな話をするのに相応しい日じゃあないと思うんだけど....」
コワシさんは座布団にドサリと胡坐をかいて、手ずから持ってきた茶を啜る。
「何かあったんですか?」
「後藤さんから書類が届いてなかった?」
ああ、昨日パラパラ捲ってたあれね。其処らに置いてあるよね。
「どうやら頭には入ってないようだね。そうじゃないかと思って顔を見に来たんだよ。昨日は主流派会合で打合せしたんだけど、後藤さんからツヨシくんの奥様がご出産と聞いてさ。」
それで情報速かったわけですか。ああ、ここにあった。
「その書類は華族令制定に関わる、叙爵家のリストなんだけどね。皇族・公家・士族の後に、親叙爵家の一覧があるんだ。」
俺は言われたところをパラパラと探し、コワシさんの意図を知る事になる。
「これって....。」
「予測しておくべきだったね。全くウッカリしていた。」
ちょっと悔しそうなコワシさん。
山県有朋伯爵の誕生は、時代がやはり戦争を求めている証なのだろうか。
俺たちが身体を張って封じ込めたと思った維新の怪物は、やっぱりそう簡単に消え去りはしないのだ。
「このリストは岩倉具視卿に一任していたモノだ。伊藤首相も了解していた事だから、今更どうこう言えるモノじゃない。おまけに議会運営規則についても、閣議決定で貴族院の開設が決まっている以上、ひっくり返すわけにもいかないね。」
そーか、山県伯爵は貴族院議員として国会審議に参加できるわけだ。
「何というか....新薩長派は最初からこれを狙ってたんですね。」
迂闊だった。そうとしか言えない。
「全くだよね。」
俺とコワシさんはそう言って黙り込んだ。
縁側の外には刈り込まれた低い垣根が、少し色付いているのが見える。
俺は初めて紅葉館で、3人が対面した3年前の日の事を思い出していた。
その時俺たちが話した事といえば、山県卿を封じ込め、朝鮮独立党に手を貸し、政党を立ち上げる。
そんな事『出来るわけない』と思っていたんだ。普通出来るわけない。
けどそれはまるっきり達成不可能な事でもなかった。俺たちはドタバタしながらも、それに行き違いもあったけど、更には拘置所行ったり刺されたりと悲惨なメにもあったが......。
どーにかここまでやって来たんだ。悲惨な戦争を回避するために。
今ここで少しばかり後退したけれど、俺はまだ負けた訳じゃない。
山県卿は因数の一つに過ぎないし、無駄な戦争さえ起きなきゃあそれでいいんだ。
俺の子供たちが住む、明るい未来のために。
「山県卿の復活は仕方ない話でしょう。あの人の存在を消し去るなんてこと、そうそう出来る訳じゃない。今は軍部と内閣で、主流派を掴めている現状を良しとしましょう。」
俺はそう言ってコワシさんを見る。
「そう、私もそう思う。新薩長派に一本取られたが、まだまだ我々が主流派なんだ。」
コワシさんは大きく頷いた。
「そうです!大隈さんは閣外に去ることなく、改進党は政府与党となって、俺たちは着実に.....」
「なんだって?」
食い気味にコワシさんが反応する。
いや、なんか変な事言いました俺?
「大隈さんが閣外に去らない......それだよ。」
えーどれでしょう?
「よーしよーし。ツヨシくんそれナイス!すぐ戻って準備しよう。」
コワシさんはスパッと立ち上がると玄関へすっ飛んでいき、ドタドタと靴をつっかけて往来へ慌ただしく駆け出していった。
「おやー。今のは井上さんかえ?すぐ帰るゆーとったけど、随分と忙しい人なんじゃねー。」
おっ母は孫をあやしながら、玄関に立って外を眺めている。
なんか思いついたんですねコワシさん....でも過去アナタがやって来た黒い謀略の数々を考えると、居たたまれないほど不安なんですが.....。