笑顔の女神さま
彼女は『いま、自分がどれだけ嬉しいかを伝えたくてしかたない』といった感じの天真爛漫な笑顔を、俺に見せてくれた。
全身から喜びがあふれ、体がリズムにのって優しく軽やかに揺れている。
そのまま草原で小鳥や小鹿たちとハミングしながらくるくると踊っていたらいい絵になりそうだ。
だが、ここはボロアパートの一室で、俺たちは商談の真っ最中だ。
彼女はその細くしなやかな指先で軽やかに、俺のクレジットカードをハンディ決済器に通す。
そして決済器にぶらさがっているテンキーを笑顔で俺に差し出した。
俺が躊躇していると彼女は思い出したように『大丈夫、暗証番号を盗み見たりしませんよ』と言う感じで視線をそらせた。
ブロンドがふわりと揺れて、いい匂いが部屋に広がる。
俺は震える手で暗証番号を入力し、確定キーを押した。
『シャラランラン』
派手な決済完了のメロディと共に、一瞬、決済器が青白い光を放った。最近の決済器はイルミネーション機能でもついているのだろうか。
さよなら、俺の6万円。
こうして、晴れて【赤い壺】は俺のものとなった。
俺の部屋の中でパソコンの次に高価な品物、【赤い壺】。
家族にも友達にも同僚にも絶対に買ったと言えない、【赤い壺】。
これから毎朝これを見る度に気持ちがブルーになりそうな、【赤い壺】。
壺を手に取ってみると不思議な感触がした。
陶器だと思っていたのだが、それにしては軽い。
かと言ってプラスチックほど安っぽくなく、金属のように冷たくもなかった。
手の中でぐるりと動かすと光を反射して宝石のように輝いた。
赤と言っても幅が広いが、今までに見たどんな赤よりも深みがあり、妖艶な気配を漂わせている。
壺の首には1本のラインが、腰の部分には三角の模様がそれぞれ金色で描かれていた。
それぞれ手書きの味わいがあり、素人目に見ても大量生産品でないことはわかる。
軽く爪で弾いてみるとクォーンと言ういい音が響いた。
流石は高級品。6万円。
「これ、1本サービスしておきますね」
彼女は笑顔で【精力絶倫! 深海魚脂 ハイパーV】を差し出した。
「ありがとう……」
徹夜続きの頃だったら重宝したのだけれど……次の仕事のピークに備えて冷蔵庫にでも入れておこう。
そんなことをグズグズと考えている間に、彼女は軽快な手つきで商売道具を大きなバッグにしまい込みスクッと立ち上がった。そして――。
「本当にありがとうございました! 私、やっていけそうな気がします!」
と、ていねいにお辞儀をした。
いや、俺としては1日も早くこんな商売からは足を洗って欲しかったのだが……今は彼女を説得するだけの気力は俺には残されていなかった。
不本意な高い買い物がこんなに心に響くとは。
なんだか、目の前の可愛い笑顔さえもどこか虚しく見えてきた。
俺は彼女を玄関まで見送った――とは言っても歩いて3歩ほどだが。
そこで、玄関に彼女の靴がないことに気づく。
部屋に入ってきたときはテンパっていたので気づかなかったが……どこへ行った?
と、靴を探して周囲を見回した俺は、異常な光景に気付き驚きのあまり飛び上がった。
彼女の体が床から数センチほど浮いていたのだ。
「あ、あ……」
口が勝手に声を出そうとするのだが、声にならない。
腰が抜け、その場にへたりと座り込んでしまった。
急に座り込んだ俺を見て、彼女は思い出したように――。
「あ、こちらではお別れの挨拶はこうするんでしたね」
――と言って正座をすると、深々と頭を下げた。
正座をしながらも、やはり彼女は宙に浮いていた。
そして、彼女が玄関のドアの前に立つと足元が光を放ち、そこに金色のサンダルが現れた。サンダルはまるで生き物のようにするすると彼女の足に巻き付いてゆく。足がサンダルにピタリと納まると、彼女はゆっくりと着地した。
そして……。
「へへへ。少しは勉強してきたんですよ、この国では土足は禁止だって」
と言ってほほえんだ。
彼女が玄関のドアを閉じる。
廊下を歩く音が遠ざかっていった。
異様な気配はまだ部屋の中に残っている。
次の瞬間、玄関のガラス超しに、外で何かが強く輝くのが見えた。
光は一瞬で収まった。
同時に異様な気配は消え、普段どおりの、土曜日朝の静けさが部屋を満たした。
我に返った俺は恐る恐る玄関のドアを開け、隙間から廊下を見たが、既に彼女の姿はそこにはなかった。
急いで窓に駆け寄り、身を乗り出して通りをさがす。
だが、そこにも彼女はない。
タイミング的に、どんなに急いだとしても窓からは彼女の後姿が見えていなければならない。
他に抜け道はないのだ。
アパートの他の部屋に立ち寄ったのか……いや、このボロアパートで他の部屋の玄関チャイムを鳴らせば、絶対に俺の部屋まで音が聞こえてくるはずだ……と、なると……。
幽霊。
いや、まさか、本物の……女神?
俺はテーブルの上に静かに佇む【赤い壺】に視線を向けた。
そしてもう一度それを手に取り、艶やかなカーブを指でなぞった。
現実だ。
夢ではない。
6万円の壺。
『ポン!!』
突然、風船が爆ぜるような音と共に白煙が上がり、手の中から壺の感触が消えた。そして――。
「ちょっとアンタ、さっきから触り方がやらしいのよ!」
――可愛らしい幼女が、いつの間にか俺の目の前で仁王立ちをしていた。
赤いドレス、淡い紫色のストレートのロングヘアーに大きなリボンを付け、ドレスと同じ赤い瞳でぐっと俺を睨みつける。
そして、プイッと横を向くとこう言い放った。
「この、ヘンタイ壺マニア!」