愛しの女神さま
玄関のチャイムが鳴る、その直前に目が覚めた。
『ピンポン!』
霞む視界の片隅で、床に転がるコンビニ袋がカーテンの隙間から差し込んだ光に四角く照らされていた。寝ざめは、悪くない。まったく……休日の朝に限って寝ざめがいいのはなぜなんだろうか。
だが、たとえ寝ざめがよかろうとも、悪かろうとも、ベッドから出る気はない。
俺はくるりと背中を丸め、掛け布団を引き上げた。ベッドが軽く軋む。
おやすみなさい。
もう一度、鳴る気配――。
『ピンポン!』
鳴る前に気配を感じる。
玄関チャイムとか、電話とか、目覚まし時計とか。
そんな現象にもなにかしら辻褄があう理由があるのだろう。
超能力や霊感なんていう、夢がある話……ではなくて、聞けば『なるほどね』と思うような、『いいね』とタップした1ヵ月後には忘れていそうな、そんな、つまらない理由が。
たとえば、気配と思っているものの正体が……電気的な何かだったり、耳には聞こえない音だったり。
俺は目を擦って枕元の目覚まし時計に目をやった。針を読む前に予測する。体感では……朝の9時半――――惜しい。10時を回ったところだ。
だがしかし、たとえ今がなん時だろうとも、ベッドから出る気はない。
なにしろ俺は、終電つづき、休日出勤つづきの破綻した工程からやっとの思いで解放されたばかりなのだ。
昨日はひさびさに定時で帰り、缶ビールと乾きものでひとりささやかな祝杯を上げ、『明日はトイレとメシ以外はベッドから出ない』とかたく決心して眠りについたのだ。
俺の決心は楽な方向に関してなら、そこそこかたいのだ。
布団のなかで息をころす。
もう一度、鳴る気配――――。
だが、それは寸前で止まった。
来訪者があきらめて立ち去る気配を感じる。
よし。これで落ちついて眠れる。
俺はもうひと眠りするまえに『ぐぐぐーっ』と伸びをした。
それが、全ての始まりだった。
伸ばした指先に『なにか』が当たる。
その『なにか』がビールの空き缶であることに、すぐに気づいた。
気づいたときには遅かった。
ガッシャン! ガラガラ!
昨夜、酔いにまかせて意味もなく、枕元に積み上げたビールの空き缶が音を立てて崩れる。
思わず『ウわっ!』と声がでた。
――――! タタタタ。
その音を聞きつけた来訪者が戻ってくる。
そして、嫌な気配――――。
『ピンポン! ピンポン! ピンポン! ピンポン! ピンポン! ピンポン!』
玄関チャイムが連打された。
このヤロー。
居留守を決め込んでいる負い目もあったのだが、来訪者には来訪者のマナーと言うものがあるはずだ。
俺はパッと布団を跳ね上げて、昨夜の誓いをサラリと破り、ベッドから立ち上がった。
そして、怒鳴り倒す気まんまんでドアの前に立ち、バッとドアを開けた。
そこには、目が覚めるような、美しい女性が立っていた。
豊かなブロンドに縁取られた均整の取れた顔立ち。
青い瞳。
艶やかな肌。
目元と口元に残る幼さ。
清純な白いワンピースから伸びる細くしなやかな腕と、ほのかな色気を放つ肩と、胸元。
ささいな怒りなど一瞬で蒸発した。
世界が輝きで満たされた。
全身がしびれるような衝撃が走った。
胸がキュンと鳴った。
瞬く間も必要なかった。
俺は一瞬で、彼女への恋に落ちた。
女神。そう、彼女はまさに女神のような……。
……いや、ちょっと待て。
女神過ぎる。
羽飾りがあしらわれたティアラ。
額に煌めく深紅の宝石。
どちらも『お洒落』の範疇を軽く越えてしまっている。
それにブロンドと白のワンピース。
これではまるで『女神のコスプレ』だ。
「おはようございます! 異世界の方からまいりました。お話を聞いて欲しいのです」
無言でドアを閉められても文句は言えない、怪しすぎる第一声。
新手の霊感商法か。
騙す気はあるのだろうか。
引っかかる奴など居るのだろうか。
頭の中に、自分がパタリとドアを閉めるイメージが浮かんだ。
だがしかし――。
「立ち話もなんですから、中で……」
――俺の口から出たのは、そんな言葉だった。
だって可愛いんだもの。仕方ないじゃないか。
「はい、おじゃまします!」
彼女は何のためらいもなく俺の部屋へ、最初の一歩を踏み入れた。
こうして、俺と彼女の物語は始まった。