お勉強は嫌いです
馬車を降り、見晴らしの良い丘で空を見上げる。傾き始めた陽が眩しい。
大きく伸びをして、全身の凝りを和らげた。
もうすぐ夕暮れだけれど、まだ昼の陽気が残っている。南下している事もあり、日に日に暖かくなっていく。
出発から1週間経っても、まだ皇国内。王国の領地へ辿り着くには、あと2週間もかかるらしい。我が国の大きさを身をもって知る。
「ふふふ」
うっ。背後でマリーが微笑んだ。周りは私の侍女や近衛騎士ばかりなのだから、少しくらい伸びても良いじゃないか。
マリーはお説教とお勉強を交互に繰り返している。皇女としては少々行儀の悪い私が他国で孤立しないよう、移動中に矯正したいようだ。全くの善意でその気持ちは嬉しいけれど、休みなく続くと辛くなってくる。
普段なら護衛に話しかける事で話題を変えるのに、毎日同乗するのは打っても響かない無口な新人くんだ。しかも何故か目を閉じていて、なお話しかけづらい。今度こそ勤務中に寝てると思う。
彼の身長や体格は一般男性並み、つまり騎士の中では小柄だ。狭い車内で圧迫感を与えないよう、彼が選ばれてるのだろう。
配置に口出しはしたくない。したくない……けれど、同乗する護衛を替えてもらおう。今日宿泊予定の伯爵領まで、まだまだ距離があるのだ。そろそろお説教から逃れたい。
「ユアン」
「ミア様。本日は遅れが出て、申し訳ありません。晩餐までには到着の予定です」
「えぇ、そう。それは良いのよ」
いや、あまり良くない。お説教タイムが長くなる。さっさと配置変更を申し出よう。
「ちょっとお願いがあるの。護衛の…あの……あれ」
どうしよう。新人くんの名前が出てこない。ずっと心の中で新人くんと呼び続けていたせいだ。皇女なのに人の名前を覚えるのが苦手で困る。
確かCが付いた。カルロス、チャールズ、コナー……違うな。クッキー、チョコレート、チーズケーキ……これは今食べたいもの。
「ミア様?」
「ま、待って。えっとね……」
このままでは休憩時間が終わってしまう。
えっと…えーっと…んー……うぅー、焦ると出てこない。もう家名でいい。ベンシード伯爵家の三男だったはずだ。たぶん。
「ベ、ベンシードの事なんだけど」
「あぁ、はい」
ユアンが新人くんに目をやる。よかった、合っていたようだ。
「配置変更をしてほしいの」
「何かありましたか」
「彼、車内でずっと寝ているわ」
「まさか!……そのような事が?」
「えぇ、ずっと目を閉じて一言も喋らないの。間違いないわ」
ユアンが顎に手を当て首を傾げる。失礼かも知れないけれど、犬のようで可愛い。フワフワの髪を撫で回したくなる。
「確認してみます。今までの勤務態度は真面目でしたから。視界を遮り、聴覚で周囲を警戒してるのかも知れません」
「えっ、そんな事あるの?」
「車内では外の様子が見えませんから。最初から視覚を諦めた方が、他の感覚が鋭敏になります」
そうなんだぁ…って、いやいや。隊長になるまでユアンが同乗してたけど、そんな事してなかったじゃない!
「あれは絶対に寝てるわ。いえ、仮に寝てなくても配置を変えてほしいの。無口すぎよ!」
とにかく彼以外にしてもらわなければ、お説教からの逃げ道がない。ユアンが困ったように眉をへの字にしている。
休憩終了のベルが鳴った。
「かしこまりました。では、明日から配置を変更いたします」
そう言って馬車にエスコートされる。間に合わなかった。
私に続き、優雅に微笑むマリーと無表情の新人くん…もといベンシードとが乗り込む。楽しくないお説教タイムの始まりである。
馬車は左右を森で挟まれた道へ入っていく。低くなった太陽が高い木々に隠され、薄暗い。陽が落ちる前に森を抜けなければ、真っ暗になるだろう。
こんな時間帯の森には幽霊が出ると聞く。亡くなったお祖父様が木々の間から顔を出し、手を振ってくれる気がした。
お祖父様はいつも優しくて、悪戯をして逃げる私をよく匿ってくれた。部屋にあった本は難しくてつまらなかったから、お話をしてくれたな。
「ミア様……ミア様、聞いていらっしゃいますか?」
マリーが尋ねる。もちろん聞いていない。現実逃避していたのだ。
「もちろん聞いていたわ。皇女たるもの何時も気を引き締め、誰にも誇れる行いをしなくてはね」
目を細められる。怖い。
「それではミア様、エアラント王国史について一から復習しましょうね」
どうやら歴史の確認テストをされていたらしい。現実逃避してなくても答えられなかっただろう。歴史は苦手だ。人名も年号も覚えられない。客観的な事実を綴ってるから語り口も単調で、頭に入らない。今もマリーの言葉が右から左へ流れてしまっている。
話題を変えたい。一縷の望みを持ってベンシードに目を向ける。やはり無表情のままピクリともしない。揺れる車内で動かず寝るとは、器用なものだ。余計な力も入らず自然に閉じられた瞼が…………ふいに開かれた。
ヘーゼルの瞳が姿を現わす。結ばれていた口が、最小限の動きで言葉を紡ぐ。
「襲撃です」