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寂寥

作者: 山本カモ
掲載日:2018/01/05

 さながら姫を救う騎士のような心持ちで僕はそのビルへと向かう。だが、そこには救うべき姫も、戦うべき敵もいないのだ。僕はただ、誰もいない深夜の廃ビルへと向かうのだ。


 荒廃したビルの入り口の前に立つ。ガラスはすべて割れている。ここは何年たっても変わらない。きっとこれからも。ここに来ると形容しがたい安らぎを感じる。僕にとっての心の風景というものなのだろうか。僕はこんなところで何をするのか。

 答えは、何もしない、だ。

 僕はただ、誰の所有物でもない、だからといって誰もが入れるみんなの場所というわけでもない。厳密に言ってしまえば誰かのものであるが。これは、このビルは僕が生きるこの世界で、唯一絶対誰のものでもないのだ。それを確認するためだけにここに来る。確認して安心する。僕は廃墟マニアではないし、このビルが好きでもない。僕はここに人がいた、が今はいない、誰のものでもない人工物という奇妙な感じに心惹かれるのだ。


 やはり、このビルはいい。


 今日もこれでぐっすりと眠れるぞ、といううきうきとした寝る前には不要な感情を抱き、帰路に就く。帰り道、まさに一人だというこの感覚は満足感を与え、同時に虚無感を与える。いくら虚無感を覚えたといえど暖かい布団の中で寝られるのならそれでいいじゃないか。世の中には寝ることすらままならない人が大勢いるんだから。僕は恵まれているんだ。そうに違いない。


 頬を伝う涙、暖かい。僕はやはり一人でいることの方が好きなのかもしれない。というよりも、集団の中では生きづらさを感じる類の人間なのかもしれない。夜明け前の空を見るとそう思う。誰かが隣にいる朝よりも誰もいない朝の方がほっとする。僕は自分に力がないにも関わらず、大切なものを壊してしまうんじゃないかと恐れる。だから、一人が好きだ。きっと楽だから。それと同時に好奇心をも兼ね備えた僕という人間はそのギャップに葛藤する。大切なものを壊したくないという感情と、すべてを壊して台無しにしたいという感情との間で。帰り道をとぼとぼと歩く、今がまさにそうだ。


 あのビルの中はどうなっているのだろうか。僕の好奇心が知りたい、知りたいと騒ぐ。だが、僕は今まで一度たりとも中を見なかった。ビルの中を知ったところで僕のものになるはずがないのに。ただ、誰のものでもないという安心感、その安心感を失わせるすべてのことを受け付けたくなかった。だからこそ僕は今葛藤している。知りたい、いや、しかし知ってしまえばこのビルが俗なものになってしまう気がする。苦しい。葛藤することはとても苦しい。けれど僕はその苦しさから生きている実感を得る。逆に幸せな時ほど生きている実感がない。すべてがふわふわと夢のように感じる。全くの逆ならいいのに。そうすればもっと楽に生きていけるのに。ふと見上げた空はもう真っ青だった。


 結局僕はビルの前に戻り、一日を過ごした。このビルは朝も昼も夜も表情を変えない。朝日を、夕日を、月光を浴びてものっぺりとした壁があるだけだ。この壁が僕の心の隙間を埋めてくれればいいのに。触れた壁は冷たかった。暖かさがほしかったわけでも、冷たさがほしかったわけでもない。もっと単純で魅惑的な、目の前にある壁はもしかしたら無いのかもしれないというそこはかとなく寂しげな恐怖から触れたのである。あった、あったよ、ビルは。


 数年後、ビルは無くなって、一時の更地を経て、さらに大きなビルが建てられるかもしれない。取り壊されるのは明日かもしれない、今日かもしれない。なんだか、ガンガン、ドンドンといった音がするような。無くなるな、ビル。僕のものではないけれど、無くなるな。


 ビルの取り壊しが決まり、僕は遂にその中へと入る決意を固めた。


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