『哀憐』
まだまだ未熟なので、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします。
※この作品は、少し残虐なシーンが含まれます。また、少し刺激の強いシーンが含まれます。以上のことが苦手な方はご観覧をお控えください。
この作品は、私の溜め込んできた物語をひたすらに詰め込んでいます。
それでも楽しんで頂ければ幸いです。
辛いのは私だけではない。
そんなことは知っていた。けれど、もしかしたら私はそういったものから目を逸らしてきたのかもしれない。他人の心を見ることを恐れたのかもしれない。
それは私の弱さだ。
――けれど、もうそんな訳にもいかない。私には支えるべき者ができたのだから。
オールは皆と等しく――寂しがりなのだから。
彼女から話を聞いた後、私達は眠ってしまった。柱に寄りかかり、二人抱き合いながら、この時間は過ぎるばかりで二度と訪れないのだと私は実感していた。胸の中で寝息を立てるオールがもう凍えないように――温まるように、強く優しく抱き締めた。
翌朝、私が眠い瞼を擦りテントから出てくると、竜人の村人達は忙しく動いていた。
昨夜からオールの話を聞いてそのまま寝てしまったので、しばらく何も口に入れていない私は空腹の極みであった。
オールはまだテントの中で眠っている。相当疲れていたのだろう。私が目を覚まして起き上がろうと、抱いたオールを柱に寄りかからせようとした際、誤って柱に頭をぶつけさせてしまっても、彼女は起きなかった。
悲鳴を上げ続ける腹を押さえて村の中を歩いていると、アルステマが声をかけてきた。彼女は両手に魚が山盛りになった籠を持っている。大きな身の魚で、艶々とした鱗と澄んだ目を見る限り、どうやら獲れ立てのようである。
「おはよう、フィン」
「おはよう、アルステマ。早いね。朝はいつもこうなの?」
彼女は頷き、跳ねた髪の毛を揺らした。
「でも、今日は洛北竜様がいるからかな。おもてなししないと」
他の皆の方に目をやると、沢山の木の器に魚や野菜を盛りつけていた。彩り良く、とても綺麗な盛りつけで、随分と豪勢な風に感じられる。
この村の食糧は主に魚である。島にいくつか点在する池や湖に棲息している魚介類を獲って、生計を立てている。島は岩の壁で外の湖とは断絶されているので、勿論ここの魚は外の魚とは全くの別種である。
故に、今器に盛りつけられている魚は今までに見たことのない種類のものばかりである。恐らくは、隕石湖ができて以降、外の世界とこの島が断絶された為、進化していないままの姿なのだろう。
顎が大きく出ていたり、目がぎょろりとしていたり、脚のような鰭を持っていたりと、中々グロテスクな魚も多かった。
何というか食欲があまり湧かない。お腹は減っているのに、食欲があまり湧かない。我慢するしかないのだろうが。
他にも、彩り豊かな野菜や果実が沢山あり、そちらの方は美味しそうである。肉食の竜であるが、竜人達はあくまで人間寄りなのだ。彼らは野菜だって栽培している。栄養は十分に摂れているだろう。
「今日は、どうするの?」
アルステマは訊いてきた。
ここに来てまだ一日も経っていない。正直何があるのかなんて把握していないし、どこまで行って良くて、どこから行ってはいけないのかという勝手も分からない。
そういったこともあり、何をするか特に決めてはいなかった。元々来る予定もなかったのだから、仕方ない気もするが。
「そうなの? それなら、竜の所を会って回ってみたらどうかな?」
「ん……?」
それはどういうことだ? 竜とは、何の竜を指しているのだろうか。むしろここには竜しかいないのだが。
「あ、ごめんなさい。また説明が足りなかった。竜は七種類に分類されているのは知ってる?」
竜の種類の分け方も様々ではあるが、七種類となれば答えは明白。すなわち能力ごとの竜の分類だ。恐竜の絶滅の話にも出てきた、『竜の七日間』に基づく竜の種類か。
他にも能力別の分類ではなく、単純に竜の姿形に基づいた分類もある。四つ足に翼を兼ね備えた、オールや長のような種や、翼と前足が一緒になった、蝙蝠のような姿の『ワイバーン』、手足のない大蛇の如き『ワーム』など、挙げればきりがない。
「この島には七種類ごとに竜を分けて、それぞれを統括している竜がいるの。全ての竜を統括しているのは勿論竜の長だけれど、能力ごとに分けて組で統括することで監視の目を増やしているの。その竜達は中々ここら辺には降りて来ないから、会いに行ったら良いんじゃないかな」
なるほど、そうして小さくグループに分けて、規律を保っているのか。
彼らが自分達の持つ力の強大さというものを分かっている証拠なのだろう。竜というのは、思った以上に世界のバランスのようなものを知っている。我々なんぞよりも深く、広く。
「彼らには簡単に会えるのかい?」
彼女は「うーん」と唸り、その小さな口に指を当てた。
「面会はそれなりに許可を貰わないとできないけれど、洛北竜様の友人、ましてや恩人ともなれば大丈夫だと思うけれど……後で、村長に訊いてみるね」
「うん、ありがとう」
もしできるようならば、是非とも会ってみたいものだ。こんな機会は中々ないだろうしな。
竜の長――か。
「…………」
私は昨夜にオールが語った話を思い出した。彼女が今までにどんな苦労や苦悩を抱え、あの火山で一人眠ってきたのかを。一人の静寂に必死に決死で耐えてきたのかを。
けれど、あの話を聞いたところで、私は決して彼女の全てを理解できた訳ではないのだ。知らないことだらけで、互いに隠していることだらけで。話せない癖に、離せないままで――傷を舐め合い、宥め合い、慰め合い――私とて、皆に話せていないことは仰山とある。
「どうしたの?」
私がそうして考えに耽って黙っていると、アルステマは下から私の顔を覗き込んだ。硝子玉のような透き通った瞳が私をじっと見つめる。
その時、私の腹部から飢えを訴える大きな鳴き声が響いた。
「…………ぷっ」
アルステマは思わず吹いてしまった。私は決して恥じることはなかったが、小さく微笑んだ。
「何だ、お腹が空いていたのなら早く言ってくれれば良かったのに。待ってて、すぐに食事の用意をするから」
「ああ、うん、ごめん。ありがとう」
周りの竜人達も今の空腹音で忙しく堅かった表情に、笑みの色が差し込んだ。決して私に対する嘲笑ではなく、もっと温かくて優しい笑顔だった。
私の故郷ではあり得ないことである。少なくとも、失敗や失態をすれば、同年代の子ども達から卑下されるのは必然であった。
「おはよう、フィン」
すると、私の背後から小さく細い声が聞こえた。
後ろを振り返れば、そこにはナキが凛と佇んでおり、少し首を傾けて微笑みを私に向けていた。まだ少し眠たそうなとろんとした笑顔で、眼は緩んでいる。
「おはよう。昨日はアルステマと沢山話せたかい?」
彼女はゆったりと頷く。
「うん。あんな夜中まで起きていたのは初めてかも。楽しかった」
「そっか。それなら良かった」
ナキは明るく笑って、昨夜アルステマと話した四方山話の数々を語ってくれた。本当に楽しかったらしく、その時ばかりは腹の空腹を忘れられていた。
しばらくナキの話に耳を傾けていると、アルステマがその胸を揺らしながら駆け寄ってきた。おお、すごい。
「おはよう、ナキ。昨日はありがとう」
「おはよう。こちらこそ楽しかったから」
アルステマは私の方へ向き直った。
「ご飯の準備ができたよ。沢山用意したから、沢山食べてね」
「ああ、楽しみにしているよ」
すると、アルステマは周りをきょろきょろと見回した。どうやら何かを探しているようだ。
「洛北竜様はどこにいるの? あの方がいらっしゃらないと……ご飯が冷めちゃう」
アルステマはオールに用意されたテントに向かおうとしたので、私は彼女を引き留めた。
「アルステマは先にナキを案内してあげて。オールは僕が呼んでくるから」
彼女はきょとんとしたけれど、何も言わずに「うん、分かった」と、了承してくれた。
二人は村の中心の方へ向かって行ったが、ふとナキが足を止めてこちらへ振り返った。少し不安のようなものを孕んだ、寂しげな顔である。
「……昨日の夜……何かあったの?」
彼女も私と同じ時をオールと過ごしている――否。同性同士なだけに私よりも共に過ごした時間は長いかもしれない。
ナキだって、オールのことが心配なのだ。
「……うん、まあ、少しね。ナキにもいずれ話すよ」
「うん、分かった。急かしたりはしないから、いつかは話して。オールのことも――あなたのことも」
彼女はそう言って変わらず笑っていてくれたけれど、私にはその笑顔の奥の心が知れている。ナキを守るのだと決めているのに、結局私はナキにも気を遣わせてばかりで、我慢させてばかりで――
「ああ、いつか――必ず」
私はオールが眠るテントへと向かう。茨の中に包まれた姫のように、静かに眠る少女の元へ。
私がテントの中に入ると、オールは既に起きて体を起こしていた。毛布を肩からかけて、ぼーっとして壁を見つめているが、寝ぼけている訳ではなさそうである。
彼女の目には今、果たして何が映っているのか。
「オール、おはよう」
私が声をかけると、オールはゆっくりと首だけを動かし「ああ、おはよう」と、応えた。
「ご飯の準備が整ったってさ。冷めてしまう前に行こう」
「ああ、すぐに行く」
しかし、彼女が動く気配はない。力が入らないのだろうか、私は彼女に近づき、手を差し伸べた。
「大丈夫? まだ万全ではないようなら、休んでいても大丈夫だから」
「いや、行くさ。皆に迷惑はかけられない」
けれど、彼女は私の手を取ることはなく、やはり動くことができなかった。よく見れば彼女の手は小さく震えていた。
「……まだ怖いのか?」
「……さあな、知る由もない」
彼女は昨日竜の長に向けたような薄い笑いを浮かべた。きっと私に向けたのではなく、彼女自身に向けて放ったものなのだと思う。
「臆病になったものだ。洛北竜になる為に、他の者を切り裂いてでも噛み殺してでもしてきた私が今や、故郷に帰って来ただけでこの様だ。全く笑える。全く――度し難い」
彼女はまた泣きそうだった。
「……この村は本当に良い所だよ。ここが君の故郷で良かったと、心から思える。ここは間違いなく君の居場所なのだから、そんなに怯える必要なんてない」
「そうだな。分かっているさ。怯える必要などどこにもない。この村にも、あの愚父にも。けれど、やはり――」
「怖いな」と、彼女は言った。呟くように、零すように。
〇
朝食を済ませた我々は、アルステマの提案した通りに竜の元を訪れることにした。
村長からの許可は下りたらしく、早速準備をした後に出かけることになった。
朝食についてであるが、グロテスクな魚達も中身を見れば、綺麗な白身で、歯応えもあり非常に美味であった。いやはや、何事も見た目に寄らないものである。食わず嫌いとは愚かしい。
しかし、オールはあまり食事が喉を通ってはいなかった。
決して出された料理が気に食わなかった訳ではない。まあ、目の前に並んだ皿の料理達は、オールの為に用意されたと言っても過言ではないのだけれど、仕方のないことなのだ。竜人の皆には本当に申し訳ないけれど、こればかりは本当に仕方のないことなのだ。
彼女はここに来てから――否。ここに来る前から、『箱』の名を聞いてからというもの、浮かない顔ばかりであった。
いつも少女のようにあどけない笑顔はどこかへ行ってしまった。食事がむしゃむしゃと進むはずもない。
これから、七種の竜の元を順々に訪れるつもりではあるのだけれど、オールを誘っても優しく断られただけであった。まあ、予想は容易くできたけれど。きっと居るだけでも、彼女にとってここは精神的に削られるものがあるのだろう。動くことすら億劫で、無休に値するのだろう。
分からない――なんてとてもじゃないが思えない。
私だってきっと同じような感じだろうから。
故郷なんてものは大抵『帰りたい場所』か『帰りたくない場所』のどちらかである。彼女は後者であるにも関わらず、それでも帰ってきている。それは私にはできないことだろうな。
「じゃあ、僕らは行ってくるからオールはゆっくり休んでいて」
「ああ、精々色々学んでくるが良い」
そう言ってオールは自分の中にある最後の力を振り絞るように笑った。何とも生きている風に感じられない瞳である。
そうして、私達が最初に会いに向かった竜は『一日目の無竜』――その身から溢れ出る力のみで全てを破壊し尽くす、竜の原点とも言うべき竜。
その無竜を長を務める者の名は『フロマ』と言う。四つ足の竜で、性別は雄である。虚竜までは行かずとも、相当な巨躯であった。
彼が棲んでいる場所は島の中心から東の端に進んだ、森にぽっかりと開いたクレーターのど真ん中に佇んでいた。森の木々の葉は青々とその枝を隠しているけれど、どこか閑散としていてフロマ以外の動物は居ないように思える。
竜の長に会う為の移動手段は徒歩である。
私が馬なり鳥なり竜なりになって高速で駆けて行っても良いけれど、なるべくここでは私は人間以外の者になることは控えるようしている。
虚竜は勿論この能力のことを知っているし、私の能力のことを伝えた最小限の者達は気づいているが、他の者は恐らく気づいていない。
だとすれば、無闇無計画無警戒に言い触らすものでもない。
その為に最小限の者達だけに伝えなかったのだし、その度に口外禁止を頼んだのだから。
今は案内役としてついて来てもらったアルステマにもまだ話していないので、彼女がいる間は結局他の生き物になることは不可能だ。
「お前達が洛北竜と虚竜の恩人という者か。私は『フロマ』だ。よく覚えておけ、軟弱者達」
荒々しい声から紡がれている言葉も彼のその嵐の如く猛る性格を物語っていた。そりゃまあ、地上に君臨する最強の種族たる竜に比べたら、我々なんぞ正しく軟弱者なのだろうけれど、それをわざわざ口に出すとは相当にその力に自信があるのだろう。
果たして私が無竜になったら、どんな姿になるのだろう。人間では高身長とは行かなくともそれなりの身長の私であるが、決して肉体は完全ではない。
細身のひょろりとした無竜になったとしたら、それこそ軟弱者と呼ばれるに相応しい。
「お初にお目にかかります、フロマ様。私の名は――」
「フィン・アーク・アイオーニオン。知っておる」
私の名乗りに被せるようにそう言ったフロマは、先程とは豪い違いの穏やかな声だった。まるで嵐が通り過ぎた海のようである。
「『様』などと付ける必要はない。先程の挨拶は無竜の長を意識してみた私なりの名乗りだ。特に意味はない上に、お前達のことを軟弱者などと本気で思ってもおらんわ。実際、相見えることとなれば私に勝ち目はない」
「それはご謙遜が過ぎるのでは。私は人間で在り、あなたは竜に在られます。その力は歴然」
「はてな、若かりし頃の私であればどうか。しかし、私は年を取り過ぎた。老いは何者にも訪れ、何者にも抗えぬ。もう今では私はお前の相手にもならんだろう」
確かにその顔を見てみればいくつか皺が刻まれており、老竜のディアノウメノスとまでではないけれど、かなりの年月を流れてきたような表情であった。
しかし、私のことをそんな風に評価してくれるとは、驚きである。お世辞でも信じられない。
「世辞でもなければ、歯向きでもない。社交辞令でもなければ、阿諛追従でもない――あくまでも本心からの言葉だ。勿論これはナキ・アンブロシア・エマイディオスにも言えること」
重々しい首を動かし、ナキの方に向けて彼はそう言った。ナキもまた驚いたように顔を上げた。
「きっと両者共に辛い思いをしてきたのだろう。それを乗り越えて今がある。今に居る。私は――そういうものが無かった」
フロマの視線は高い空へと向かう。彼らのテリトリーであるはずの空を、物欲しそうに――届かないように見つめる。
「私は今まで大した苦労もして来なかった。気に食わぬことがあれば余る力を以てして粉々にし、気に障ることがあれば溢れる力を以てして潰してきた。私は一度この島から出たことがあった。まだ無竜の長を務めていなかった時のことであり、自由も何も見分けのつかなかった頃だ。或いは全てを自由と見誤っていた頃だ。私は酷い虚無感に襲われたさ。きっと虚竜程ではないだろうが、似たものを感じていただろう。無力ではないのに、絶え間なく私の中に流れ込む虚無。力を持ち過ぎたが故の孤独――」
孤独――力を何一つ持っていなかった私とは極端までに真反対の――孤独。
「虚竜は私が感じたものの何倍もの虚無感と孤独を抱えながら、故郷に帰らずそのまま一人洞の奥で眠っていたのだから、奴はその力以前にしてその力以上の強さを持っている。私はすぐにこの島に帰って来た。物理的に一人では生きられたとしても、やはり我々も心のある生き物なのだ。孤独から感じる寒さとは耐え難いものがある」
そうか、そうだよな。彼らとて脳を持った生き物で、心を持った生き物なのだ。何もその圧倒的な能だけを授けられた訳ではないのだ。
孤独から感じる寒さ――か。オールも――オールこそ並み以上に感じていたに違いない。
「…………」
何だか先程からオールのことばかり考えてしまうな。
ここはオールの故郷であり、私がよく知る竜は紛れもなくオールなので、そう連想してしまうのも仕方がないのかもしれない。
しかし、思考回路が最終的に全てオールに帰結しているような気がする。
決して悪いことではないし、嫌とも全く思わないが、何と言うか私まで彼女に流されているようで――自分に勝手に重ねているようで、恥ずかしい、と言うかみっともない。
「まあ、覚えておくと良いさ。竜とて人間や他の生き物と大差ないということを。結局は蜥蜴共から進化した生き物だということだな」
彼はそう言って、話の区切りをつけた。彼からしたら、蜥蜴も猿も大して変わらないらしい。
〇
無竜の長であるフロマとの話を終えた私達が次に向かった場所は、雪や氷が覆い広がる小さな山脈である。
そこにいるのは案の定、氷雪の長、凍結の王、『四日目の氷竜』であり、その長を務める者の名は『キュアノス』と言う。
性別は今度は雌で、オールや先程のフロマ同様四つ足の竜である。
彼女が棲む場所は雪山の山頂で、周りには同じ氷竜が散り散りにいて、凍える息を吐き散らしている。
寒い所があると聞いていたので、私達は事前に厚手のコートをバリウスから持って来ていた。人間サイズのコートを見つけるのには大変苦労したが。
それは例外なくアルステマもであり、彼女は自前の毛皮のコートを羽織っている。この島には竜以外の陸上動物は棲んでいないのだが、話を聞くところによるとその毛皮のコートは、竜の長が昔に外に出た際に彼女の為に調達してきたものだと言う。
「竜の長は私にすごく良くしてくれるの。親がいなくて可哀想に見えたのかもしれないけれど、それでもそれを差し引いてもあまりあるものを沢山貰ったの」
彼女はとても幸せそうに笑う。その笑顔はいつもと変わらぬ笑顔で、私はそれを真っ直ぐに見つめ返すことができなかった。
「いつでも遊びに来て良いとか、困ったことがあったらすぐに言いなとか、アルストロメリアを見てると何だか自分を重ねてしまうとかって言ってくれたり……。でも、洛北竜様のことを訊くといつも黙っちゃうんだ。やっぱり訊いたらダメなのかな。昨日も皆が洛北竜様と何か揉めたって言っていたし……」
彼女は何の悪意もない純粋な顔で、そう呟いた。私はその疑問に答えられない。
「昨日も言ったけれど、私は生まれつきで熱が体にしっかり回らないから、昔から結構苦労したんだけれど……長は私にとっても優しくしてくれて……まるで、本当の娘みたいに……」
「そうなんだ……」
私は素直に相槌を打つことができなかった。
あの竜の長の本当の娘がどのように育てられてのかを知っているからだろうか。
きっとアルステマの言うことは本当で、竜の長は彼女に対し愛情込めて接したのだろう。けれど、そうなればそれは『本当の娘のように』ではないのだ。
どうなのだろうか。
本当の娘でありながらぞんざいに育てられてきたオールと、本当の娘どころか種族さえ違うのにも関わらず大切に温かく接せられてきたアルステマ。どちらが良く映るかと言われれば賛否両論あるだろうが、それでも答えは一目瞭然な気もする。
地面に張った霜を踏み、気持ちの良い音を鳴らしながら、しばらく歩いていると、直にそこに美しい竜が足を折り畳んで寝そべっていた。
周りにも氷のような鱗に覆われた竜はいるが、その竜は他の竜に比べるのも恐れ多いくらいに美しかった。
透き通るような体からはそこにいるだけで冷気を振り撒かれていて、彼女の力の大きさをそのまま表していた。
「よくここまで足を運んで来て下さった。初めまして、アイオーニオン殿、エマイディオス殿。私が氷竜の者共を統べる『キュアノス』である。以後お見知りおきを」
一歩一歩彼女に近づいた私達に、彼女は体を起こしてそう名乗った。
大分丁寧なのだな。もっとクールというか、それこそ冷徹な者なのかと思ったが。
「いえ、私とて、誇り高き竜の一族。自分よりも劣る者にわざわざ堅苦しい上に使い慣れない言葉を選んで話したりなどしない。しかし、あなた方は違う。私達よりも上位の何かを感じる。それが何かは分からないが」
神の恩恵――のことを言っているのだろうか。その実体までは明かせずとも、その力には敏感に気づいているらしい。
「尤も、私の言葉は『イオン』のようなただの毒吐きとは違い、もっと高尚な言の葉だがね」
はて、『イオン』という者が何者なのかは存じ得ないので、こくりと頷きにくい。
すると、アルステマは冷えた私の耳元で「『イオン』という方は『毒竜』の長のことだよ」と、示唆した。わざわざすまない。
凍える耳に生温かい美少女の小声は何とも言えぬご褒美であり、私は絶頂に達し発狂しかけたが、私の理性は読者諸賢が思っているよりもずっと頑丈である。
「僕たちにはいつも通りの楽な言葉で話して頂いて構わないですよ。少なくとも僕には」
「そうか、では……」
そう言うと、彼女はその口から小さな、けれど十分に空気が凍てつく程の冷気を帯びた吐息を吹かせた。それが恐らく彼女のスイッチなのだろう。何のとは敢えて言うまい。
「それならそうと早く言わぬか。これだから下等生物は。人間は動きだけでなく喋りもとろいのか。否。この場合とろいのは頭の方か。全く呆れる。猿から未だに進化していないのか? 幾億もの間にその空の脳に何を詰めてきたのだ。呼吸にしか頭を使わぬから、すかすかの空っぽなのではないか。にしても、よくもまあ私がお前なんぞにあんな優し気な言葉をかけたものだ。氷竜ながらに寒気がする。ああ、嫌だ。アイオーニオン、本当ならばお前は死んでいても良いくらいのものを受けたのだ。私が人如き、それも生まれて間もない赤子のような者に敬語を使うなど。死んで返せ。というか軽い屈辱だった。死んで詫びろ。ここまで来ると軽い罪だな。死んで償え。死ね」
めちゃくちゃである。高尚なのかどうかは定かではない。私は今衝撃と攻撃を受け、頭がしっかりと回っていない。
これが毒抜きであると言うのならば、果たして『イオン』という者はどんな強烈で悪烈な猛毒を吐いてくるのだろうか。もしかして話している途中に本物の毒を吐いてくるのではないだろうか。因みに、毒竜が生成する毒は呼吸器官から微量を取り込んだだけでも致死する。長のレベルともなれば尚更だ。
にしてもキュアノスよ、言っていることが支離滅裂である。
大体口調を変える前にキュアノスが話していた文章は全く敬語ではない。気持ち丁寧さをつけ加えた標準語である。
「……申し訳ないのですが、やはり先程の言葉に戻して頂くというのは叶わないでしょうか」
「殺すぞ」
「…………」
さいですか。分かっていたけれどね。
しかし、『死ね』の次は『殺す』か。遂に自分から動き出した。
ただ、この言葉遣いも特定の層からは絶大な支持を得るやもしれん。彼女自身、とても綺麗な竜であるから。私は耐えられないが。
しかし、こんな口振りなのは当然実力は確かなのだろう。息吹くだけであらゆるものを凍らす、氷上の王。その頂点に立つ者であるプライドが彼女の冷淡なまでの態度を作り上げているのだろう。
「……お前は私よりも強い。それは四十万年近い時を生きた私には、すぐに分かった。お前と私では潜り抜けてきた死線の数が違う。お前は圧倒的に強い。力も知恵も持っている。危険なまでの能力を――」
それは、少し言い過ぎな気もする。フロマもそうだが、そんな過大評価、正直重苦しい。
「なのに、お前の周りには誰かがいる。横の娘らにせよ、洛北竜にせよ。何者も恐れることのない力がありながら――誰もが恐れる力がありながら、お前の周りは温かい。それは、私がどうしてもお前に敵わない理由だ。どうしても自らでは叶えられない希望だ」
いつの間にか、キュアノスの鋭く冷めた瞳は少しの温みを帯びていた。
まるで、子どもの頃の夢を思い出しているかのような眼差しで、彼女は私達を見つめていた。
「私は何度か箱庭から出たことがあるが、私が降り立った場所は問答無用で凍てついた。地上では暮らせぬと、雲の上を通れば雲が凍りつき、氷塊となって地上に落下した。この山々も然り。元は緑生い茂る美しい山脈だったのだ。しかし、私が棲みつき時が経つに伴れて、山の賑わいは黙り始めて豊かな自然は死んでいった――悲しかったさ。そこに居るだけで害なのだから。氷竜でもそこまで強い冷気を垂れ流す者は居ない。私が生まれたから、ここは死んだんだ」
上には上がある――しかし、一番上まで行くと逆に寂しいものなのかもしれない。
上を見上げても一人、咳をしても一人なこと程、寂しいものもない。フロマも言っていたように、竜も生き物なのだ。寂しい想いは誰だってしているのだろう。
「……私だって、似たような者です。そこに居るだけで害なんて、飽きるくらいに味わった」
そう、私だって――キュアノスだって――誰だってそう思いたくなることはある。誰も近づかずに、自分からも近づけずに、ただただその場に立ち尽くした幼少期を私はただの一度も忘れてはいない。
「苦労しているのは、あなただけではないのだから。星は丸くて、世界はきっと果てがある。けれど、それでも十分広いのだから、似た者なんて沢山居ますよ。だから、あまり悲観しないで下さい。それに――厚着をすればこんなに簡単に会える。こんなに簡単に話せる。楽なものです――私に比べれば」
驚いたような顔でキュアノスは私を見たけれど、すぐに笑った。冷気を放つ竜のその微笑みはまるで麗華のような笑顔であった。
「偉そうな口を叩きおって。面と向かって言われなくとも、重々理解しているさ」
口調は相変わらずの威厳と偉大に満ちたものだったが、その表情はとても嬉しそうに見えた。初めてできた友人と言葉を交わしているかのような、対等に話せる相手を見つけたかのような温かいものを確かに持っていた。
それでも、あくまでも氷上の女王たる表情である。
「馬鹿者め」
キュアノスは愉快そうに私に言った。
〇
キュアノスとの話を終え、私達は雪が積もり氷が張る山を下りた。
別れ際にキュアノスが「また来い。お前達と言葉を投げ合うのは、何だか心地が良い」と、照れもせずに言った。きっと彼女はその感情の名を知らないのだろう。私も敢えて教えるような真似はしない。
「キュアノス様はもうずっとあの場所から動いていないんだって」
山の麓まで下りた時、アルステマは突然そう言った。
「それって、山から出ていないということ?」
「ううん、本当にあの場所――キュアノス様が座っていらしたあの地点から動いていないのもう何万年も」
確かに我々と話している間も一切足は動いていなかったし、起き上がったりも一度もしていなかった。私達が立ち去る時も首だけを動かし、決して立ち上がることはなかった。
「あの方が少し動くだけでも、冷気も移動してしまうの。下手に動くと、村の方まで凍りついてしまうから……」
つまり、周りに害を与えない為――と。ストイック、と言うか、自分の力の危険性を理解している証拠なのだろう。彼女の苦労はやはり私には想像もつかないかな。結局は違う生き物なのだ。
勿論それは私の苦労も彼女にとって然り。
キュアノスが統括する山脈を下り、そこから歩いて私達が訪れたのは『六日目の光竜』がいるという、一本の木である。
木とは口で簡単に言えるが、その実体は島を囲う岩の天井にも届く程に高い巨大樹である。
広葉樹である為、球体状に大きく広がり、枝が蜘蛛の巣のように絡み合っている。その枝の太さも尋常ではなく、大きな竜がしっかりと寝転がれるスペースがあり、光竜達はその枝の上で暮らしている。
その巨大広葉樹の上にぽつりと佇む者こそ、光竜の長にして、箱庭で最も長寿の老竜――ディアノウメノスである。
彼は常に広葉樹の天辺の枝に座しており、この島を見渡している。見守っている。
そこに行くまでは徒歩というか登攀であり、私達がこの足で登るとなると今日という日が終わるどころか、下手をすれば明日も終わる。
アルステマは翼が生えているのでそれなりの時間で辿り着くと思うが、我々は羽のない人間である。仕方なく三人揃って近くにいた光竜の背中に乗って、頂上まで送ってもらった。その際、私達を背に乗せてくれた若い竜は嫌な素振りを見せず、会話も交えながら飛んでくれた。
天辺まで辿り着くと、若々しい葉で着飾った枝頭と、そこに目を閉じて晏如と座っている者が居た。
「ようこそ、少年少女ら。我らが巣へ」
瞼を閉じたまま彼は私達に歓迎の言葉をかけた。
「お初にお目にかかります。フィン・アーク・アイオーニオンと申します」
「ナキ・アンブロシア・エマイディオスです」
私達が名乗ると、彼は曲がった腰をこちらに向け、重く垂れた首をさらに下げた。
「ご丁寧にどうもありがとう。ここまで生きると頭もだんだんと劣り衰えてくる。少しでも君らの名を忘れぬよう心掛けよう――私の名はディアノウメノス。この木からここを見守っている」
事実、ディアノウメノスには訊きたいことが沢山あった。彼はどうやらオールのことを深く知っているらしいので、どうにか訊ければ良いのだが……。
「この世に生を授かり……三……三、三百……三百年?」
「三百万年です」
「そうそれ」
ディアノウメノスのミスをすかさず訂正するアルステマ。
確かに、長生きし過ぎると自分の年を数えるのも億劫になってしまうのかもしれないが、さすがに三百年はないだろう。オールの五分の一にも満たないんじゃないのか。
「三百万年の時が過ぎ去ったが、私の生まれた血筋は竜の長の側近を務めていた。私もまた生まれて間もなくして、側近としての知識や作法を仕込まれた。最初の内は、親族達が継いで来た伝統を繋げる為という思いに駆られ、ただただ長の側近として自らの役を務めるばかりであった。私は気づかぬ内に一族の誇りに縛られていた」
彼の閉じた瞼の奥――そこには一体何が見えているのだろう。眩いばかりの閃光か。真っ暗に広がる暗黒か。
「そうして、外の世界には目もくれず、側近としての長い歳月をかけてきた頃だ。いつの間にか、この箱庭で最年長になり、古い付き合いの者も居亡くなってしまった時、かの子は産まれ、私の前に迅雷のように現れた。それこそ、竜の長の娘にして、現洛北竜――オール・ド・フレムであった。しかし、彼女も最初はただの竜だった。竜の長の子であった。幾度も世話をしてきた者の一つとしか認識していなかった。……けれど、オール様は違った。今まで世話をしてきた竜とはまるで違う。正確に言えば、違ったのは彼女の父――『アンドレイア』様だった。彼もまた元は竜の長の子であった為、私はアンドレイア様の世話もしてきたが、実に臆病な方だと感じていた。それも異質なまでに――そして、当時の洛北竜様、つまりアンドレイア様の義父上様の死期が近づきてきた頃、彼はその臆病さ故に、唯一の娘を自分の身代わりにした。自身の娘に重い思いを託した」
彼は呼吸を一つ置き、そしてまた語り出す。舌も段々と回らなくなってくるのだろう。私達はゆっくりと流れてくる言葉に耳を傾け続けた。
「私はその異常なまでの彼の教育に対し、何をするでもなく、ただただ耐え続けるオール様を見守るばかりであった。私は一介の側近に過ぎぬ。アンドレイア様の意志を制することなどできやしない。結局の所、私も臆病だったのだろう。一族の伝統に囚われ、孤独に闘う少女に手を差し伸べることを恐れてしまった。主たるアンドレイア様を裏切ることがどうしても許せなかった。そうして、笑わぬオール様に労いの言葉をかける他、彼女の役に立つ方法が思いつかなかった。実際、彼女の救いになっていたのか定かではない。後ろめたさを掻き消すだけの、自己満足の為の行動だったのかもしれない。結局、私には最後まで苦しむオール様を助けることはできなかった。それでも、あの方は優しい。不甲斐ないばかりの私を慮って下さり、決して責めることなどしなかった」
そして、ディアノウメノスは思い至るように顔を上げ、私達を見つめた。瞼越しでも分かるくらいに、その奥の瞳は光竜に相応しくないくらいに霞み曇った輝きを放っていることだろう。
「そう、あの方は優しいのだ。それ故に――儚いのだ」
こうして、オールの話を聞く度に、彼女の明るい篝火のような笑顔が、私の中でどんどんと疲れ切って哀愁に満ちたバレバレの愛想笑いに変えられていく。決してそんなはずはないのに、どうしてもオールが無理をしているように思えてきてしまう。
彼女は、やはり――
「そんなことはないと思います」
その時、突然そう言ったのはナキであった。
「あなたの労いはしっかりオールの救いになっていたと思います。オールはちゃんとそういう所に気づけるから……あなたがオールと一緒に苦悩していたことも、きっと分かっているから……気持ちがあっただけでも、きっとオールは嬉しかったと思うから……ディアノウメノス様も喜んで良いんだと思います。自己満足でも思い違いでもないんだって、思って良いんだと思います」
「…………」
今まで黙っていたナキが唐突にそうディアノウメノスを諭し、その場にいた全員が驚いた。
しかし、それは嬉しい驚きであった。
普段は寡黙なナキがこうして自分から自分の意見を言うことは、今までも中々あることではなかった。
ディアノウメノスはくつくつと愉快そうに笑い「こんな若い少女に諭されてしまうとは」と、嬉しそうに笑った。
「ここまで生きてきて、後は下るばかりの生涯になると、どうしても気持ちが緩んでしまう。考えることが増えて、悲観的になり易い。老いぼれとなった今、君らのような若い者は刺激になって良い。生きる為の活気になる。……そうだな、私の考え過ぎなのかもしれんな」
そうして彼はにんまりと口を開き、優しく微笑んだ。
「今日はここへ足を運んでくれて、誠に感謝する。移動は大変だが、良ければまた来てほしい。エマイディオス、君と話していると何だか気持ちが安らぐ。また来ておくれ」
私達は頭を下げて、後ろに下がる。日も大分傾いてきた。そろそろお暇するとしよう。
「フィン」と、彼は私達が木を下りる直前に、私の名を呼んだ。
「オール様を――頼む」
彼はそう言い、深々と頭を下げた。
「はい」
精一杯の気持ちを込め、私は強く返事をした。彼と同じように頭を下げる。
話せて良かったと本当に思う。知らないオールに少しでも近づたような気がしたから。弱く辛いオールを見れたようで、心配すると同時に――何だか安心した。彼女も同じ生き物なのだと分かったから。
行きにここまで送ってくれた若い竜がひょっこり枝葉の中から出てきた。
「お帰りでしょうか」
「はい、お願いします」
彼は私達を自分の背に乗せた後、ディアノウメノスの方へ向き、小さく会釈した。
私達がその場を去る間際、三百万年の時を生き続ける竜は瞼を薄らと開き、今は飾りとなってしまったその眼を見せた。ほんのりと金色に輝くその眼は、どこか潤みを帯びているような気がした。
〇
巨大樹から下りる頃にはもう日は完全に暮れてしまっていて、私達は一度竜人の村へ戻った。
今日中に全ての竜の元を訪れるつもりでいたけれど、翌々考えてみたらこの島は国一つ分の大きさである。竜の長は基本的に島の端に棲んでいる。一日で回れるはずがない。馬鹿じゃん。三つの竜を訪れられただけでも、早い方だろう。
実際に竜の長と話している時間よりも、竜の長から竜の長への移動時間の方が圧倒的に長い。
間に合いそうになかった時は、すれ違った竜に移動を助けてもらったりもした。先程も、我々の巨大樹の昇降を手伝ってくれた光竜が結局村まで送り届けてくれた訳だし。親切な竜が多いものだ。
村に帰って来ると、至る所にランタンが吊るされていて、燦々と輝いていた。
「ありがとうございました。ここまで送って頂き、助かりました」
私は振り返り、若い光竜に礼を言った。ずっと『若い光竜』と言ってはいるが、私よりも桁違いに年上である。あくまで竜の中では若いということだ。
「いえ、構いません。また巨大樹にいらして下さい。たまに巨大樹に目をやるだけでも良いので、忘れないでいてくれれば」
「はい、必ず」
私は再度深く頭を下げ、彼は背の翼をはためかせ、空高く駆けて行った。
村の中心へやって来ると、テーブルに大量の食事が用意されていて、朝食の比ではなかった。相変わらず魚のパレードである。
しかし、オールの姿はどこにも見えず、辺りを見回しても一向に見つけ出せなかった。
「あの、オール……洛北竜はどこにいますか?」
私は近くにいた角の立派な青年に訊いた。彼はお盆に並べられたカップを一つ取り、私に渡した。中身は潮の香りが漂う魚介スープだった。……何故?
「洛北竜様はずっとテントの中から出てきていません。外から声をかけても『大丈夫』と、言うばかりで……」
ずっと――ね。
「分かりました。忙しいところありがとうございます」
彼は軽く会釈して、忙しく向こうへ駆けて行った。他の人にもお盆に乗ったスープを配っている。
手元のカップからはふわふわと蒸気が広がっている。
オールはしっかりとご飯を食べているのだろうか。未だに眠るばかりだとすれば、私から行った方が良いのかもしれない。
彼女は誰かを待っているのだろう。私を――もしくは、父を。
風が吹き過ぎて行き、少し寒気がしたので、カップのスープを啜った。出汁の効いた温かいスープが体中に沁み渡る。
「美味しい……」
ふと、そう呟くと背後から「そうだね」と、柔らかい声が聞こえてきた。
振り返れば何のことはない、愛すべき仲間――ナキである。
彼女もまた両手にカップを抱えていた。
「ここの料理は、ネフリでも、フルリオでも、カタラクティスでも、バリウスでも――故郷でも食べたことなくて、でも美味しくて……知らない村の知らない味なのに……何だか不思議と安心するなあ」
彼女はそう言って、カップに口をつけた。
スープを啜るその横顔はとても美しく、立ち上る蒸気が熱いせいか彼女の頬は赤らめていて、仄かな色気を漂わせていた。それでも、大人びた輪郭の中に映るその笑顔は幼い子どものようである。
「……ナキはオールの昔の話をディアノウメノスさんから聞いて、どう思った?」
私は彼女が今何を考えているのか気になり、そんなことを訊いてみた。
「んー……実際はオールの話と言うか、ディアノウメノス様の話なんだけれど……私も詳しいところまでは知らないから、あまり言えることはないけれど」
ナキは私の方へ首を向け、続けた。
「でも、きっとそんな気はしたよ。あの場所に一人で眠るオールを見た時、『寂しい』って思ったの。私と同じなのかなって思った。こんな地位に居る方が、何の苦労もなしにあんな風に寂しそうにしている訳ないな。だけど、オールはきっと訊かれたくないだろうから、向こうから言ってくれるのを待っていたけれど、こんな形で知るとは思わなかったな」
「…………」
私は自分が恥ずかしい。
私が守らなければと息を巻いて接してきた彼女は、実はとても大人で、オール同様色々なことに気づける子なのだ。
それを私はまるで彼女の親にでもなったつもりで、彼女を囲って、縛って、閉じ込めて――
私はそれができていたのだろうか。オールの真意を無意識にでも、気づけていたのだろうか。気づいていたとしても、知ろうとしたのだろうか。
――話したくなったら、話してくれれば良いから――
そんなことを言いながら、本当は自分から聞く勇気が無かっただけなのではないのだろうか。
それが私の弱さなのだ。
「君は優しいね。本当に……優しい子だ」
彼女の頭に手を伸ばし、軽く撫でる。ふわりと彼女の髪が揺れ、風に靡いて緩やかに流れる。
すると、並ぶランタンの輝きの向こうからアルステマがこちらに右手を上げて手を振ってきた。その右手には何枚かの取り皿を持って、左手には大皿を持っている。その大皿には、鮮やかに盛りつけられた刺身が並び、あたかも渦の中を泳いでいるように見えた。
「二人共、お腹空いたでしょう? 刺身、沢山あるから、沢山食べてね」
ナキはにこりと笑い「ありがとう」と、取り皿を受け取った。
「今日はありがとう。とてもためになったよ」
「ううん、竜の長の所は私達でも中々行けないから、私も嬉しかったんだ。こちらこそありがとう。フィンも」
「ああ、うん。僕も、ありがとう」
そんな風に曖昧な返事をしてしまった私に、案の定異変を感じたのか、アルステマは「大丈夫?」と、訊いてきた。彼女には会ったばかりなのに、心配をかけてばかりだ。それがまた自分を嫌にさせる。情けない限りである。
「大丈夫。心配しないで」
それでもアルステマは眉を顰めたままでいた。
「……何だか、洛北竜様の元気がないと、あなたまで元気がなくなっている。私は洛北竜様のこと、言伝で聞いたこと以外知らないけれど、話せるなら話してほしいな」
そう言い、彼女は困ったような顔で笑う。無理をして作った笑顔だということは私にだって分かる。
かと言って、今私が浮かべている笑いも薄く脆いもので、無理をして作った笑顔には違いなかった。
「……本当に大丈夫だから。それに、僕から聞くよりオールから直接聞いた方が良い。彼女の話だから」
「そっか」と、アルステマは言い、私に取り皿を寄越した。
「ありがとう」
そうして、談笑しながら夕食を済ませた。
今も狭いテントの中で煢然と蹲っているであろうオールのことを考えつつ、私は明日の竜の長への面会のことも頭に浮かべていた。
そう言えば先程の若い光竜が、巨大樹の方を見るだけでもなんて言っていたなと思い出し、ふと背後に悠然と地面から高く伸びるかの木に振り返った。
月の光も島の中全体には広がらないので、島の端に位置する巨大樹は暗く、はっきりとは見えないだろうけれど。
そう思いながら、首を曲げた私は圧巻されてしまった。
私が向けた目線の先には、煌々と輝く巨大樹があった。
光の届かないこの島の奥で、白く光る光源の正体は光竜のものであった。
彼らはその名の如く光を司る竜。ただ光を発するだけならば、目を瞑っていても容易いだろう。そのまま眠ったところで問題あるまい。
巨大樹に棲む光竜の数は聞いた話によると、千にも及ぶと言う。その全ての竜が住処に帰り、枝の上で光り始め、光り輝く巨大樹の完成である。
そうして、この島全体を照らし出すのだ。まるで木々の葉が自ら光を出しているかのような、何とも不思議な光景である。光合成はどこへ行ってしまったのか。
眩いばかりの巨大樹に目を奪われてしまった私に「すごいでしょう?」と、自信ありげに言ったのは、意外も意外にナキである。
「ああ、とても。昨日は早くに寝てしまったから、見れなかった。残念だ。ナキは知っていたの?」
「うん、昨日アルステマと一緒に見たんだ。月が届かない代わりに月みたいに光っていて……ずっと見ていたけれど、ずっと見ていたい。見飽きないなあ」
そしたら、今度はオールとも一緒に見たいものだな。
鬱然と葉が生い茂る巨大樹は燦然と輝きながら風に吹かれ、灯を揺らす大きなランタンのように見えて、私はしばらく魅せられた。
今、この時もオールは苦しみ続けているのか。一体私はどうしてあげれば良いのか。どうしてあげられるのか。
苦しみ続け、今も苛まれることだってある。痛みは消えずに残り、痕になっても未だに疼く。
それでも、歩き続ける私だからこそ、彼女にしてあげられることは何だろうか。
一緒にそうして私は苦しみながら悩む。暗闇の中で暗闇を照らすあの巨大樹のように、私達は光れるのだろうか。
私達の未来とは、果たして――
次回にご期待ください。
本作品は、不定期更新となります。次の物語をお待ちください。




