表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

それぞれの思惑 side恒彦

 ―――恒彦にとって松宮伯爵令嬢、松宮長月という存在は不可思議な存在だった。いや、より正確に言うのであれば、あれ程の環境に在って自らの意思で家族と距離を置く長月の姿は、まさしく正常な意思を持つ人間であり、恒彦自身が求める“奥向きの妻”としてこれ程魅力的な人物は他に居ない。

 だからこそ、長月を妻にと望み、神代侯爵家に迎え入れたのだ。勿論、その兄妹たる松宮文博、松宮凛花両名の禁断の恋愛劇も当時から既に把握済だった。ある意味でそれは、不良債権を背負った娘を迎え入れる行為ではあったものの、恒彦にとって重要なのは、長月という存在がどのような思考をし、どのような感情を抱いているかのみである。

 故に恒彦は、長月の周囲に繰り広げられる愛憎劇に一欠けらの興味等無かった。それはある程度の不祥事があっても握りつぶせる程度の権力を有しているが故に。まあ、それも自身の妻にと長月を選んだ対外的な理由の言い訳に過ぎない訳だが。


「――それで、お前の奥方は何処に居るんだよ?」

「長月ならば松宮伯爵家に行っている。今日は遅くでないと戻っては来ないだろう」

「それは残念。折角挨拶しようと思っていたのに」


 恒彦の悪友でもある、鷹通(たかみち)公爵令息 鷹通元康(たかみち もとやす)はひょいと肩を竦めて応接用のソファーに座った。元康にとっては勝手知ったる神代家だ。使用人が運んできたコーヒーに口を付け、「上手い」と口元を綻ばせた。ついでとばかりに使用人が置いていったマフィンを手に取ってあくまでも作法は優雅に、けれど高速とも言える速度であっという間に三つのマフィンを平らげてしまう。

 恒彦が使用人に追加で何か甘味を持ってくるよう指示していると、手元のコーヒーも残り少なくなっていた。


「早急に、コーヒーと甘味を持って来てくれ」


 畏まりました、と使用人が出ていくのを待って、元康は豪快にコーヒーカップの中身を飲み干した。華族にあるまじき振る舞いではあるものの、今この部屋に居るのは気心の知れた恒彦のみ。衆目に晒されながら生きる人間にとって、地の姿を見せる事はある意味とても貴重な時間だった。


「いやあ、上手いうまい。流石は神代侯爵家。良い豆が揃っているんだなぁ」

「元康。神代家の邸は喫茶店じゃないんだから、少しは自重しないか」

「まあそんなに怒るなよ、恒彦。うちはコーヒーなんて邪道、っていう方針で家にコーヒー豆を置けない事位知っているだろう?」

「それこそ、元康の許嫁とやらと一緒に喫茶店に行けば良いじゃないか」

「ちっちっち。駄目だなあ、恒彦は。俺の許嫁は紅茶専門でコーヒーは嗜んで無いんだよ。豆の良い喫茶店に行っても、お互いが楽しめないなら意味が無いだろうに」

「成る程、それもそうだな」


 こうしてポンポンと軽口を叩ける環境というものは、恒彦にとって貴重な場所である。そういう意味で言えば、神代家は様々な意味で最も安全な場所でもある。故に恒彦は元康と会う際等には高級品のコーヒーと場所を提供する代わりに、わざわざ神代家に招いて会っている。

 ―――というのは建前で、単に元康が中々飲みに行けない嗜好品を贅沢に飲み食いする為だけに神代家に押し掛けているというのが実情だ。

 元康は再び使用人が運んできたコーヒーを飲みながら、僅かに声を潜めた。


「それで、松宮伯爵令息、令嬢はどうなったんだ?」

「亡くなったよ。無理心中だ」

「成る程ね、で、爵位はどうすると?」

「それを今長月が話に行っている」

「そうか」


 「成る程ね」等と頷く元康はゆるりと微笑んだ。


「これでお前も少し肩の荷が降りるという事だな、恒彦」

「何を言っているのか分からないな」


 澄まし顔でそう宣う恒彦を元康は胡乱な眼差しで見つめた。その表情から読み取れるのは、冗談だろうとでも言うようなそれだ。


「お前が殊の外、奥方を慈しんでいるのは分かっている。だからこそこの一件に関わらせない為に邸に閉じ込めていたんだろう? それ位俺にも察しはつくさ」

「それだけではないが…まあ、そんな所だな」


 実際、それは半分以上間違っている。然し、わざわざそれを口にする恒彦ではない。


「お前も分かり難い人間だよなあ。意外に神経質な所があるし、不器用と言うのか、器用貧乏と言ったら良いのか。まあ、これで一件落着ならば良かったじゃないか」

「そう上手く行けば良いがな」

「含みのある言い方だなあ。なんだよ、気になる事でも?」


 身を乗り出して聞く元康の体を押し戻しながら、恒彦は僅かに息を吐いた。


「恐らく爵位を一時的に譲ったとしても、正統な後継者を失った今、求められる事は一つだろう」

「…ああ、そういう事か。お前と奥方の子に爵位を譲り受けさせると。責任重大だな。だが、それならば神代家も許さないんじゃないか? 神代家の跡継ぎを渡す訳にはいかないんだから」

「その辺りは大丈夫だろう」

「えらく自信満々だけど、何か妙案でもあるのか?」

「いや? ただ長月に男児を二人以上産んで貰えば良いだけだ」

「おいおい、そりゃ無茶苦茶だな。流石に奥方でもそれは大変というか、こればかりは奥方だけで成し遂げられるわけじゃないだろうに」

「いいや。産ませるさ。必ずな」


 冗談でも何でもなく、恒彦は最初からそのつもりで居た。だから悪友でもある元康が呆れと僅かばかりの畏怖交じりに「怖い事を言う奴だな、お前は」と呟くのも素知らぬ顔で黙殺する。

 ちらりと部屋の壁掛け時計に目をやれば、もう直ぐ正午の時間を差していた。今頃松宮家では様々な話し合いがなされているだろう。長月は、どのような話をしているのか。

 考えても詮無い事ではあるが、やはり気にならないと言えば嘘になる。だが、松宮家で事を納めると松宮家家長である松宮伯爵が言っているのだから、恒彦が手を出せる範囲ではない。


「どうせこの後用事等無いんだろう? 昼食を食べて行くと良い」

「あーいや、今日は遠慮しておく。この後、許嫁とデートなんだ」

「それならば仕方が無いな。というよりも、デート等という重要な役目があるならば、うちに寄らず、真っ直ぐ行けば良かっただろうに」


 呆れたように恒彦が言えば、元康は、「いやあ、コーヒーを一人で飲みに行くのも寂しいだろう?」と宣う。


「それに、神代家のコーヒーは殊の外絶品で俺好みだからなぁ。洒落た喫茶店でも構わないけど、静かにコーヒーと甘味を楽しむならば、やっぱりそこは神代家でないと」


 コートを腕に引っ掛けながら帰る準備を整えていく元康は、一人楽しそうに笑う。全く調子の良い奴だ。

 使用人に車を回すよう指示を出し、恒彦は元康をエントランスまで送る。元康は、「次に神代家に来た時には、奥方に挨拶させろよ」と言って、颯爽と車に乗り込んだ。

 滑らかな静音と共に邸を出ていく車を見送って、恒彦は自身の部屋に戻って行った。





 お気に入りのソファーに深く沈み込み、思うのは長月の事。


 何故、長月を妻に娶ったのか。

 それは恒彦自身にも分からない。いいや、分からない(・・・・・)事にしている(・・・・・・)だけだ。恒彦は一人薄い笑みをかべた。

 長月と出会ったのは、松宮家主催のパーティーでの事だった。

 その当時から長月は、〝松宮家の地中姫〟等を揶揄されていた。それは悪意ある名称の一つではあるものの、ひっそりとホールの片隅に立つ長月は、傍目から見ても慎ましやかな淑女そのものだった。華族の一員らしい華やかさとは無縁の、まるで空気に溶け込むかのように存在感の薄い地味で影のあるその姿は、初対面の恒彦から見ても地中姫等という名称がしっくりと来る程度には、凡そ華やかさを好む令嬢達の姿とは大きくかけ離れていた。

 然しその存在感は、透明感のある美しく儚げな風貌の姉、松宮凛花嬢の何処か浮世離れした雰囲気とも違う。何処か異質で、強烈な違和感を感じる存在でもあった。


 一緒にパーティーに来ていた友人達は、直ぐに興味を削がれたように長月から目を離していたけれど、恒彦はどうしようもなくその存在に惹き付けられ、目を離す事など出来はしなかった。


 それを恋だと、一目惚れだと言うのであれば、そうなのかもしれない。しかし恒彦自身にとってしてみれば、それはある種の運命的な出会いでもあった。

 歪んだ関係を築いていく家族の只中に在って、長月だけは常に自然体で存在していた。そこには縮こまって怯える様子も、虚勢を張って無理に平静を装って振る舞う様子も無い。ただ自然に、ありのままに、そこに在る。それがどれ程異質で、貴重なものか、恒彦には直ぐに理解する事が出来た。


 ああ、長月は自然に、歪んだ存在なのだ。思わず、恒彦は心から微笑んでいた。同じパーティーに出席していた令嬢達の色めき立った声も、媚びるような眼差しも、既に恒彦の視界からは消えていた。

 恐らく長月は、自分が狂っているという事など微塵も思っては居ないだろう。だが、根っこから歪んでしまっている存在は、自分という存在が平凡とは程遠い存在に成長しているという事に気付いてもいないのだ。


 欲しい。是が非でも、アレを妻にしたい。


 そう考えた恒彦の行動は早かった。長月の伯母である花菱伯爵夫人は、以前から松宮家の将来を見据えて財力を持つ華族と渡りを付け、縁談を結ぶ事に躍起になっていた節がある。恒彦は、華族の中でも財力、家名共に一歩抜きん出た家柄の長男であり、自分自身が華族の令嬢達から見てもかなりの優良物件である事は十分に理解していた。

 故に、花菱伯爵夫人が長月の縁談を取り纏めようとしているという情報を聞いた時、恒彦自身にとってこれ程好都合な事は無かった。

 勿論初めは、あまりにも家柄が違い過ぎると花菱伯爵夫人が遠回しに縁談を断ろうとしたり、何故恒彦が長月を妻にと望むのか、質の悪い冗談なのでは無いかと訝しんではいたものの、恒彦が長月に惚れてしまった事。長月を一目見て妻にしたいと思った事を離せば、花菱伯爵夫人は手放しで喜んでいた。


『長月をこれ程までに慈しんで下さる方など、他に誰もいらっしゃらないでしょう』


 花菱伯爵夫人は、伯母と姪という関係にある長月を殊の外大事にしていた。強引に縁談を取り纏めて長月を嫁がせるのではなく、長月自身の意思や将来の幸せをも慮ってこの縁談を心から喜んでいた花菱伯爵夫人は、松宮家の親族の中で最も長月を愛していた存在なのだろう。心から長月を心配し、思っているからこそ口を突いて出た花菱伯爵夫人の言葉は、長月の血を分けた本当の家族とは比べ物にならぬ程の深く尊い愛情でもあった。

 花菱伯爵夫人は、長月自身にとって余りにも貴重な存在だ。精神的な支柱と言っても良い。花菱伯爵夫人の言葉であれば、恐らく長月も然程抵抗する事無くこの縁談を受け入れるだろうという事が分かったからこそ、私は花菱伯爵夫人を通して長月に縁談を申し込んだ。

 まさかそれがすんなりと受け入れられるとは思っても見なかったが、恒彦が思った以上に長月は華族の娘としての覚悟を持っていたのだ。親が――親代わりの花菱伯爵夫人が決めた縁談であれば、それがどのようなものであれ、受け入れるという覚悟を。


 友人達は、恒彦が自ら願って長月を娶った事に対して、大仰な程に驚いていた。そればかりか、『地中姫が何か怪しげな呪いでも用いて神代侯爵令息を篭絡したのはないか』等という根も葉も無い噂まで立っており、恒彦は笑うしか無かった事を今でも鮮明に思い出す事が出来る。

 長月がどのような人物であるのかなど、誰も知らない。知ろうとすらしない。そのような噂が立っても長月にはそのような噂を耳打ちする人物すら今はもう何処にも居ない。

 それは恒彦にとって何より喜ばしい事だった。


 ――長月が、人を寄せ付けず、人から忘れ去られ、気にも留められない存在である事。それはある種の不幸な存在だ。世間一般から見れば、なんと幸薄い人間である事だろう。

 然し恒彦はずっと、そういう〝自分だけが気に掛け、愛し、慈しまねば生きていけない存在〟を長年求めていた。いや、求める等と言う軽い言葉に留まらず、恒彦にとってそれは喉から手が出る程に渇望する存在でもあった。

 そういう存在に恋していたと言っても良い。まだ見ぬ恋人を想うように、恒彦は恋い焦がれていたのだ。


 そうして、恒彦が自ら求めていた存在が自ら目の前に立った時、恒彦は狂ったような情愛が湧いて来るのを感じていた。

 長月が人から避けられれば避けられるだけ、人の輪から遠ざかれば遠ざかるだけ、恒彦の心は昏い愉悦に浸った。

 同時に長月が、恒彦の意思を慮って自ら出掛ける事を禁じ、邸の中で一人籠って過ごす姿は何より恒彦を喜ばせた。


 恒彦のような人間を、人は狂人だと呼ぶのだろう。

 しかし、その醜聞など恒彦にとっては些末な事でしかない。己が真に欲する存在を手に入れさえすれば、恒彦にとってそれ以外の存在が囁く言葉など意味を成さないものなのだから。


「そういう意味で言えば、松宮伯爵令息――義兄姉上達は愚かな事をしたものだ」


 恒彦ならば、もっと上手く立ち回っただろう。

 だが、それももう昔の話。二人は心中を図って、亡くなったのだから。


「これでまた一つ、長月が心を傾ける存在が減ったな」


 恒彦は喉の奥で嗤いながら部屋の窓際に立った。恒彦にとって長月は、愛を捧げるに相応しい人物だ。だからこそ、恒彦は長月を鈴蘭の君と呼んで慈しみ、さながら鳥籠の鳥のように閉じ込めているのだ。

 恒彦が愛するフランス語で鈴蘭の花言葉の一つに、“遥か前からあなたに好意を抱いていました”という言葉がある。長月という存在は恒彦が焦がれ続けてきた存在そのものなのだ。


「早く帰って来きなさい、長月」


 心から慈しむように、恒彦は呟いた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ