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転換する日

 兄と姉、二人の結婚から早一年が過ぎた。早いもので私自身も、神代家に来て半年が過ぎようとしている。恒彦さんと私の間にまだ子どもは居ないけれど、神代家の義母様方からは一日も早く跡継ぎを産むよう期待されている事は私自身も理解している。

 然しこればかりはタイミングという物が必要なのだと恒彦さん自ら防波堤となって下さっているお陰で、私は相変わらず独身の頃と同じように邸に引き籠ってゆったりと過ごしている。

 勿論、子どもを産む事は神代家の妻としての重要な義務でもある。そう思っているのは伯母様も同じようで、折りに触れて子どもが授かりやすくなるというお香やお茶等を密かに贈って下さっている。

 伯母様自身、子を成す事が出来たのは結婚してから二年後の事で、周囲から様々な圧力を受けて鬱々としていた時期があったのだという。後一年で出来なければ、離縁を言い渡されても仕方がなかったと、伯母様は苦笑していた。あの女傑たる伯母様が、だ。


「いつかは子を産まないといけないのよね」


 それも、出来るだけ早くに。


「私に、子どもを産めるのかしら」


 その覚悟すら今は出来ていないというのに。

 それでも、誰も私の代わりに子を産む事は出来ないのだから、私にも少しばかり焦りを感じ初めていた。恒彦さんは、それはもう優しい笑顔で「子どもは授かり物だから」と笑うのだけど、それにただ頷いているだけではいけないのかもしれない。

 子が出来る時期など、神のみぞ知る領域なのだから。

 私はそっと重くるしいため息を吐いた。





 その日もいつもと変わらない一日を過ごしていた筈だった。だというのに、何故私は松宮家本邸に召集されているのだろう?

 遡る事、二時間前。それは唐突に始まった。


「お父様から?」

「はい。急ぎ中を改めて欲しいとの事でございます」

「そう、ありがとう」


 神代家の邸に父から手紙が届いたのは、丁度昼食を済ませて直ぐの事だった。急ぎ中を改めて、と言われたその手紙には父の心情を表すかのように走り書きで急ぎ松宮家に来いと書かれていた。来て欲しいではなく来いとは、相当に切羽詰まっている状況なのだろう。

 何かが松宮家で起こっている。その時から嫌な予感はしていたのだ。


「確かに承りましたと伝えて。それから、エントランスに車を回して貰えるかしら?」


 そう使用人にお願いしていると、背後から聞きなれた涼やかな声が割り込んだ。


「それには及びませんよ、長月さん。既に車を回してあります」

「まあ、恒彦さん。まだお仕事中でいらしたのではないのですか?」

「松宮家の方が来ていたから、何かしらがあったのだろうと思ってね。私も一緒に行こう」

「宜しいのですか?」


 そう伺うように恒彦さんを振り仰げば、にこやかな微笑みを浮かべた恒彦さんが「勿論だよ」と答える。

 ここ最近の恒彦さんは、私が神代家の邸から出る事を殊の外嫌がっておられるように感じていたから、私自身が外出する事など無かったのだけど。


「さあ、行こうか」


 そうして神代家の使用人達に見送られて松宮家本邸に到着したのがほんの一時間前のこと。


「はっきり話さないか、文博っ」

「何度も申し上げているように、私が言うべきことは無いと言っているでしょう」

「それがお前の答えだという事か!」


 一向に進まない押し問答を繰り広げる兄と父の姿を私はただ黙って見つめていた。隣に立つ恒彦さんは、真剣そのものの表情で成り行きを見守っている。

 父から来い、と手紙が来た時には緊張と不安で胸が掻き乱されていたけれど、まさかそれが兄と姉、天城様と久子様の事だとは思ってもみなかった。

 当然の事なあら、いつかは起こる事だと覚悟はしていたけれど、まさかこんなにも早く事が起こってしまうだなんて。

 そう現実逃避してしまっていたからだろうか。父が私に怒りの矛先を向けたのは。


「――長月、お前も文博達の事を知っていたのか!?」


 唾を飛ばしながら常に無く激しい怒りを露わにした父は、意気消沈とした様子で項垂れる兄とその配偶者たる久子様を前にして私に詰め寄った。沈んだ面持ちで二人から少し離れた窓際に立つ天城様と姉の姿は、父の視界には映り込んでいないらしい。因みにというべきか、神経が細い母は今回の一件を聞いて寝込んでしまったらしく、この場には居ない。

 今回の件を知らなかったと言えば嘘になる。けれどもそれを言ったとしてどのような結末が待ち受けているのだろう。

 何を言って良いものか、私は何を言うべきなのだろうか。

 言葉を言いあぐねて音も無く唇を閉口させた私に、父は更に激高した様子で私の両肩を掴む――いや、掴もうとした所で私の背後に立っていた恒彦さんがやんわりとその手を押し、頭から湯気が立つ程に怒りを撒き散らす父を宥めに掛かった。


「松宮伯爵、落ち着いて下さい。長月さんはずっと神代家の邸で過ごしていたんですよ? 長月さんがお義兄さん達の仲を知る事など出来る筈がありません。勿論、その間を取り持つ事など、神代邸に居た長月さんには現実的に不可能と言わざるを得ません」

「だが、長月は――…」

「お父様、もうお止め下さいませ!」


 姉が父の言葉を遮るように絶叫した。それは淑やかで儚い空気を纏う姉に似つかわしくない、鬼気迫る絶叫である。


「長月には関係の無い事ではありませんか! 私達がお父様を欺いた事は認めます。ですが何故、なぜ私達が心底愛し合っているという事をお認め下さらないのですかっ」

「お前達は兄妹なのだぞ!? どうしてこれが認められるというんだ!!」


 姉の絶叫を上回る罵声を上げた父は宥める恒彦さんの声も、私の声も聞こえないのか、その矛先を再び兄と久子様に向けた。

 「お父様」と無意識に父を止めようとした私を、さり気無く恒彦さんが引き寄せる。くらりと目眩がした。

 ああ、やはり父はその関係に気付いていながらこれまで黙殺してきたのだ。恐らく思春期特有の近親者に抱く愛情を恋だと錯覚する、一時の気の迷いだろうと。だからこそ、兄と姉がそれぞれ別の方と結婚する時にその様子を疑いながらも、その幸せな様子を見て本当に喜んでいたというのに。

 もしかしたら私はこの時初めて、父を本当の家族として認識し、その怒りと苦しみに共感していたのかもしれない。皮肉なことに、激しく罵る父の姿がこれ程までに近しい存在として感じられたのは私の生涯で初めての事だった。一瞬、強烈な殺意にも似た視線が私に突き刺さった。兄は恐らく私を共犯として認識しているから、私が父を止める事を期待していたのだろう。けれどもこの状況で、私が父を止める事など出来はしない。

 私はそっと抱き寄せる恒彦さんの腕の中でただ成り行きを見守る事しか出来なかった。


「お前達のせいで、久子さんや天城さんにどれ程のご迷惑をお掛けしたと思っている。迷惑という言葉だけでは足りない行いをお前達はしたのだぞっ! 松宮家の家名をお前達は地に落としたのだっ」

「ですが父さん、まだ私達の仲を知っているのは、ここに居る人間だけなのですよ?」

「それを知らせたのは他でもない、松宮家の使用人達なのだぞ!? 使用人達が知らせてくれなければ、今頃爵位を返上し家名を取り潰されても文句など言えなかっただろう!」


 考えれば分かる事だろう。そう吐き捨てられた父の言葉にしんと静まり返ってしまった室内で、父の荒い息遣いとしゃくり上げる姉の声だけが弱弱しく響いていた。

 父の言う事は全てが正論である。こうなる事を姉は考えて居なかったのだろうか? いいや、考えていた筈だ。けれど姉達はきっと同じ結末を迎えていただろう。兄も姉も、お互いへの思いを諦め切れなかっただろうから。

 それから数分後のこと。控え目なノックと共に使用人が松宮家本邸に天城伯爵夫妻と藤戸子爵夫妻が到着した事を私達に知らせ、部屋の隅に控えていた執事が使用人を追い立てるように部屋を出た。


「天城伯爵、藤戸子爵もお呼びになられたのですか」

「当たり前だろう。事は既に我が松宮家だけで片付けられるような問題では無いのだ」


 それから数分と経たぬ内に執事が二家の夫妻を伴って入室した。

 執事が憚るように部屋から出ると、張り詰めた空気が弾けるように藤戸子爵が口火を切った。


「一体どういう事なのですか、松宮伯爵。ご子息が我が娘を冷遇しているというお話ですが…」


 渋い顔をしてそう言った藤戸子爵は、姉を慮ってか重い口を僅かに閉ざす。成程、建前上はそのような理由を付けて父はこの二家を呼んだのか。

 それを引き継ぐように詰問したのは藤戸子爵夫人だ。


「本当に文博さんが私の娘を追いやっているのですか? そうであれば私は文博さんを許す事は出来ません」

「藤戸子爵夫人…」


 藤戸子爵夫人の声に気圧されたようにぐっと口を引き結んだ兄は、本当に苦しそうに顔を歪めた。自業自得だと笑う事など出来はしない。何故なら私自身もこの一件に関わってしまっているのだから。


「この度は我が松宮家の愚息が招いた事でお呼び立てしまって、申し訳ございません。本当に、愚息がこのような大事を起こしてしまい何と謝罪すれば良いものか…」


 父が藤戸子爵に深く、深く頭を下げる。それは父にしか出来ない松宮家家長としての謝罪だった。勿論、それは態度や言葉だけで済む問題ではないけれども、精一杯の誠実さで持って父は頭を下げた。

 しかしそれが恐らくは決め手だったのだろう。

 沈黙を守っていた久子様がそっとその重い口を開いた。


「申し訳ありません、お父様、お母様。これはすべては私達が決めた事なのです」

「何を言うのですか、久子さん。これは我が愚息のせいであって、貴女にはなんの罪も――…」

「いいえ、違うのですお義父様。私は、いえ私達は、四人で決めた事なのです」

「四人?」


 訝し気に唸る父達の前で、椅子に座る久子様の隣にそっと天城様が寄り添った。それと入れ違いにして、兄がいつの前にか床に座り込んでしまった姉の側に寄り添う。それはまるで、そう在る事が当然の事のように、二組の夫婦は互いの配偶者を交換しお互いの立ち位置を変えた。

 姉と兄が恋仲であった事をもう十数年以上見続けてきた私にとってそれは微かな違和感もなく、不揃いに揃えられていたピースがきちんと在るべき場所に収まるように、しっくりと感じる光景でもある。

 けれども四人を含めた私以外の方々にとっては、強烈な違和感と衝撃をもたらすものであったらしい。


「まさか、まさかお前達は――」

「申し訳ありません、松宮伯爵。これは私達四人で考えて決めた事なのです」


 きっぱりとそう言い切った久子様の眦にはまだ透明な涙が滲んでいた。その言葉には並々ならぬ決意と悲壮感が見え隠れし、どれ程の勇気を持ってこの言葉を口にしたのかをまざまざと知らしめている。

 震える体を精一杯抑え込んだ久子様の肩を優しく抱いた天城様は、自身の両親と藤戸子爵、そして父を見つめた。


「久子さんの言う通りです。私は、私達はお互いに愛する恋人と離れたくは無かった。だからこそ、このような愚かな計画を実行したのです」


 絶句してしまった藤戸子爵夫人はふらりとよろめいて藤戸子爵に支えられながら、父は目を見張って体を強張らせ最早言葉も無いとばかりに口を真一文字に引き結び、天城伯爵夫妻は血の気が引いた青白い顔で二組の男女を、恋人達を見つめた。


「愚かな事…どうして、どうしてそのような愚かな事をなさったのですか、貴女達は!」


 そう叫んだのは、やはり藤戸子爵夫人だった。


「どうして!」

「だってお母様は私と謙次様の結婚を許しては下さらなかったではありませんかっ。私はずっと、ずっと謙次様のお側に居たいとあれ程言いましたのに!」

「っ! それは、私達の代で近親婚等を止めるために、そのような悪しき風習を止めるためにした事なのですよ。貴女達に幸せな人生を送って貰うために」

「それが間違いなのです、お母様。私はもう何度も申し上げたではありませんか。謙次様が従兄妹でなくとも、きっと私は謙次様に恋をしていたと。ですから私達の結婚をお許し下さいと、申し上げたではありませんか…!」

「どうして分からないのですか、貴女は。私達はずっと、近親婚等という風習を私達の代で終わらせるために、貴女には我が家の仕来り等に縛られず、自由に生きて恋をして欲しいと思ったからこそ、私達は貴女に言い聞かせてきましたのに」

「それはお母様の勝手な言い分ですわ! 私は恋をしました。自由な恋です。だというのに、お母様はそれをいつまでもお認め下さらない。私と謙次様が、ただ従兄妹であるというただそれだけの理由で!!」


 目の前で繰り広げられる応酬は、まさしく修羅場そのものだった。

 髪を振り乱して絶叫する久子様の姿は、恋に狂った女のそれだ。けれどもそれを見つめる藤戸子爵夫人は、その様に戦きながらもこう呟くのだ。

 「どうして、貴女は分かってくれないの」と。


 恐らく藤戸子爵夫人は、近親婚によって無理やり結婚させられてしまった女性なのだろう。だからこそ、近親婚等という事はここで終わらせようと久子様を育て上げて来た。

 然し久子様自身は、近親婚が当たり前の家で育ち、自然に惹かれ合った恋人が従兄妹である天城様だった。久子様にとってはそれがごく当たり前に生まれた感情であるにも関わらず、藤戸子爵夫人から見れば、久子様は悪しき風習に囚われてしまった可哀想な娘でしか無い。だからこそ藤戸子爵夫人はそれを反対し、その反対が強ければ強い程に久子様が抱く謙次様の想いは募っていく。


 怒気を飛ばす久子様と、落胆し悄然とする藤戸子爵夫人の間には、目には見えないけれど大きくて深い溝がある。二人の思考は、思いはすれ違ったまま交わる事は無い。それは何て苦しく、切なく、そして悲しい事なのだろう。

 どちらが間違っている訳でもない。どちらが正しい訳でもない。

 ただお互いの認識と感情が決定的に乖離しているだけだ。


 思いがけず藤戸家の闇を聞き、傍観者となり果ててしまった私達は、ただその様を見守る事しか出来ない。けれどもそこで動いたのは沈黙を守っていた天城伯爵夫妻だった。


「江美子、それ位にしておきなさい」

「兄さん。ですけれど、久子が」

「このままでは松宮伯爵にご迷惑が掛かるだろう。この後の事はお互いに、家に戻ってから話し合うという事にしてはどうだ。松宮伯爵、藤戸子爵、それで宜しいでしょうか?」


 淡々とそう言う天城伯爵の提案に、父は即座に首肯した。


「ええ。我が家と致しましては、天城伯爵のご提案に異論はございません」

「天城伯爵。私もそれで構いません。江美子、久子を連れて家に戻るぞ。松宮伯爵、この度は娘がご迷惑をお掛け致しました。このお話はまた後日、落ち着いた頃に致しましょう」

「分かりました。藤戸子爵、松宮伯爵、私共はこれで失礼致します」


 すっと優雅に一礼し、天城様を流し見た天城伯爵は、「行くぞ」と一言声を掛けていち早く部屋を後にした。その潔い姿に惚れ惚れとする。


「謙次、此度の事、全て洗い浚い話して頂きますよ。凛花さん、私は貴女が我が天城伯爵家に嫁いで下さって、本当に嬉しかったのですよ。貴女はとても素直で優しい女性であったから」

「お義母様……」

「謙次は良い方を選んだのだと、心からそう思っていました。ですがそれは間違いであったのでしょうね。天城家は今回の件に関し、きちんと対処する所存です。貴女の荷物は、天城伯爵家が責任を持って全てお返し致しますから、どうかご安心なさって。それでは皆様、ごきげんよう」


 優雅に腰を曲げて一礼し、その身を翻した天城伯爵夫人は何処か躊躇するように久子様の側で立ち竦む天城様に「行きますよ」と高圧的に有無を言わさぬ迫力でそう言い切った。

 その背に続いて立ち去っていく天城様を追おうと久子様が立ち上がる。然し、久子様の前に立ちはだかったのは、藤戸子爵夫人だった。


「貴女も帰るのですよ、藤戸家に。兄さんの、天城伯爵の温情に感謝なさい」

「分かり、ました」


 悔しそうに下唇を噛んだ久子様は、そっとその手を引こうとする藤戸子爵夫人の手を乱暴に払い除け、久子様は静かに去って行った。藤戸子爵夫人は釈然としない表情を浮かべていたが、直ぐにその背を追って部屋を後にする。

 ぱたんと扉が閉まると同時に、再び沈黙が支配する部屋の中で、父は大きな音を立てて応接用のソファーに座り込んだ。


「お前達に聞きたい事は山ほどある。だが、長月がこの件に関して部外者だと言うのであれば、ここから先の話は私達の中で納めなければならない。神代様、我が家の醜聞をお見せしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。これ以上は松宮家として処理致します。――長月の事、宜しくお願い致します」

「ええ、分かっています。松宮伯爵。長月、行こうか」


 やんわりと帰るように伝える父に、恒彦さんは頷いて私の腕を引いた。

 背後を振り返ると、何処か疲れたように座り来む姉と兄は私の方など一つも見る事はなく、ただお互いの手をしっかりと握りしめて、これから起こる出来事へと意識を向けていた。

 二人のその様から、やはり最初に父の詰問を遮った姉の行動は、私を庇う為でも、私を突き放した訳でもなく、ただ父の言葉に反射的に反応しただけなのだとまざまざと思い知らされる。

 私はただ、兄と姉の愛憎劇に傍観者として巻き込まれただけ。兄は私を共犯者として利用する事で少しでも自分達へ向ける父や周囲の目を誤魔化したかったのだろうけれども、姉の行動と恒彦さんの制止によってそれらは全て徒労に終わったという訳だ。


 さようなら、凛花お姉様、文博お兄様。


 そっと心の中でそう呟いて、私は恒彦さんと共に松宮家を後にした。





 それから二か月後、兄と姉はそれぞれの配偶者と離縁した後、松宮家の戸籍から離籍された。父である松宮伯爵から勘当された二人は、松宮家の縁を頼って遠方の地へ行くも、その後の転落振りは聞くに堪えず、それから間を置く事無く、二人は山奥で心中を図り、亡くなった。兄と姉の結婚から始まった一連の事件は、ここで幕を閉じる。

 兄と姉は、最後に愛する人と共に過ごす事が出来た訳だけれど、その人生が幸せなものであったのかは私には分からない。ただ、兄と姉が求めていた幸せにはお互いの存在が不可欠であったことは事実なのだろう。


 そっと私は僅かに膨らんだ腹を撫でた。

 私が子どもを授かったのは、半年程前になるのだけれど、それからもうずっとこうして神代家の邸で大切に守られている。いいや、これは恐らく軟禁されていると言っても過言では無いのかもしれない。


「最後に外出したのは、いつだったかしら」


 自分の意思で邸から出ないのと、他者の意思で邸に閉じ込められているのとでは意味合いが大きく違っている。私自身に、その選択肢は最早残されていない。父は、恒彦さんと夫婦として上手くやっている私に心から感謝しているし、この為私が我が儘を一つでも言おうものならば、私の行動を糾弾するか説き伏せられるまで諭すかのどちらかで、私自身に自由というものは存在していないのだ。

 華族同士の結婚など、ドライな関係が殆どだと思ってきた。

 元々私に恒彦さんへ向けた恋愛感情など無かったのだから、余計にそう思っていたのだ。

 だというのに、恒彦さんは最初から私に好意を寄せて、本当に心から慈しんで下さり、私を守って下さっている。その事は、正直嬉しかったし、私自身も恒彦さんを夫として尊敬し、僅かながら恋と呼べるものが芽生え始めてきていたのも確かだ。


 けれども時を重ねるにつれ、恒彦さんは私を『鈴蘭の君』などを呼び、邸の中で囲い、私自身が恒彦さん無しでは生きられないようにしているのではないかと、ふと思う事がある。

 実際に私は、恒彦さんの許しが無ければ外へ一歩出る事も、自由に誰かと文を交わす事も出来はしない。唯一、許されているのは邸で静かに暮らす事と、時折お誘いを下さる伯母様とのお茶会に出かける事のみ。

 神代侯爵の次期妻として社交界に出る事も、パーティーに赴く事も最早私には許されていない事なのだ。

 そういう事情もあって私は、恒彦さんの呼ぶ『鈴蘭の君』という名称が一部の社交界では有名になっている事を知らなかった。


 本来鈴蘭の花というものは、あまり手間の掛からない花なのだ。けれども恒彦さんは私をまるで大切に大切に育てなければ花を咲かせない胡蝶蘭の如く私を囲い込んでいる。

 だからこそ悪意ある華族達は鈴蘭の花が有毒植物であることから転じて、『神代侯爵令息は、その毒を周囲に振り撒かせない為に邸に閉じ込めているのだろう』と言われているらしい。

 確かにその通りなのかもしれない。私はあの、醜聞を撒き散らした兄と姉の妹なのだから。


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