表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

流動する環境

 それから私と恒彦さんの縁談は順調に進み、先日正式に結納を済ませて私と恒彦さんは婚約者となった。

 私自身は、わざわざ自ら噂の種を投げ込む必要は無いと思っていたのだけど、そこはやはり華族同士の婚約という事もあって、両家とその親族を通じ、社交界へと私達が婚約した事実はあっという間に広がった。


 恒彦さん自身は周囲から何を言われようとも気にした様子は無いけれど、「松宮家の影」だとか、「松宮家の地中姫」等と陰で揶揄されることもある――勿論、これはお節介な自称友人達が私に知らせてくれた悪意ある噂だけれど――私との婚約はやはり驚くべき物であったらしく、社交界では専ら噂の的であるようだった。

 とはいえ婚約をしたからといってその後も私自身が積極的に社交界に出る事は無く、友人と呼べるようなご令嬢もほんの一握りしか居ないので、伯母様から伝え聞く令嬢方の悔しそうになさっていたらしいご様子だとか、以前は私を貶めるような発言をなさっていたご令嬢方やご婦人方が手の平を返したように擦り寄っておいでになったなどの話を聞き、私はただ苦笑する事しか出来なかった。


「如何にも分かりやすい態度を取っているものだわ」


 ご婦人にあるまじき、鼻をふんっと鳴らした伯母様は香り高いアッサムティーにミルクを注ぎ込み、ティーカップを口元に傾けた。

 些か厳しいお言葉ではあるものの、伯母様の仰る事も分からないではない。元々松宮家は華族の中でもそれ程目立つ家柄では無かったし、華族の中でも特に、松宮家の始祖から始まり現在に至るまで親族間での争いや本家の分裂騒動などの不和もなく、安定している家系であるという事だけが唯一の特徴であるかのようなお家柄であったのだ。

 故に社交界では、優良物件には違い無いけれど、特別な魅力も無い影の薄い一族として悪い意味で有名でもあった。

 この為、松宮家の人間は本来のんびりと穏やかな気質を持った方ばかりの筈なのだけれど、伯母様はそういった松宮家の安定してはいるけれど退屈で根本から腐っていきそうな安穏とした空気を嫌い、早々に嫁いだ後は、松宮家の存続の為に危機感の薄いお父様や伯父様のお尻を叩きながら様々な事業を取り仕切る女傑として精力的に動いている。

 その伯母様にとってしてみれば、現在の状況は何とも歯痒い思いであっただろう。


 大体、兄や姉は私と比較すれば多くの社交界パーティーに出席しているとはいえ、大概がパーティーで行われている本来の目的である社交はそこそこ程度にしかせず、暇さえあれば二人の世界を形成しているのだ。あれはもう、重症だとかそんな言葉では片付けられない。最早病気だと私は思う。

 もし父が二人に社交界で開かれているパーティーへ出席するのは、必要最低限で良いと厳命していなければ、今頃あの二人は兄妹でありながら、ただならぬ仲であると噂されていた事だろう。それも松宮家にとって最悪な形で。

 幸か不幸か、二人が本当に恋仲であることを知る人物は私を含めてほんの一握りの人間のみ。父の素早い対処によって松宮家の恥部を隠しおおせている事実に、私は心から称賛を送りたい。もしもこのような噂が広がれば、松宮家は早晩潰れてしまっていただろうから。

 勿論、その危機感は今も私や伯母様の間で共有しているものだけれど。


「長月さん、貴女、神代様とは普段お手紙のやり取りをなさっているのですって?」

「はい、伯母様」

「そう、それは良かったこと。婚約という大義名分は頂いたのですから、二人でお出掛けなさったら宜しいのですよ。それで、神代様からはどのようなお手紙を頂いているのかしら?」

「日々の出来事や、私の体を気遣って下さり、お手紙と共に細やかな雑貨類や香草茶等を頂く事もございます」

「そうなの。それで神代様とはいつお会いになるの?」


 些か身を乗り出して聞く伯母様の姿といったら、野次馬のようなそれである。

 少しでも話題を逸らす為に些か恥ずかし気に俯くと、伯母様は弾んだ声で畳み掛ける。


「今はお忙しいという事ですから、来月には松宮のお邸に来て下さるそうです」

「そうなの! それは良い事だわ。お互いのお邸を行き来して仲を深める。とても健全なお付き合いですものね。お二人の祝言が楽しみだわ」


 そう笑う伯母様に曖昧な笑みを返し、私は心の底から楽しそうに私と恒彦さんの祝言や贈り物等を語る伯母様に理由を付けて邸を辞去し、私の家でもある松宮家本邸へと戻った。





 ―――それから二か月後、私は些か興奮した様子で、「縁談が決まったぞ」と駆けこんできた兄の呼び出しによって、松宮家の居間で兄と姉、そして兄がお招きされたご令嬢とご令息に対面していた。

 常であれば兄がわざわざ私を呼び立てる事など無かったのに、どういう風の吹き回しだろう?

 それに、縁談が決まった、というのも些か可笑しな話だ。父や母は二人の関係を慮って、未だ二人の縁談は手付かずの状態の筈である。第一、兄がこんなにも嬉しそうに満面の笑みで私にお知り合いの方を紹介されるというのも、恐らくは私にとっても初めてのこと。


 仕立ての良い濃紺のスーツを纏った兄は、隣に立つお二方を私に紹介した。


「長月、こちら、天城伯爵令息、天城 謙次(あまき かねつぐ)様。そのお隣が、藤戸子爵家令嬢、藤戸 久子(ふじと ひさこ)様だ」

「天城様、藤戸様、お初にお目に掛かります。松宮家が次女、長月と申します。以後お見知りおき下さいませ」

「初めまして、長月様。藤戸子爵家が三女、久子と申します。どうぞ久子とお呼び下さいませね、長月様」

「はい、久子様」


 姉とはまた別種の、淑やかで清楚なご容貌の久子様は、にこやかな微笑みと共にその隣に立つ天城様を見上げた。その様はまるで、よく出来ましたでしょう?と自慢するような柔らかな微笑みだ。


「長月様、初めまして。天城伯爵家が長男、天城謙次です」

「初めまして、天城様」


 黒いスーツをその身に纏い、如何にもご婦人方に好まれそうな爽やかな空気を纏う天城様は、久子様を視線を交わし、兄の勧めによって着席された。やはり同じ華族の方という事もあって、一つ一つの所作が優雅で気品に溢れている。

 確か天城家と藤戸家は親戚同士の間柄では無かっただろうか。私の記憶が正しければお二方は恐らくお従兄妹同士の筈だ。お二方の仲が良いのも、年齢の近い従兄妹同士てあれば不思議ではない、という見方を無理にしようと思えば出来ない事もない。

 お二方が着席なさって間もなく使用人が運んできたティーカップを前に、私はこの不可思議なお茶会を開いた兄に視線を向けた。

 天城様と久子様、お二人の間に流れる空気を見ても分かるように、恐らくお二人は恋人同士と見て間違いは無いだろう。だけれども兄はそれを見ても何ら反応を返す事もなく、姉と熱い視線を交わしている。兄とお二方の繋がりがいつ作られたものかという事は、私は知らない。けれども兄のこの態度は余りにも無礼に過ぎるのでないだろうか。

 そうは思っても、妹である私が口を挟む事など出来ないし、ちらりと視線を向ければ、お二方は兄達の様子を見ても動じた様子はなく、寧ろ微笑まし気にそれを見つめている。


 ―――まさか、とは思うのだけれど、兄はもしかして…。

 私の予想が当たっていない事を願って、和やかな会話を繰り広げるお二方と兄、姉の様子をつぶさに観察しつつ私は相槌を打つ。愛する恋人同士が二組揃えば、独り身の私は空気となっている他無い。けれど今はそれが何より有難かった。恋人達の熱に当てられても嬉しくもないのだから。


 五人のお茶会が始まって数分後、不意に、兄が零した言葉に私は戦慄した。


「この度の縁談、お二人のご決断があったからこそ、このような運びとなったのです。久子様が私と結婚し、天城様が凛花と結婚する。戸籍上の配偶者は出来ますが、お二人のお陰で私は凛花と生涯共に居る事が出来ます。本当に天城様と久子様には、感謝しかございません」

「それは私も同じですよ、文博様。文博様が一計を案じ、ご提案下さらねば私達は今頃両親の意向で引き離されていたのですから。こうして私達が共に居られるのも、すべて文博様のお陰です」

「ええ、謙次様の仰る通りですわ。現にお母様やお父様は、既に私達の縁談を幾つか用意なさっていたのですもの。その縁談が進む前にこうして私達の思い通りに事が納まって、本当に私達は感謝しております」

「久子様、天城様…!」


 姉が儚げな笑みを浮かべ、感極まったように涙を溢れさせた。頬に流れ落ちて来る涙を兄が寄り添いながらハンカチで拭えば、対面するお二方も感動的に目を潤ませて手を取り合い、熱く見つめ合っている。

 ああ、やはりと私は内心の溜息を押し殺した。

 つまりはこうだ。

 お互いの両親と周囲を欺きながらお互いに恋人同士を交換して結婚をする。が、水面下ではお互いの恋人と切れる事は無く、表面上は夫婦として振る舞うという事なのだ。

 なるほど、この話を聞かされた私は、兄達の共犯者となっているという訳だ。この腹黒兄め。よくも巻き込んでくれたわね。

 些か険の交じった視線で兄を睨みつけると、兄は爽やかさを前面に押し出した胡散臭い笑みを浮かべて、感動に打ち震えるお二方の注意を私に向けさせた。


「長月、天城様と久子様はいずれお前の義兄姉となられるお方達だ。長月はいずれ嫁ぐ身ではあるが、私達の全てを知っておく必要があるだろうと、この場に呼んだのだ」


 天城様の腕に抱かれて涙する久子様は、兄の言葉にはっとした様子で顔を上げ、天城様と共に私をひたと見つめた。


「長月様、私達が何故結婚する事が出来ないのか、不思議に思われたでしょう?」

「…ええ」

「長月様はご存知かと思われますが、天城家と藤戸家は親族であり、私と謙次様は従兄妹同士なのです。けれど私達の家系は代々近親婚を繰り返してきた関係から、私もいずれそうなるのだと、そう思っていました。私達が惹かれ合うのも必然の事だと、私は今も思っております」

「久子様」

「ですが私の母が…お母様が、我が家の家系は血が濃くなり過ぎているから、私達の結婚を許さず、それぞれ別の方と結婚して貰うと、そう仰って…」


 涙交じりに吐き出した声は震え、嗚咽を漏らす久子様に変わり、その背をそっと愛おし気に撫でる天城様が話を引き継いだ。


「私も久子も、お互い以外の人間と結婚するなど、これまで考えた事もありませんでした。勿論、何度も抗議しました。多少血が濃くなっていても問題は起きていないのだから大丈夫だと。お互いの両親を説得するために、何度もお願いに上がりました。然し、最終的に藤戸家の決定に対し、天城家もそれに追随してしまった。私達は後一歩遅ければ、直ぐに結婚させられていた事でしょう」


 天城様と久子様のお話は、分からないでも無い。けれど私には、それに伴う弊害を今更ながらに危惧し、一計を案じた天城家と藤戸家の方針もよく理解できるのだ。

 恐らく、お二方はきっと、駆け落ちする事さえお考えになられていたのだろう。言葉の端々から滲み出る悲壮感は、お二方の悲劇的な恋愛劇に更なる熱を投下している。けれどそうする前に――或いは、両家の方針に嫌々ながらも従い、結婚する前に――兄の手によってこのお二方はお互いを愛し合ったまま、戸籍上の配偶者を得て生きていくという希望を、夢を持ってしまったのだ。そしてそれは今まさに、兄の働きによって現実のものとなろうとしている。


 くだらない、と吐き出す事も出来ない。なんて愚かしい人達なのだ。

 そんな夢物語を、どうして現実のものにしようとしてしまったのか。


 我が松宮家の父や母がこの縁談に対し、どのような動きを見せているのか、私は知らない。けれども少なくとも天城様、久子様の口ぶりでは恐らく、天城家と藤戸家ではこの縁談を正式なものとして取り交わそうとしていることは確かである。

 なんていう事なの。

 最早絶句するしかない私を前に、姉が兄の元を離れてそっと私の側に立った。


「長月、私達はもうずっと恋人同士であったの。貴女に話もせずに居て、ごめんなさい。でもね、長月。私はどうしても文博さんと共に居たい。生涯を生きていきたい。その為ならば私は、どのような事でも成してみせるわ」


 おっとりとした姉に相応しくない、力強く決意の籠った言葉に、兄は「凛花…」と嬉しそうに、それでいて眩しいものでも見るかのように目を細める。


「だからどうか、私達を見守っていて。貴女が結婚した後も、どうか私達を助けて頂戴」


 結局、これなのだ。

 兄も姉も、そして言葉にはしていないものの天城様も久子様も。己の願いを叶える為に、私を利用しようとしている。そして、それに私が頷く事、了解することをやんわりと強制しているのだ。

 どうして私を巻き込むのか。あなた達の不毛な恋愛劇に、何故部外者である私を巻き込もうとするのか。


 じっと見つめてくる四人の視線を前に、私はゆっくりと姉の両手を包み込み、頷く事で答えた。

 それが私に出来る、精一杯の反抗だった。



 ―――それから約四か月後、兄と久子様が結婚した。それは夏の盛りが過ぎた秋の事。それから年を越し、兄から間を空けること半年、姉と天城様が結婚した。

 両親は事後承諾という形で報告されたこの縁談に対し当初は本当にそれを四人が望んでいるものなのか非常に懐疑的な態度であったものの、兄と久子様、姉と天城様のこの縁談に対する真剣さや仲睦まじい様子を見るにつれて次第に態度を軟化させ、遂にはこの結婚を承諾するに至る。

 この間、約一週間だ。

 そのような短い時間で両親、そして三家を納得させるに至った四人の奮闘振りは傍から見ていた私にも一瞬、本当にただお互いが好ましいと思いこの結婚に至っているのでは無いかと思わせる程だった。勿論そのような事実は一切なく、お互いの両親の目を盗んで熱い視線を交わしたり、密かに合流地点を定めて四人が逢引きしている事を知った時には思わず卒倒しかかった事は恐らく誰も気づいていないだろう。

 とにかく、私は四人のあれやこれやにもう巻き込まれたくは無いのだ。

 だから四人が不審な行動を取っていても素知らぬ振りですべて黙認した。ここで引き留めれば、愛する恋人を持つ二組の男女四人が更に過激な――というよりも衆目に晒される形で――行動することは分かっていたので、傍観者の一人に徹していただけなのだけれど。


 先に結納を済ませていた私と恒彦さんは、恒彦さんの仕事の都合もあって、兄と姉両方の結婚を行った後に神代家主催のもと、大々的に執り行われた。

 こうして私は漸く、松宮家を出て神代家へと嫁いでいった。





 はっきり言ってしまえば、私が嫁いだ神代邸は私の実家である松宮家本邸と比べ、遥かに快適であった。勿論それは、神代家に連なる方々が心を寄せ、私に大層気を遣って下さっているのも理由の一つではある。けれども何よりも兄や姉と会わぬ為にわざわざ部屋から出歩く時間を避ける必要もなく、松宮家の仕事の手伝いをする必要が無くなった事で私は、余裕を持って暮らすことが出来ている。


「こんなにも楽な生活を過ごしていても良いのかしら」


 松宮家の仕事の手伝いでもうすっかりと遠のいていた趣味のレース編みを邸の一室でちまちまと刺していると思わずそんな事を思ってしまう。

 恒彦さん自身は何も言わない為、私は心から自分の好きな事だけをさせて貰っているのだけど、余りに平和過ぎて拍子抜けしてしまう。神代家に仕えている使用人達も非常に気立てが良く有能な方ばかりで、私自身は恐縮してしまうばかりだけれど、本当に何くれとなく気遣ってくれている。


 こう言ってしまってはなんだけれど、恒彦さんにはとても感謝している。あの松宮家から出るきっかけを下さったばかりか、こうしてとても良くして貰っているのだから。けれども私が恒彦さんを愛しているかと言えば、それは否だ。伯母様の邸でお会いしてからお手紙でのやり取りを重ねて、今では恒彦さんの妻という座に納まってはいるけれど、私自身に恋愛感情など無い。

 勿論、妻としての義務や義理は出来る限り果たそうと思っているけれど…ただ、それだけだ。ある意味私はまだ、恋をした事が無い幼い子どもの一人でもあるのかもしれない。


 不意に、手元に明かりを落とすランプを見つめた。

 恒彦さんが私に贈って下さった鈴蘭の花をモチーフにした可愛らしい形のランプだ。それだけではない。恒彦さんは私を『鈴蘭の君』などとからかい混じりに仰って、鈴蘭の意匠を模った様々な小物類を毎日のように贈って下さっている。

 私の膝から掛けたひざ掛けも、鈴蘭が刺繍された上品な一品だった。

 恒彦さんは私を鈴蘭のように可憐な方だと仰って下さっているのだけれど、それが気恥ずかしくもあり、また素直に嬉しくある。

 恒彦さんは初めて私自身をきちんと真正面から見て話して下さった稀有な方だから。これまで私の周りには全く存在して居なかった、私だけを見て下さる方だから。


「あら…」


 考え事をしながらレース編みをしていると、すっかりと慣れた作業となっているからか、もう編み終えてしまった。確かもうレース編みに使う糸は切らしてしまっている筈だ。以前は手慰みに刺繍をしていた時期もあるけれど、神代家に持ち込んだ刺繍糸の殆どは中途半端に残った長さの物ばかり。


「買い物に出かけようかしら」


 そう思い立って、外出する車の用意を使用人に頼んでいると、大急ぎで執事が私の居室にやって来た。


「奥方様、本日はお出掛けになられるという事ですが」

「ええ。刺繍糸とレース糸を購入したいと思っているのです」

「……大変申し訳ございませんが、本日は午後よりお天気が悪くなっているようでございます。日を改めて旦那様とお出掛けになっては如何でしょうか?」

「あら、そんなにお天気が悪かったかしら」


 部屋の嵌め込み窓から空を見上げると、確かに雨雲と分かる灰色の暗雲が空を覆い隠そうとしていた。手元にばかり集中していて、空の様子等は全く気が付かなかった。確かにこれでは外出するにしても些か手間が掛かりそうだ。


「そうね。足元も悪くなっているでしょうから、また今度にする事と致します」

「ありがとうございます、奥方様」

「いいのよ。教えて下さってありがとう、原田さん」


 ほっとした様子で息を吐いた執事の原田は、何処か張り詰めていた緊張感を解いて微笑んだ。

 緊張? 何に緊張していたというのだろう?

 内心で首を傾げていると、原田の後ろに控える使用人達もあからさまにほっとした様子で微笑んでいる。それに違和感を覚えたのもつかの間、原田の言葉にはっと視線を前に戻した。


「それでは奥方様、午後からはどのようにお過ごしになられますか?」

「そうね…申し訳無いのだけど、何か暇を潰せるような本を持って来て下さらないかしら?」

「どのような本が宜しいでしょうか?」

「料理の本があればそれを。それがなければ何でも良いわ」

「畏まりました」


 原田を先頭に、使用人達が出ていくと私は部屋のソファーに沈み込んだ。

 もうすっかり外出する気持ちは失っているけれど、先程感じた違和感は一体何だったのだろう?


「多分、私の気のせいね」


 もしかすると原田は、私に進言する事で勘気を被るのではないかと警戒していたのかもしれない。成程、それならば先程のほっとした様子にも納得がいく。私は自らの内にそう結論付けたのだけど、この背景には私が予想だにしない出来事が実際には隠されていたという事に、この時の私は気付いては居なかった。

 その日、恒彦さんは珍しく夕方になる頃に邸へお戻りになられた。確か今日は貴族院のお仕事で遅くなるご予定だと伺っていたのだけど。その疑問が顔に出ていたのだろう。恒彦さんが苦笑して答えた。


「思ったよりも仕事が早く済んだのですよ」

「そうでしたか」


 エントランスホールでコートを使用人に預けた恒彦さんは、「そういえば、」と私の目をひたと見つめて言った。


「先程原田から聞きましたが、今日は外出するご予定だったとか」

「ええ。ですが生憎のお天気でしたでしょう? ですから今日は止めておいた方が良いと原田さんが仰って下さって。私、外のお天気も見ずにレース編みに熱中していたものですから、お恥ずかしい事にお天気が変わっている事に気づきませんでしたの」

「そうでしたか。それでは今週末にでも、一緒に買い物に行きましょう」

「まあ、本当ですか? 嬉しいですこと。ですがお仕事の方は宜しいのですか?」


 伺うようにそう問えば、恒彦さんはふっと微笑んだ。


「心配ありません。仕事を溜めこんではいませんから。それに、長月さんと一緒に出掛けるのであれば、何を置いてもそれを最優先とさせますよ」


 甘く蕩けるような眼差しでそう言われれば、反射的に頬に血が上り、私は恥ずかしさに俯いた。


「勿論、長月さんがお嫌であれば今回は遠慮しますが」

「いいえ、嫌だなんてそんな事、ある筈もございません。是非、ご一緒して下さいませ」

「分かりました。ではそのように準備しておきましょう」


 はい、と頷いた私は恒彦さんの視線を避けるように俯いたまま答えた。

 だから私の視界には、恒彦さんが冷たく鋭い視線を誰かに向けている事など気付きもしなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ