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すべての始まり

 私の兄と姉は、大層美しい容姿をしていた。

 射干玉ぬばたまのような漆黒の目と、長く絹糸のような柔らかな髪を持つ姉は、その容姿と相俟って侵しがたい清らかな空気を纏った美女だった。対する兄は、同じ色彩を纏いながらも凍てつく氷のように研ぎ澄まされた空気を持つ美青年だった。

 二人が並ぶとまさに一対の芸術作品がピタリと揃うように、お互いがお互いを思い、魂の片割れに惹かれ合うのは当然なのだと言わんばかりに、二人は幼い頃から互いの気持ちを通わせ合い、愛し合っていた。

 例えそれが血の繋がった兄妹であろうとも、二人は自身の気持ちを抑える事など出来ず、禁忌の関係に堕ちていく。そうして長い年月を経て二人だけの世界を構築していたのだ。


 時は大正。様々な歴史の分岐点の只中にあって、二人は引き裂かれる直前の、最も熱い恋人同士が如く、誰に構う事無く静かに愛情を伝えあっている。


 それを傍目から眺めている私は彼等の妹である筈なのだけれど、愛し合う二人の前では単なる傍観者か脇役に過ぎないらしい。

 今だってほら、苦虫をこれでもかと噛み潰した表情のお父様が二人の禁断の関係を目の前で見せ付けられて、唸るようにふたりを眺めている。その表情はまさしく、忌々しいの一言に尽きる。


 けれどそんなお父様の姿も、傍目から見ている私に言わせて貰えば、お父様ご自身と年が近く、美しい容姿を持つ母を妻にしていても、血縁上は叔母と甥という限り無く近い関係性の中で家庭を築き、子を成している時点で父は兄姉と同じく“血縁者しか愛せない人間”だ。

 私はそんな歪な家庭環境の中で異分子のようにひっそりと存在している。


 兄姉達が繰り広げる愛憎劇は、中々に複雑だった。お互いがお互いをただ穏やかに愛していられればどれ程良かったのだろう。けれども現実とは残酷なものだ。そんな温かくも生易しい時間は、二人の人生に照らし合わせれば本当に極僅かなものだった。

 兄は姉を束縛し閉じ込めたいけれど、世間体を気にしてかろうじて踏み留まっている。けれども姉は、兄に心の底から二人がこれからも離れる事が無いようにと閉じ込められる事を望んでいる。傍目から見たそれは、まるで姉が兄の狂気を恋い焦がれているようなものだった。然しながら姉には未だ世間体を気にする程度の感情を消した訳ではなく、自らの心に秘めた歪んだ愛情を兄に知られたく無くて、その狂気にも似た心を無理に抑えつけている。

 二人の心は同じ物を望みながらも、お互いの感情や理性によってすれ違い、二人の関係は周囲の人々をも巻き込んで益々複雑に絡み合い、縺れて、深みに嵌まっていく。


 それはある種の喜劇にも思えて、私はこれをただ眺めていても良いものか、はたまた『とっとと納まるべき所に納まれ』と願いながら、積極的に二人を寄り添わせるべきなのか、到底見当が付かなかった。

 そうでなくとも私は二人にとって、ただの物語の脇役か傍観者――いいや、それですらない、妹という名のただの背景にしか過ぎない人間なのだから。


「お前はいつも以上に可愛くないな。凛花りんかとは大違いだ」


 そう毒づく兄を横目に私はふいと視線を反らした。この程度の嫌みに苛立ちを覚える程、私の心は狭くない。

 ぶつぶつと文句を言いながら家業の事務仕事を処理していく兄は、姉が母に連れられて外出しているせいで苛立ちが収まらず、仕事が手に付かないらしい。

 たかだか一時間ほど姉が兄の側を離れた程度で余裕が無くなり取り乱す兄の姿はいっそ清々しい程、姉のみしか視界に入ってはいない。

 醜い、とは思わない。ただ可哀想だなと思うだけで。


 窓の外に見える景色はいつもと変わらぬ洋風庭園が広がっている。祖母が好んで作り上げたという洋風庭園は、英国の庭師と造園業者をわざわざ日本へ呼び寄せて一から作り上げたもの。薄紅色の薔薇のアーチや薫衣草(ラベンダー)の小路など、可愛らしくも上品に整った本格的な庭園が広がっている。

執務室という部屋の性質上、庭園の正面に面してはいないため、窓から見える景色はこれが精一杯だけれど、もう少し先に行けば、美しい噴水を見る事が出来る。


 庭園に出てしまおうか。ふいにそう思った時、部屋の明かりを反射して、内側の窓に人影が映った。

 そこに居たのは、祖母から譲り受けた鴇色の着物に緩く髪を纏めた私の姿と、その背後で洋装のスーツに身を包んだ兄の姿だ。兄は黙って立っていれば英国貴族にすら劣らぬ貴公子然とした姿をしているのに、姉が関わると残念な程に内面の未熟さが露呈してしまう。

 寄宿舎時代の兄の友人達はそれなりに兄を評価しているらしいけれど、これが松宮家の後継者の姿かと思うと溜め息を禁じえない。いっそ、お家の取り潰しも覚悟に、伯母様のご子息に跡取りを譲ってはどうかとさえ思う。


 その後も悪態を吐きまくる兄は、姉が帰って来た事を執事から聞いた途端に部屋を飛び出していった。恐らく今日はこのまま帰っては来ないだろう。

 兄が処理した書類に目を通し、必要な部分は書き足していきながら、私はこれからの事を思う。

 母の姉に当たる伯母は大層美しい人ではあるが、こと仕事おいては大変に厳しい人である。この為、全ての報告書にレポートを付ける必要があり、私はその作成を兄と姉の両方に丸投げされているのだ。全く面倒な事を押し付けられたものだ。

 二人共、せめて私に迷惑を掛けない範囲で存分に愛憎劇を成せば良いのに、何とも難儀なものだ。


「嫌になってしまうわね、本当に」


 特殊な関係の兄姉のお陰か、私はすっかり独り言の多い引き籠りの暗い影の人間になってしまっていた。笑える事に、この世界に於いて私は華族の家系に産まれた娘なのだ。この時代、女性は奥向きの事だけを成す存在であり、女性が表立って動く事も、また寄宿舎のある女学校に入学し教育を受ける令嬢達は驚くほど少なかった。

 私はそんな中で、多くの華族の令嬢達と同じく、邸の中で両親が雇い入れた家庭教師の指導の元、行儀作法やダンス、華族の令嬢として相応しい教育を施されている。つまり何が言いたいのかと言えば、私はこの邸を一歩たりとも出なくても、何の問題もなく生きていける側の人間だということだ。


「だから幸せ、だから感謝して生活しろって?」


 馬鹿馬鹿しい。こんな環境が恵まれていると本気でそう思う人間が居るのならば、喜んでその居場所を交換しよう。例えそれが貧困の極みにある劣悪な環境であったとしても構わない。私が私として生きていけない生活に何の意味があるというのか。

 恥ずかしい。少し熱くなってしまった。

 まあ確かに金銭的な心配は無いし、将来の心配などする必要も無い程度には豊かな生活を過ごしている。それでもだ。私はこの家に産まれた事を心底後悔している。主にそれは、目の前で多種多様な愛憎劇を繰り広げる兄姉と、それを止める事無く傍観する両親のせいで。

 この家に於いて私は居ても居なくとも何も変わる事の無い背景の一人。


 両親が早く縁談を纏めてさえくれれば、私は直ぐにでもこの邸を離れる事が出来るだろうに、両親は今時珍しい自由恋愛を尊重する稀有な人達なのだ。世間一般では、華族が自由恋愛をするなど醜聞の極みだというのに。

 殊更大きなため息が零れ落ちる。ふと、廊下の奥に視線を向けた瞬間、私は咄嗟に自身の唇に指を当てた。


「長月、どうしたの? 何かため息が聞こえた気がするのだけど」

「凛花お姉様、いえ少しばかり疲れてしまって。体を解すために少し息を吐いていただけなのです」

「あら、そうなの?」


 目の前でこてんと首を傾げた儚げな姉は、憂いを帯びた眼差しで私を見つめた。

淡い夏虫色の絹に睡蓮の絵が描かれた一点物の着物を纏った姉は触れれば消えてしまうのではないかと思う程、儚くも透明な空気を纏っている。

 不味いなあ。姉が兄以外の誰かを気に掛けるという事は、またあの嫉妬深い兄から叱責を受けなければならないという事を指している。それはつまりまた、面倒な役回りを演じさせられるという事でもあって、私は盛大に胸の奥で嘆息した。


「ご心配をお掛けしました。急ぎ伯母様の邸に届ける物がありますので、私はこれで」

「ええ、気を付けて行ってらっしゃい。伯母様に宜しくと伝えておいてね」

「はい、凛花お姉様」


 いつも通りに、それ以上の詮索をする事無く引き下がった姉に会釈をして私は出来得る限りの最高速度で――但し優雅な足取りで――戦線を離脱し、姉への宣言通りに伯母の邸に向かうべく我が家の馬車に飛び乗った。今日はもう邸には帰らないでおこう。

 そう思って選択した事が、まさか私自身の首を締める事になるなど、この時の私には知る由も無かった。


 かえすがえすもその時が実際には見逃す事の出来ない大きな分岐点となっていたのだ。その事実にすら気付けていなかった私は、なんと愚かな女なのだろう。

 私は、私自身にとってその時に出来る最良の選択をしていたつもりで、実は最悪の選択をしていたのだと、知ったのはそれから少し先の事だった。





 勝手知ったる伯母様の邸で確実に報告書を手渡した後、伯母様に急かされるように親しい身内だけが出入りする応接室に通された。

 伯母様の邸は私の住む松宮家本邸と同じく、洋風を中心に和風モダンな空間を作り上げている邸である。その関係からか、伯母様は好んで流行のドレスを纏っている。伯父様は執務中らしく今日はお出になっておられない。その時から、少し嫌な予感はしていたのだけど、まさか伯母様が突然私にそのお話を持ち掛ける等思ってもみなかった。


「――お見合いですか?」

「ええ。貴女ももう年頃の女性でしょう」

「ですけれど伯母様。お兄様やお姉様が未だ娶わせせぬ内に、末子の私がお受けしても良いのでしょうか?」

「ええ、それは大丈夫。貴女のお父様には既に話を通してあります」

「そうですか」


 ああ、これは逃げられそうにない。

 にこやかにそう話す伯母様は、テーブルの隅に置いていた釣書を引き寄せて私に手渡した。


「お相手は、神代侯爵家のご長男、神代 恒彦(こうじろ つねひこ)様よ。来年には貴族院議員に上がられるご予定だとか。陛下の覚えも目出度く、将来有望な青年と専らの噂になっているわ」


 恐らくは婦人会で得たのだろう噂を伯母様は自慢げに宣った。確か神代家といえば、公家華族の代表的な家柄ではなかったか。そのような方と縁続きになるなど冗談が過ぎる。けれど伯母様のその真剣過ぎる表情が、私の淡い期待を裏切る。


「まあ、伯母様。それでは伯爵家程度の我が松宮家では釣り合わないのではありませんか?」

「それは気にしなくとも良いのよ。この縁談は、神代家の方から持ち掛けられたものですから」

「神代家の方から?」

「ええ。神代恒彦様は、特にこの縁談に乗り気で、貴女を見初められたらしいのよ。何処かでお会いになった記憶はあるのかしら?」

「いいえ、伯母様。私の記憶にはございません」

「そうなの。でも、こちらとしては有難い事ばかりね。一度お会いになって頂戴な。そうね、今直ぐにでも」


 伯母様の余りにも真剣なその様子に、私は思わず固まりつつも笑顔で受け流す。


「私はこのような格好ですし、直ぐにお会いするのは…」

「あら、大丈夫よ。貴女が着ているのはお祖母様がお召しだったお着物でしょう? それにね。神代様は既に我が家にお越し頂いているの。別のお部屋でお待ち下さっているわ」

「お、伯母様、それは余りにも失礼では」

「直ぐにでもお会いしたいという神代様の願いに応えただけよ。貴女も会って直接お話した方が何かとお早いでしょう? でもそうね。髪だけは結わえていきましょうか。三井、お願いね」


 私の言葉を物ともせずさくさくと進めてしまう伯母様の手法には舌を巻く。が、それは傍観者であるからこそ言える事。呑気に言っているが、これは当事者である私に直接降りかかっているのだから溜まったものでは無い。

 私の抵抗など、伯母様にとって然程の抵抗にも見えていないのだろう。使用人の三井さんが結ってくれた髪に伯母様秘蔵の翡翠の簪を挿されて、私はあれよあれよという間に、その神代様が居るという別の部屋の目の前に来ていた。


「失礼致します、神代様」

「ええ。花菱伯爵夫人、この度はお手間を取らせて申し訳ありません」

「いいえ、神代様のお頼みとあらば如何様にも。さあ、長月お入りなさい」


 部屋の中央にあるテーブルセットで向かい合う伯母様と神代様が同時に部屋の扉の前で佇む私を見た。なるべく不躾な視線を送らぬよう努めて伯母様の側まで歩いていき、伯母様が私の肩に軽く両手を添え、「長月、ご挨拶なさって」と小さく耳打ちする言葉に頷いた。


「松宮家が次女、松宮 長月と申します。どうぞお見知りおき下さいませ」

「初めまして。神代侯爵家が長男、神代 恒彦と申します。今日は急な申し出に応じて下さってありがとうございます、松宮様」


 軽く会釈をすると、伯母様は直ぐにほくほくとした表情で、


「神代様。誠に残念な事ではありますが、私はこの後用事が入っておりまして。申し訳ございませんが、それまで長月の事をよろしくお願い申し上げます」

「ええ、花菱伯爵夫人。私であれば、喜んで」

「長月、神代様にご迷惑をお掛けしないようにね。それでは、申し訳ございませんが、失礼致します」


 優雅な足取りながらも流麗な所作で素早く部屋を後にした伯母様の背中を思わず視線で追う。なんて手際の良いことか。


「どうぞお座り下さい、松宮様」

「ええ、ありがとうございます、神代様」


 全ての言葉を飲み込んでそう返事を返せば、神代様が素早く私に椅子を引いてくれ、私はその余りにも優雅でそつのない動作に動揺を隠せず、少し固い所作で神代様が引いて下さった椅子に座った。

 紳士。

 その言葉がこれ程似合う男性も居ないだろう。対面の席に座り直した神代様は私の視線ににこりと微笑まれる。本当に端正なお顔立ちの男性で柔らかく相好を崩すと、何の思い入れ等なくとも自然と頬が赤く染まる。条件反射のようなものだけれど、神代様の笑みが更に深まったように感じられて、その後直ぐに使用人が持ってきたティーカップに口を付けながら、私は自身の表情を隠した。

 上等なスーツをその身に纏った神代様は、一言で言えば上品な華族そのもの。流石は公家華族筆頭の御家柄である神代家の嫡男様だ。

 優雅な所作は付け焼刃などではなく、素晴らしく板についている。


 だからこそ、可笑しい。

 どうしてそのような方が格下の家柄である私に、縁談を申し込んだのか。

 何をどう切り出すべきなのか、全く分からない。だって神代様は私のお見合い相手なのだ。しかも神代様自らがそう望んでおられるのだと言うのだから、やはりここから攻めるべきなのか。


「不思議でしょうか、松宮様を妻にと私が望んだ事が」


 だというのに、私の心を読んだようにそんな事を言うのだから、神代様はやはり侮れない方らしい。


「えっ、ええ…はい。ご無礼を承知で申し上げてもよろしいでしょうか?」

「勿論です、松宮様」

「神代様と私はその、何処かでお会いしましたでしょうか?」

「はい。一度だけ、ではありますが、松宮家主催のパーティーで一度、ご挨拶させて頂いた事があります」

「我が家のパーティーで…」

「ええ。といっても随分と前の事ですから、覚えてお出でではないと思いますが」

「そう、ですね。大変申し訳ございません」

「いいえ。沢山の著名な方々がお出でになっておられたのですから、仕方がありません」


 そうは言うものの、神代様のように圧倒されてしまう力強いオーラというのか、雰囲気を持った方とパーティーでご挨拶したのであれば、私の記憶の片隅に残っていても可笑しくは無いというのに、どうしてなのだろう。何か途轍もない違和感を感じる。

 けれどもそれも、続く神代様の言葉で霧散する。


「単刀直入に申し上げますが、松宮様、私の妻となって頂けますか? 花菱伯爵夫人にお聞きでしょうが、私は貴女を妻にと望んでおります」

「神代様のお申し出、大変嬉しくまた恐縮に存じます。ただ何分、今日初めてこのお話を伺ったものですから…」

「まだ答えは出せない、と?」

「申し訳ございません」


 曖昧に濁しながらそう伝えれば、神代様は一瞬寂しそうな表情を浮かべた後、「分かりました」と頷いた。


「まだ私達はお互いの事を何も知らないのですからね。今日は引きましょう。ですが折角お会いしたのです。私の我儘を一つお聞き頂けますか?」

「ええ、はい。勿論です、神代様」

「それではこれより私の事は恒彦とお呼び下さい」


 にこりと、本当に良い笑顔を浮かべた神代様に、私は直ぐ様頷いた。その程度の事であれば別に構わない。


「かしこまりました。それでは恒彦様も、私の事はどうぞ長月とお呼び下さいませ」

「様、ではなくさんで構いませんよ、長月さん」

「はい、恒彦さん」

「ありがとうございます、長月さん」


 嬉しそうに微笑む恒彦さんは、何というか恋する男のようだ。

 実際に恒彦さんにとってはそうなのだろうけれど、私は何とも言えず気まずい空気の中で気恥ずかしげに俯く事しか出来なかった。それすらも愛おしそうに見つめられてしまうのだから、恒彦さんに何の感情も持っていなくとも、鼓動が早くなる。

 端正なお顔立ちの方は、眼差し一つで人の心を変化させる事が出来るのだから、これはもう特技といっても差し支えないのではないだろうか。


 ―――それから、恒さん様の提案でお互いの趣味や好みの本、音楽等の話が和やかに進み、長い沈黙を持つ事無くお話出来たと思う。一応ホスト側の人間なのだから、そういった部分はやはり気を付けておかなくては。

 とはいえ結局私を選んだ理由という部分については、のらりくらりと躱されてしまったので、妙なもやもや感だけが残ってしまっていた。


「長月」


 それから暫くした後、伯母様が部屋に戻ってきた。正直ほっとしたものだ。

 流石に初対面で長く間を埋めろと言われても、それは無理と言うものだ。大体私自身、普段は邸に引き籠っているのだから、社交性があるわけではないのだ。きっとこのまま続けていれば、各所でボロが出ていただろう。


「神代様、折角お越し頂きましたのに長らく中座してしまい、大変申し訳ございません。長月、私が不在の間、神代様にご迷惑などお掛けしてはいなかったかしら?」

「はい、伯母様」

「花菱伯爵夫人、この度は貴重な時間を割いて頂き誠にありがとうございます。お陰様で長月さんと良いお話が出来ました」


 恒彦さんがそう頭を下げると、伯母様は高笑いが聞こえてきそうな満面の笑みで私と恒彦さんを交互に見やった。これは後で詮索されるだろうなあ。


「それは宜しゅうございました。――お二人は、お名前でお呼びになられているのですね」

「ええ、私の我儘を長月さんに聞いて頂きました」

「そうなのですか」

「…ああ、もう時間になってしまいましたね。そろそろお暇させて頂きます」

「まあ、それは残念ですこと。是非夕食をご一緒させて頂きたいと思っていたのですけれど」


 ああ、伯母様ったら。そんなの本当にそんな事になったら卒倒してしまうというのに。

 私自身が当事者だというのに、話が私不在でどんどん進んでいく。でも、それは仕方の無い事なのだ。私はただの娘に過ぎないのだから。


「それは失礼致しました。それではまた次回に、ご一緒させて下さい、花菱伯爵夫人」

「ええ、是非! 長月、神代様をお見送りなさい」

「はい、伯母様」


 伯母様を先頭に私が恒彦さんの半歩前に歩いていく。すると、恒彦さんが私の隣に並んだ。そうすると恒彦さんの背の高さに驚かされてしまう。首が痛く成る程、恒彦さんを見上げると、にこやかな微笑みを返されて、私は愛想笑いを返した。


「ではまた、長月さん」

「はい、お気を付けて、恒彦さん」


 丁寧に会釈する恒彦さんが乗った馬車を見送り、私は二人の間に何があったのか、今か今かと耳と鼻の穴を膨らませて凄みのある笑みを浮かべる伯母様を前に、私は心の底から逃げ出したくなった。


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