一日目その1
一日目:混沌の宴と戦の始まり
朝五時過ぎ、スマートフォンのアラームとホテルのデジタル時計がけたたましく鳴り響き、翼はもそもそとベッドから起き上がる。カーテンを開けるとまだ薄暗い東京の町並みが眼下に広がっていた。
顔を洗って髪をとかして身なりを整えると翼は可愛らしさ、動きやすさ、暖かさを兼ね備えた服装に着替える。
どうせイベントに行くならやっぱり可愛い方がいいよね? 翼はナチュラルメイクして鏡に向かって可愛らしく微笑むと、まだ少し時間があった。
翼はスマホを見てコミケ会場の様子を見ると、前日から既に徹夜組がいてその様子も撮影されていた。
やっぱりどこのイベントにも徹夜組はいるんだね……翼は呆れながらツィッターを見ると、徹夜組に嫌味を込めて書いた。
徹夜組さんが寒さに震えて待ってる間、私はイケメンのお兄さんと一緒にコミケを楽しみまーす!
そして翼はホテルのレストランに向かうためエレベーターを降りると無精髭を剃り、髪型を整えた庄一と合流した。
「おはよう中島さん」
「おはようございます川西さん、髭剃りましたね」
「ああ、職業柄……身なりを気にする暇がなかったからね」
庄一は気まずそうに微笑みながら一緒にレストランに入る、朝のバイキングレストランはパンやヨーグルト、それからフルーツを取るが庄一は翼の倍くらいはあろうかという量のものを取っていた。
「うあ……そんなに……やっぱり職業柄ですか?」
「うん、とにかく体力勝負の仕事だったからね。いただきます」
庄一は手を合わせて食べると、本当に清々しいくらいに全部平らげてしまった。
朝食を食べ終えると、翼は各種装備品が入ったショルダーバッグに戦利品を入れえる丈夫な布袋を持って出撃! いよいよコミケデビューだと気合を入れながら部屋を出て、フロントで庄一と合流する。
「それじゃあ忘れ物はない?」
「はい!」
「お金は大丈夫?」
「はい、チェーンに繋いで財布は別にしてます!」
「防寒対策は?」
「えっと両脇と足の裏にカイロ貼ってます」
「よし、それじゃあ行こう!」
庄一はまるでこれから出撃する百戦錬磨の兵隊さんのように精悍な笑みで肯くと、ホテルを出てJR品川駅から京浜東北線に乗って大井町駅で降りる。改札口を出る前後から人口密度が上がってきた。
「あの川西さん、この人たちまさかみんな……」
「うん、みんなコミケに行く人たちだよ」
庄一は涼しい顔で微笑みながら肯き、長いエスカレーターを降りるとみんな足早に地下五階の二番線ホームに急いでる。
「はやる気持ちを抑えて、中島さんこっちだ」
「えっ? どこまで行くんですか?」
「電車の進行方向から見て前方の方だよ。あんまり教えたくないけど、そっちは比較的少ない」
庄一の言う通りだった。真ん中よりはマシだが、それでもかなり並んでる。すると電車が入ってくるが、地元を走ってるJRの豊肥本線や鹿児島本線の通勤通学ラッシュが空いてると感じるくらいの乗車率だった。
電車が止まると人々は一斉に素早く乗り込んで座席に座ろうとする。翼もなんとか乗リ込むと、車両前方と真ん中のドアの間まで押し込まれてようやく発車する。国際展示場駅までの所要時間は約一五分、その間ずっとこの体勢はキツイ。
品川シーサイド、天王洲アイル、東京テレポートを通過するごとにギュウギュウに押し込まれ、庄一の分厚い金属板のような胸板に寄りかかるような体勢になり、頬を赤らめる。
「はわわわ……」
「もう少し、次で降りるから頑張って」
庄一は慣れてるようで落ち着いた口調だ。
「は……はい」
翼はしおらしく俯いて肯くと、落ち着いた女性声での車内放送が流れる。
『次は、国際展示場、国際展示場。お出口は右側です――』
庄一は微かに緊張した表情で言う。
「いよいよだよ……僕から離れず人の流れに身を委ねるんだ、いいね?」
「はい」
いよいよだと翼は気合を入れる。電車が止まると乗る時のようにみんな我先にと電車を降り、庄一から離れないようにくっついて階段を登る。改札口まで上がると静かだった昨日の夜とはうって変わって、どこも人で埋め尽くされていた。
「凄い、こんなに来てるんだ!」
「まだまだ始まってないぞ、さあ東館待機列に行こう!」
「はい!」
翼は瞳を輝かせながら見回す。西館側待機列を見るとネットで見た光景そのまま、いやそれ以上だと思いながら歩く、この先きっと沢山の楽しいことが待ってると翼は心を躍らせていた。
寒い! 眠い! 辛い! もう帰りたい!! 直人は折り畳み椅子に座り、西館待機列であるホテルサンルート有明付近で座っていた。鼻水が凍りそうなほどの寒さに震え、ここに連れてきた一成に殺意が芽生えそうだった。
朝四時半に起きて朝飯を食べ、新木場行きの始発電車に乗り、大崎や大井町まで人が大幅に増えてギュウギュウに四方八方から潰されそうだった。
おまけに国際展示場に到着した途端、一斉に電車を駆け降りて駅員さんやコミケスタッフさんが必死に「走らないで下さい!」って叫んでるのに猛ダッシュしやがる。
一成、お前早歩きだがいいが、ダッシュしてたらそのまま見捨てるところだったぞ! 直人はガチガチに震えてると一成が戻ってきた。
「一成、お前は平気なのか?」
「そりゃあ死ぬほど寒いさ、でもよカイロを両脇、両鼠蹊部、両足の裏に貼ってあるからな!」
こいつぶち殺す! 直人は殺意が芽生えたが体が動かないくらい寒い。一成は隣に座ると、かっこつけたナルシストのように悲しげな表情になる。
「でもよ、オイラは体より心が寒いぜ」
「昨日のツバサちゃんのことだろ?」
直人は仕返しとして傷口を抉るようなことを言ってやろうと企む。
「ああ……昨日、品川でラーメン食った後ビッグサイトまで下見したらしい」
「へぇ……いい雰囲気だったんじゃない?」
「ああ、しかもツィッターに妄想をつらつらつらつらと書いてやがる!」
「へぇ例えばどんな?」
直人はニヤニヤしながらわざと煽るような口調で訊くと、一成は憎しみを込めてるのか今時の女の子風の演技しながら読み上げる。
「今日熊本空港で出会った男の人は凄くイケメン! 危ない勧誘から助けてくれたし、凄く親切でコミケ前の下見に行った時はとってもロマンチックだったわ! とか、最終日の夜はきっと熱い夜にしちゃうかも、キャーいよいよロストバージン!? とか、徹夜組さんが寒さに震えて待ってる間に私はイケメンのお兄さんと一緒にコミケを楽しみまーすとかよぉっ! 俺があんだけコミケのイロハを親切に教えたのに! そんなにイケメンがいいのかぁっ!?」
ざまあみろと直人は必死で笑いを堪える、やっぱこいつ憎めねぇや!
一成はタブレットを握力で握り潰すんじゃないかと思うくらい顔面にいくつもの怒り皺が出る、面白いから放って置こう。
その頃、翼もこれまで経験したことのない、痛いほど寒い潮風にガチガチと震え、折り畳み椅子がなかったら、お尻から体温が逃げて凍え死んでたと本気で思うほどだった。
「さ、さ、さ、さ、さ、さ寒い!! 川西さんここ寒くないですか!?」
「ああ、だってすぐ目の前が東京湾だからね。それと列が確定したらトイレを済ませておいた方がいい」
「は、はい!」
翼はスタッフの注意を聞くと椅子だけを置いて立ち上がり、翼はトイレに並ぶが気が遠くなりそうだった。女子トイレの列が滅茶苦茶長い、どこまで続いてるんだろう?
幸い尿意が来たのは並んでしばらくした後、庄一さんの言う通りにしてよかったと思いながら戻ると、庄一はミネラルウォーターを少量口にしてタブレットにイヤホンを挿していた。
「おかえりなさい、まだ時間あるから暇つぶしに良さそうなものを持ってきたよ」
「えっ? 何を持ってきたんですか?」
「ああ、ドキュメンタリーだ」
庄一は肯き、翼は寒さに震えながら折り畳み椅子に座る。えっ? ちょっと待って、これって……これって! 翼は期待と不安が入り混じると庄一は片方を耳につける。
「はい、中島さんはこっちの方ね」
イヤホン半分こおおおぉぉぉーっ!!
翼は顔を赤熱させながらイヤホンを耳に挿す。
やだやだイケメンで性格も良くて昨日会ったばかりの人なのに、これじゃ体が熱くなって……蕩けちゃうよぉおおおーっ!!
嬉しさ半分、恥かしさ半分の翼は内心浮かれながらタブレットを見ると、美しい雪山が映し出されていた。
『青森県の南にそびえ立つ火山群、八甲田山。明治三五年一月、旧日本陸軍は来るべき日露戦争に備え山口少佐率いる青森歩兵第五連隊と、福島大尉率いる弘前歩兵第三一連隊は冬の八甲田山雪中行軍が行われました』
これってまさか……翼は嫌な予感がした。BGMはミリオタ兼アニオタの兄が好んでよく歌ってる軍歌「雪の進軍」だった。
『これは後に、八甲田山雪中行軍遭難事故と呼ばれる史上最大の山岳遭難事故の始まりでした』
翼は持ってきたカタログを掴み、庄一の頭にブッ叩いた。
「あいたっ!!」
「なに見せてるんですか!! 馬鹿じゃないの!?」
「それじゃあ、これなんてどうだ? スターリングラード攻防戦!」
「駄目です!」
「じゃあ、冬戦争!!」
「どれもこれも凍え死にそうなお話しばっかりじゃないですか!!」
「はははははははは!! 急にしおらしくなったから、怖気づいたかと思ってね」
「怖気づいてません!!」
「あっはははははははは!! なら安心したよ」
翼は頬を膨らませて断言すると庄一は朗らかに笑う。翼は恥かしさのあまりにしかめっ面になってるのを感じた。ああ、駄目よ駄目よ庄一さんにこんな顔しちゃ!
「それじゃあ冗談はこれくらいにして、これなんてどうだ?」
「えっ? これって、さっきの国際展示場駅ですよね?」
「ああ、僕たちが来る前に撮影されたものさ」
庄一の言う通り、まだ暗い時間帯に撮影されたものだ。ざわついた改札口に駅員さんが立っていて、よく見ると画面の端にもスマホやカメラを構えた数人見えた。なんだろう? この静けさ? 一分程してそれがすぐにわかった。
ホームから登ってきた人たちが物凄い数と物凄いスピードで走り、スタッフや駅員の制止を潜り抜けて改札を通り抜けていってあっという間に改札口は騒がしくなる。
『はい走らないで下さい!! 危険ですので走らないで下さい!!』『はははっははスゲェみんな速い速い!』『走らないでえぇぇぇーッ!!』『駅構内は走ると危険ですので走らないで下さい!!』
翼は開いた口が塞がらなかった。まるで毎年一月一〇日前後、兵庫県西宮市の西宮神社で開催される福男選びみたいだった。
「なんか……言葉が出ませんね」
「これが毎年夏と冬に起きてると日本はつくづく平和だと思う」
庄一も苦笑しながら言った。
開場時刻が近づき、翼はドキドキしながら今か今かと開場時間を待つ。密集してある程度寒さは和らいだが、それ以上に開場が待ち遠しい。そして遠くから拍手が聞えると、あっという間に伝染して翼は高揚しながら手を叩いた。
「始まった! 始まりましたよ川西さん!」
「ああ、まだ動かないが慌てるな……お目当ての物を手に入れるのが目的だが、それ以上にルールとマナーを守って楽しむことを考えよう」
庄一も清々しく、凛々しく、爽やかな表情で拍手しながら言うと翼は思わず意識してるのに気が付く。やがて歩き始め、東7ホールを通過すると最初のお目当ては東1ホールにあった。
東1・2・3ホールに入ると高濃度の人口密度と東ホールの広さに翼は瞳を輝かせ、周囲を見回しながら歩く。
「凄い! これみんなサークルさんなんだ」
「ああ、もうなんでもありさ! 中島さん、最初のサークルは?」
「えっと、あっちの方です!」
翼の指差す先には所謂壁サークルと呼ばれるスペースだ、早く完売することが多いため優先目標にしていた。すると庄一はそのスペースを見据えながら翼の前に出る。
「中島さん、僕に付いてきて絶対に離れないように」
「あっ、はい」
翼が肯くと庄一は右斜め前に出て歩く、すると真っ直ぐには向かわず。あれ? どこ行くんだろう? どうして遠回りするんだろう? そう思いながら目標のサークルに到着し、最後尾に並んだところで訊いた。
「あの、川西さん……どうして遠回りする道にしたんですか? 急がば回れって言いますけど」
「いい質問だね、コミケでは時間帯やジャンルにもよるが比較的人口密度が薄いスペースがある。そこを通れば比較的容易に通れるルートがあるんだ」
「つまり混んでる近道より、空いてる回り道ですね」
「その通りだが見極めるのがとても難しい。こればかりは経験していかないと」
通い慣れてる経験者ならでは言葉だ、最初のサークルの同人誌をゲットするとここからは別行動だ。
「よし、ここから一度解散しよう。一三時頃にタリーズコーヒーで」
「はい! お気をつけて!」
翼は肯くと庄一は東ホール内の人混みをするすると僅かな隙間から通り抜けて行き、やがて消えて行った。慣れてるんだ、翼は感心しながら見送った後ようやく気付いた。
ああやっぱり、私……庄一さんのこと好きになったんだ。
翼は恋をしてるという心地良い胸のドキドキにしばらく浸り、長蛇の列を形成してる次のサークルに並んだ。
「すいません、今ので完売しました」
サークルの人は申し訳なさそうに言って、翼は呆然と立ち尽くしていた。
「ふぅええええー!?」
やってしまった、ドキドキに浸ってる場合じゃなかったぁあああっ! もう、私の馬鹿馬鹿! 翼は次のサークルへと向かっている時だった。
「おわっ! 弾薬がああぁぁぁーっ!!」
お誕生日席のサークル付近で男の人が弾薬――五〇〇円や一〇〇円硬貨を一〇~二〇枚を床にばら撒いてしまった。そのうちの三枚が翼の足下に転がってくる。
「大変!」
翼は瞬時にしゃがんで転がってきた硬貨を三枚拾って立ち上がると、五・六人の人が既に拾った硬貨を渡していた。しかも五~六枚ずつでどうやら翼が最後らしく、素早さに驚きながら手渡す。
「あの、落し物です」
「いやぁありがとうございます! 助かりました」
「どういたしまして、失礼します」
「よい一日を! お嬢さん!」
男の人は上機嫌で手を振って見送ってくれた。しばらくすると暑くなり始めてるのを感じ、翼はコートを開いて首に巻いたマフラーを緩めた。