最終日その3
元日の朝、庄一はいつものように髭を剃って髪を整える。今日が日本を去る日だ、今生の別れになるかもしれないのにいつもと変わらない朝だ。
部屋を出てエレベーターに乗ると、翼の姿はなかった。
二日目の時は同じタイミングでエレベーターに乗っていたんだっけ? 昨日や一昨日、翼と会った日のことがあまりにも遠い。
そう思いながらレストラン前に来ると翼の姿はなかった、少し待って辺りを見回してみたが翼の姿は無い。
そうだ……それでいい、もう僕に構わず一人で帰るんだ。庄一は翼がここにいることを期待してる自分がいて、そして彼女がいないことに落胆する自分に情けなさに嫌悪して拳を握り締める。
もう待つ必要はない、行こうと目を伏せた時だった。
「おはようございます、庄一さん」
この声は幻聴なのか? 俯いた顔を上げるといつの間にそこにいたんだろう? 無邪気で満面な笑顔の翼がそこにいて幻なのかと目を擦ると、幻ではない。
「どうしたんですか庄一さん、早く朝御飯食べましょう!」
幻なんかじゃない! まるで魔法のように僕の前に現れた。
庄一は感極まって口元を右手で押さえる、嬉しさのあまりに込み上げてくるが堪えないといけない。
何故なら、どんなに苦しくてもこの子の前では笑顔でいないといけない。
そんな気がしてきたのだ。
「もう庄一さん女の子みたいですよ、早く食べましょう!」
「あ、ああ……そうしよう」
庄一は笑顔で肯いてレストランに入って昨日と変わらず楽しく話しながら食べる、最後の日は翼とデートすることに決めた。だけどどこに行こう? そう思ってた時、翼はいい場所を提案してくれた、そこは既に行ったことのある場所だった。
お昼になって直人は一人成田空港の第二ターミナルで出国手続きを終え、搭乗口でヘルシンキ行きの飛行機の搭乗を待っていた。玲子と一成は既に第三ターミナルでスターライト・ジャパンに乗って熊本行きの飛行機に乗って熊本に帰った。
今頃もう家に到着してるだろう、そう思ってると一成からLINEのメッセージが届いた。
『直人、もうすぐ飛行機に乗るんだっけ? こっちはもう実家に着いたぜ!』
『おじさんやおばさんは元気にしてる?』
『勿論相変わらずだよ、親戚の子たちも来ていて大変だ。直人の親父さんやお袋さんの顔見せにも行ったけど元気にしてたよ! お前が帰ってこなくて心配してた』
『そうか、すまないな。今度ミカエルとエミリアを連れて帰ってくるつもりだ』
直人は二週間ほどフィンランドに滞在したら熊本に帰る予定だ、冬の湖水地方の情景を思い浮かべながらもあの楽しかった三日間を振り返る。
まあなんだかんだ言って楽しかったな、必ず……またあそこに帰って来よう。
そう思っていた時、また一成からメッセージが来る。
『伝えておくよ、それと直人一つ相談がある……母ちゃんにド突かれた』
『何をしたんだ?』
『せっかく帰ってきてやったのによ、お年玉くれねぇんだよ! あのババア、親戚の子たちには気前良く上げたのに!』
それで直人はズッコケそうになってツッコミを入れる。
『テメェいくつまで貰う気だよ! 年齢的に本来お前あげる側だろうが!』
『キッズどもやるくらいならエロゲー買うわ!』
『お前のほうがキッズだ! それじゃあ俺もそろそろ飛行機に乗るから、ヘルシンキに着いたら連絡する!』
直人は一成の精神年齢の低さに呆れながらも、彼には感謝の気持ちを抱いていた。いつの間にかコミケの虜になっていて夏を楽しみにしている自分がいる。
『ご案内申し上げます。ただ今よりスオミエアー四二五便、成田発ヘルシンキ行きのお客様を機内へのご案内を開始いたします』
さて行くか、直人は立ち上がってエアバスA340の機内へ続くボーディングブリッジへと歩く、ふと前にいたフィンランド人カップルが「コミケ」という言葉を発し、直人は自然と口元が緩む。
そのカップルはフィンランド語でまた必ず行こうと、直人には辛うじて聞き取れたがそれだけで十分だった。夏になったら必ずあの場所に帰って来よう、いつか来るミカエルのために。
デート場所は羽田空港だった、空港はただ飛行機を乗り降りする場所ではない。翼はそれをアニメ「くうこうぐらし!」で知った。五日間お世話になったホテルをチェックアウトしたら、敢えて山手線に乗って浜松町駅まで行くと東京モノレールに乗り換える。
途中天王洲アイル駅を通過する時、庄一の分厚い金属板のような胸板に身を委ねていたことを思い出す、夏になったらまら庄一さんとくっつきたいな。
「どうしたんだい? 中島さん、そんなに微笑んで」
「決まってるじゃないですか、庄一さんとまた夏も行きたいって」
「そうか……行けると、いいな」
庄一の微笑みは昨日より少し前を向き始めたような感じだった、羽田空港に近づくと所々に駐機してる旅客機が見えて翼は外の風景を眺める。
大半はFEAやSALのようなレガシーキャリアと熊本にも就航してるスターライト・ジャパンのようなLCCの間に位置する新規参入航空会社の国内便がいて、それに紛れ込むかのように海外の航空会社の飛行機がいる。
最初に降りた場所は国内線第一ターミナルでそこでお店を見て回りながら、滑走路が見えるレストランでランチを食べながら眺めて時折着陸してくる珍しいカラーリングの旅客機を撮影する。
「熊本では見られないだろう? 熊本に来るのは確か台湾や韓国、香港からの飛行機だからね」
「庄一さんはいろんな国に行ったんですよね?」
「ああ、特殊部隊の極秘任務だから言えないが……プライベートでならシンガポールやバンコク、香港にも行った」
「あっ、あたしのお祖母ちゃん香港に行ったことがあります。それもイギリスから中国に返還される前に」
「おおっ! 凄いな、やっぱり着陸時はスリリングだったんじゃないか?」
「ええ、お祖母ちゃんジェットコースターみたいで最高だったって!」
「香港カーブだな、昔ビクトリアハーバーに面した所に啓徳空港があったんだ。昔の香港の記録映像にビル郡スレスレを飛ぶ飛行機の動画、ニコニコやYou Tubeで探せばあると思うよ」
「それ『ゆめみ☆テイクオフ!』でもやりました! いちはちゃんが主役の第五話で、逃げる星のかけらを捕まえるために香港の摩天楼をスレスレで旋回しながら空港跡地に降りて捕まえるって話しでした!」
翼はそのシーンを思い出しながら話す、公式ツィッターでも元ネタが香港カーブだと言う。啓徳空港は一九九八年七月五日に閉港するまで世界一着陸が難しい空港として世界中の航空ファンに親しまれ、パイロットたちからは恐れられて有名だったという。
ランチを食べ終えると、翼は庄一と第一ターミナル展望デッキでSALの旅客機を撮ると国際線ターミナルに行き、五階にあるおもちゃ屋さんでスロットカーサーキットで遊んだり、プラネタリウムカフェでスイーツやコーヒーを飲みながら投影を楽しんだ。
それでも神様はいじわるだった。楽しい時間はあっという間に過ぎて翼が乗るFEAの第二ターミナルの展望デッキで、少し早いディナーのイタリアンを食べるとあっという間に日が沈んで辺りは暗くなった。
第二ターミナルの展望デッキは暗くなると約四〇〇〇個のLEDが埋め込まれ、星屑のステージと呼ばれている。
まるで星屑の絨毯の上を翼は両腕を広げてくるりとダンサーのように何度も回る、それはまるで自分があの魔法少女たちの一人になって星空を飛び回ってるかのような気分だった。
「そんなに回ると転けるぞ」
「大丈夫ですよ庄一さ――ふぁっ!」
翼はバランスを崩して倒れそうになった瞬間、庄一が翼の背中を受け止めて微笑む。
「ほら言わんこっちゃない……本当に君は危なっかしいな」
「あ……ありがとうございます」
翼は頬を赤らめ、俯く。
翼の乗る飛行機が一八時五五分羽田発熊本行きで、既に荷物は預けてあとは保安検査場を通るだけだ。
「そろそろ行った方がいい……名残惜しいけど」
庄一の言う通り、スマホの時計を見ると一八時一五分でそろそろ保安検査場に行った方がいい時間だ。羽田空港は恐ろしく広い、搭乗口に行くだけでも相当な時間がかかる。
だけど、翼にはまだ庄一にしてもらいたいことが残っていた。
「庄一さん……最後にお願いしていいですか?」
「……どんなお願い?」
返事の代わりに翼は庄一の大きな体に抱きついた、ワシミミズクのような庄一の体は本当に温かい。ずっとこうしていたい!! 庄一さんと一緒にどこまでも行きたい、だけどそんなことできないから。
「あたしのこと……名前で呼んでください……翼って」
それが望みだった、庄一は優しく羽で包むかのように翼を愛でるかのように優しく抱き締める。
「翼……本当にありがとう、また君と来れたらどんなに素晴らしいかと思ってるよ」
「それなら、約束して下さい庄一さん! また一緒にコミケに行きましょう! そして帰ってきたら……あたしの恋人になって下さい!」
「うん……約束しよう、必ず……また会おう」
庄一の言葉には微かな覇気があった、翼はそれだけで希望を感じて約束を交わした。
「はい、必ず一緒に……あそこに行きましょう!」
「ああ、必ずだ」
今の翼にはそれだけで十分だった。展望デッキを降りて、二階出発ロビーの保安検査場まで来るといよいよここでお別れだ。翼は込み上げてくるものを必死で抑えながらも、精一杯の明るい笑顔で見送ってもらうつもりだった。
「庄一さん、また……夏にお会いしましょう!」
「ああ、たまに連絡するよ」
「楽しみにしてます! そうだ! あのこれ!」
翼は鞄からジュエリーケースを取り出す。コミケ二日目にFEAのブースで買ったタンチョウヅルのペンダントだ、最終回で二人のみつぎとの別れ際に再会の約束の証として渡したものだ。
「これは……二日目に買った」
庄一はケースを開けて中のペンダントを見つめ、翼と目を合わせる。
「庄一さんが持っていて下さい」
「いいのかい?」
「だってこれ、ゆめみちゃんとみつぎ君とまた会う約束の証なんです! それじゃあまた、夏にお会いしましょう!」
「ああ、また夏に!」
庄一の笑顔はまさに旅立つ恋人を見送る温かい眼差しと、柔らかい口調だった。
保安検査場を通ると翼はもう堪えられなかった、嗚咽を押さえながら溢れ出る涙に必死で拭いながら搭乗口を確認するとバス出発ラウンジからだった。
翼は腫れぼったい顔になりながら、バスに乗ると沖止め(ターミナルビルから離れたところに駐機する)スポットでタラップ車から乗るようだ。
バスを降りると巨大なボーイング787の巨体が聳え立っていた。
中型機とはいえエプロンから見上げるとそれはまるで巨大な空飛ぶ鋼鉄の怪獣のようで翼にはまるでゆめみが迎えに来て、ロールスロイス・トレント1000の唸りがこう言ってるかのようも聞えた。
「さあ、一緒に帰ろう」
翼は涙を拭って微笑んだ。
「うん、帰ろうかゆめみちゃん」
翼は肯いてタラップ車に乗って787の機内へと入った。
ここはこんなに寒かったのか? 庄一は冬の寒空が吹き荒れる展望デッキで一人立っていた。これでよかったのか? 果たせるかもわからない約束を交わして、死地に赴くのは死に近づいてるんじゃないのか?
庄一は翼と抱き合った時の温もりがまだ残ってるような気がしたが、いずれ冷たい冬の風にさらわれてしまいそうだと思って展望デッキを後にする。心の中にぽっかり大きな穴が空いたような気がする。
五・五六ミリ弾や七・六二ミリ弾どころか一二・七ミリ弾で風穴を開けられたような気がして改めて気がつく。
僕は……あの子を心の拠り所にしていたんだと自嘲気味に微笑んだが、同時に悪くないと翼がくれたジュエリーケースを見つめて思いながら、踵を反して第二ターミナルを後にする。
また『ゆめみ☆テイクオフ!』見よう。
そういえば機内エンターテイメントで『ゆめみ☆テイクオフ!』見られるかな? 数年前にアブダビの航空会社がアイドルアニメの劇場版をやってたくらいだし……しかしあの時は引いたな、ドバイの航空会社の影に隠れてるからと言って……機内Wi-Fi……やめておこう。
空の上にいる時くらいスマホから離れないと、ケープタウンに着いてからでも遅くないしとにかく夏が楽しみだ。そうだ、コミケのついでにどこかに連れて行ってあげよう? どこがいいかな?
庄一は今から夏を楽しみにしていて、久し振りに前向いて歩いてるような気がした。
翼を乗せた787は二一時頃、熊本空港に無事着陸すると預けていたお土産と手荷物を受け取る。コミケの戦利品はホテルにある宅配会社に頼んで送ってもらったから、もう少しの辛抱だ。
「翼! おかえり! あと新年明けましておめでとう!」
「翼ちゃん! 明けましておめでとう、コミケどうだった?」
到着ロビーに出ると立川英美と川崎香澄が待っていた。
「英美ちゃん! 香澄ちゃん! 明けましておめでとう、今年もよろしくね!」
立川英美は小学生の頃からの親友で、翼より背が高くお節介だが紺色のショートカットで凛々しいボーイッシュでかっこいい華奢な女の子だ。現に私服もジーンズにジャケットと美少年ぽくて女子高の王子様と呼ばれるほどだった。
川崎香澄は対照的に一番背が高くて胸も大きい、背中まで長い黒髪に優しくてお淑やかさとお転婆さを併せ持った性格だが、大柄で背が高いことを密かに気にしている。高校ではその大きさとスタイルから「ジャンボジェット」と呼ばれたがあり、最近では開き直ってるのかよくハイヒールを履いている。
英美は詰め寄って到着ロビーを見回しながら訊く。
「翼! コミケで出会ったあの男は!? どこにいるの!?」
「しょ、庄一さんのこと?」
翼は思わず口に出してしまうと、色恋沙汰が大好きな香澄は聞き逃さず瞳を輝かせた。
「まあ、もう名前で呼び合う仲になったのね! 彼氏になったの?」
「ああ、えっと……また夏に会う約束をしたの、その時に恋人になって下さいって」
翼はモジモジしながら正直に言うと英美はショックを受けたのかその場で固まった。
「そ、そんな……翼に男だなんて、わ……私は認めない! 香澄、私たちも夏コミに行くわよ!」
「まあそれいいわね、翼ちゃんと庄一さんのお部屋に隠しカメラも設置しましょう!」
「そ、それはさすがにマズイでしょ!」
香澄は夏コミ参加には賛成するが、盗撮にはさすがに困惑する英美だった。
新しい一年が始める、そして八月にはまた新しい仲間を連れてにあの場所に帰るんだ。
コミックマーケットへ帰還せよ! なんてね。