最終日その2
ここのマンションのベランダからは毎年カウントダウンで新年を迎えると、打ち上げ花火が見えるという。
それを聞いた玲子はまだ時間があるのに、ぼやきながらその時を待っていた。
「これで彼氏と一緒だったらどんなに素晴らしいことだろうな」
「そう気を落とすな、一人よりはマシだ。俺だってヘルシンキにいる息子……ミカエルと一緒に花火を見たかったな」
「あんたの子ども? 日本で育てる気はないの?」
「若者や子どもに優しくないこの国で育てるのは正気の沙汰じゃない……ハーフだ。この国で育てれば排他的な人間が圧倒的に強いし、強い者は弱い者を優先的にいじめる……それならフィンランドの方がいい」
直人はそう言って一成の所へ踵を反す。
一成は若いライコネン副操縦士やマカライネン機長と楽しそうに話してる、すると一成はソファーに腰掛けて腕を広げて足を組み、横柄で偉そうな態度で言う。
「ああ今年も終わり、今年はチャンスが無かったから来年から本気出すわ」
「お前、それ去年も言ってただろ?」
直人が指摘すると、一成は全身から汗がジワジワと滲み出て何も言わない。
「俺はちゃんと覚えてるぞ! ほらちゃんと動画にも撮ってたぜ」
直人は一成だけじゃなくみんなにも見せる、因みに撮ったのは一成のアパートだ。
『ああ今年も終わり、今年はチャンスが無かったから……来年から本気出すわ!』
「ミスターサクマ、これって日本のジョークか?」
ライコネン副操縦士が訊くと直人は少し考えて答える。
「う~んどっちかというと年末にいるベタな奴かな? 年末に大層な目標を言ってると来年も同じことを言ってる」
「ああいるよね、そんなこと言って来年も同じこと言う人」
玲子は呑気に笑いながら言うが、直人はあんたも人のこと言えねぇだろ! と内心ツッコミを入れると一成が口に出してしまう。
「だよね、クリスマスとかで来年こそは彼氏と一緒とかSNSで上げて次の年も同じことを言う行き遅れの人とかさ! はははははっはははっ!!」
「あははははははははっ誰が行き遅れじゃあああっ!! あんたに言われたくないわ!!」
玲子は釣られて笑ったかと思った次の瞬間には怒って一成に襲い掛かると、一成は弾むように立ち上がって逃げ出す、追いかけっこになるがすぐに捕まってヘッドロックをかけられる。
「皆さん、年越し蕎麦できましたよ」
日本人CAの永谷さんがお盆に載せて運んでくる、エミリアと一緒に作った年越し蕎麦だ。きっと美味いに違いないと直人はみんなでお喋りしながら年越し蕎麦を食べると、もうすぐ新年だった。
品川プリンスホテルには水族館や映画館、ボウリング場もある。
水族館のアクアパーク品川ではソウルオリンピックやバルセロナオリンピックに出場した元女子シンクロ選手率いるチームの幻想的なパフォーマンスの後、いよいよカウントダウンが始まる。
『さあ皆さん! 去り行く年に別れを告げ……ご一緒に新しい気持ちで新年を迎えましょう!』
司会のDJが扇動し、観客も一緒に秒読みを開始する。
「一〇・九・八・七――」
翼はこの一年間を思い返す、卒業と同時に高校の友達と離れ離れになったこと『ゆめみ☆テイクオフ!』に出会い、忘れていた魔法少女の夢を思い出し元気付けられたこと。
そしてコミケに行く決意をして庄一に出会ったこと。
翼は庄一と見つめあいながら語気を強くする。
「六! 五! 四! 三! 二! 一!」
年が変わる瞬間、翼の過ごした最後の三日間が一瞬で走馬灯のよう流れた。
「Happy New Year! 明けましておめでとうござます庄一さん!」
「Meilleurs Vœux Je vous souhaite une bonne et heureuse année.(あけましておめでとう、よい一年になりますように)」
「ふぇっ!? な、なんて言ったんですか!?」
「君によって素晴らしい一年になるようにってフランス語で言ったんだよ」
庄一の微笑みはまさしく翼にとって王子様だ、さすがに絵本に出てくる白馬の王子様のは程遠いが。だけどその微笑みは同時に悲しさと寂しさが入り混じっていた。
カウントダウンイベントが終わると、翼は水族館の水槽を眺めながら手を繋いで歩くが庄一の表情は晴れやかではなかった。
「……中島さん、僕は君に会えて本当によかった……」
「あたしもですよ庄一さん、楽しかったです。本当にありがとうございました!」
翼は庄一に感謝しても感謝しきれないくらいだった、それでも庄一の寂しさと悲しさが入り混じった微笑みは消えない。
「礼を言うのは僕の方だよ……中島さん、僕は……夜が明けて元日の深夜に南アフリカへ行く……生きて日本に帰れる保障はどこにもない……だから、今からでも僕のことはもう忘れて」
重苦しく震えた口調だった。まるで誰かに、銃を突きつけられて無理矢理言わされてるみたいだと、どん臭い翼でもわかる。だから翼は微笑みながら首を横に振った。
「そんなのできるない、できるわけないよ庄一さん……だって庄一さんのことを忘れるのは、この旅そのものをなかったことにするようなことですよ」
「でも……今度の仕事で僕は帰って来れるかわからない、長く待った末に悲しい結末が待ってるかもしれないんだ」
庄一は精神的に苦痛を与えられながら言ってるようで、とても辛そうだった。
だけどそれを見ている翼はもっと辛かった、できるんなら代わってあげたいと思ってしまうくらいだった。
「でも……もし庄一さんが死んだら、家族や――」
「もう家族なんていない!!」
大声で庄一に怒鳴り散らされ、翼は怯えたハムスターのようにビクッとして萎縮する。周囲の人々の視線が集中するが、次の瞬間には青褪めた表情になって庄一は人目を憚らず激しく動揺しながら謝る。
「ああ……すまない……ごめんよ……怖がらせてしまった、なんてことを僕は! 僕は……」
「いいんです、でも庄一さんが死んだら絶対に悲しみますよ、お友達とか」
「仲のいい友達の大半以上はもうあの世にいる……だから死んでも寂しくないよ」
庄一はまるで死期が近いことを悟ってるかのような冷たい微笑みだった、翼にはそれが理解できなかった。
「そんな悲しいこと言わないで!!」
思わず声を荒げてしまい、また周りの人の視線が集中する。それでも構わない、目から熱いものがこみ上げてきてそれが涙となっても翼は心を捻じ曲げなかった。
「それでも……あたしは庄一さんの帰りを待ちます! だって怖くて、辛くて、悲しい思いをした末やっと……やっと生きて帰って来れたのに……誰もおかえりなさいって言ってくれる人がいないんなんて……そんなの、そんなの……悲しすぎるよ!」
翼は嗚咽を漏らす、庄一の表情は優しさと辛さが入り混じったようなものだった。
「わかってる、でも……僕と一緒になったら人並み以上の苦労するのは目に見えてる」
「それでも……あたしは庄一さんのことが好きだから!」
翼は思いをストレートにぶつける、どんな試練だって乗り越えてやる。ゆめみちゃんたちがそれぞれの心の傷やトラウマ、悩み、葛藤と向き合い、みんなで乗り越えたかのように。
「それなら……一つ、君のことを試していい?」
「どんなことです!? あたしのことを忘れるとか、なしですよ!!」
「明日の朝八時、いつものようにレストラン前で待ってる……それまでよく考えるんだ、君の将来までも見据えてだ……もし無理だと思ったら、来なくていいし……別のレストランで朝食を食べてるか、僕のことは目に暮れず……一人で食べて、一人でチェックアウトして、熊本に帰るんだ」
「わかりました、明日の八時ですね」
翼は涙を拭って肯いた、答えはもう決めていて翼は迷わなかった。だって、もしかするとこれが最初で最後の恋なのかもしれない。庄一さんのように不器用だけど、お人好しで真っ直ぐで優しい人には二度と会えないのかもしれない。
それからエレベーターに乗るまで終始無言だった。もしかすると、これが最後の会話になるかもしれないのにと翼は歯がゆさを感じてると庄一は思い、口を開く。
「いい? ちゃんと考えるんだ、君の将来や周りの人たちのことも……冷静になってよく考えるんだよ」
「はい、庄一さんの言う通り……ちゃんと考えます」
翼はそう言って振り向くことなくエレベーターを降りると、まるで翼から逃げるように扉はすぐ閉まってしばらくの間立ち尽くす。
冷静に考えれば考えるほど翼の心は揺れ動く、この人と手を繋いだり、キスを交わしたり、抱かれたりしていいのだろうか? いつ死ぬかわからない仕事、だけどやめられない別世界の人間と結ばれていいのだろうか?
部屋に戻った庄一はベッドに腰掛けて我ながら馬鹿なことをしてしまったと深く悔やむ。あの子は僕にとって心を交わしてはいけなかった、だけど危っかしくて、世間知らずで、放っておけない、そんな子だった。
でももう今日で終わりだ、部屋に落ち着いたらきっと冷静に考える時間ができてこの人と付き合うには荷が重過ぎると痛感するだろう、命を奪った人間の数は数えてないがきっと三桁に達するに違いない。
そんな人が恋人だなんて人間関係も一気に悪い方向に変わるし、家族や友人からも後ろ指差されるかもしれない。あの子にはまだ将来があるし、する必要の無い苦労をすることになる、だからあの子は僕のことを忘れるべきなんだ。
「楽しかったな……コミケ……」
また……夏もあの子と行きたい。
それで庄一はまた翼と一緒に行きたいと願う自分がいる。
今年の冬コミは今まで参加してきて一番大変だったけど一番楽しかった。もっとあの子の笑顔がもっと見たい、もっとあの子と心を通わせたい、もっとあの子と近づきたい、あんなに純粋な天使――いや違う、なんと例えればいいんだろう?
でももう彼女と言葉を交わすことはない、せめて……さようならと言うべきだった。それで小学生の時を思い出す、さようならも言えずに行ってしまったあの子もそうだったのかと。
でももし、さようならなんて言ったらあの子はなんて顔をするんだろう? 庄一は明日に備えてすぐにでも横になろうと着替えてシャワーだけ浴びると、子どもの頃一番楽しかった夢を見ながら眠った。