プロローグ
プロローグ
うんざりするほど蝉が鳴き、死ぬほど暑い八月半ばの日、中島翼はカーテンを閉め切った薄暗い部屋のベッドの上で寝転がりながらスマートフォンの画面を虚ろな眼差しで見ていた。
すっかり視力の落ちた目にピンクのナイロール眼鏡をかけて補い、ツィッターやSNSを見ると現地の様子を写した画像が溢れんばかりにネットの世界に拡散していた。
「やっぱり……行けばよかった」
セミロングの丸く滑らかな黒髪と童顔で大きな瞳、ジャンガリアンハムスターのように愛らしく幼い少女の面影を色濃く残し、身長は一五六センチくらいまで伸びていて胸も少し大きいかなというくらいにまで膨らんでいた。
中学時代は先輩や同級生の男子に声をかけられたこともあるほどの可愛らしい容姿だ。
女子高に進学して化粧もしてないのに町でナンパされたこともあり、お嬢様学校で有名な女子大に進学した。
「こんなことなら……行けばよかった」
翼は後悔の言葉を呟いた。現地の画像を見れば見るほど後悔の念が心の底から湧いてきて、それを見透かしたかのように、現地の人たちがツィッターやSNSで嫌がらせか当て付けと言わんばかりに画像を上げている。
みんな楽しそうな笑顔できっとお互い顔も名前も知らないのに、爽やかな汗を流して人生を謳歌していた。
そのイベントの名はコミックマーケット、通称:コミケあるいはコミケットで世界最大級の同人誌即売会だ。三日間で五〇~六〇万もの人が日本中は勿論、世界中からも集まるという世界的イベントだ。
毎年お盆と年末のシーズンに三日間開催される。来場者やサークル、スタッフはみんな平等な参加者ということで『お客様』は存在しないことに翼は興味を持った。
「あっ……ゆめみちゃんのコスプレ、可愛いな……」
翼は一人溜息吐いた。まとめサイトやツィッター、SNSにはコスプレ画像も多数公開されていて、翼は特に今年春に放送された『ゆめみ☆テイクオフ!』のコスプレ画像を流れるように見てると、だんだん虚しくなってスマホを見るのをやめて寝転がった。
「みんな楽しそう今なら間に合うかな? ゆめみちゃん?」
ベッドを転がって『ゆめみ☆テイクオフ!』の主人公、羽田ゆめみの抱き枕に話しかけるように呟く、時間は一二時過ぎで今から空港行ってもお盆のシーズンで羽田行きの空席はないだろうし空席待ちしても日が暮れる。
それに今日はコミケ三日目、つまり最終日だ。次の開催は年末で四ヶ月は待たないといけない。
「はぁ……ゆめみちゃんみたいに、フライトスティックで行けたらな……」
幼い頃、魔法少女に憧れた翼は魔法少女になれない現実の虚しさを知り、現実から逃げるようにますますのめり込んだ。
数年前に出た作品はダークファンタジーとしては面白い、と嵌りはしたが何かが違うと思っていた。
それからというもの魔法少女ものと言えば重く陰惨で暗い作品が作られ、翼はそのたびに違う、そうじゃないと首を横に振っていた。
そんな時に翼は『ゆめみ☆テイクオフ!』と出会った。
大手航空会社である極東空輸が加盟する航空連合ステラアライアンスと、アニメ制作会社という異色のコラボでできた魔法少女ものだ。
ありふれたものだが見る人を温かく、優しい気持ちになれるストーリーと、綿密なロケハンを世界各地で行ったことが話題となって放送終了後からも注目が集まっている。
翼は主人公の羽田ゆめみが一番好きだ。
おどおどしてて恥ずかしがりやで泣き虫だけど、真っ直ぐで芯の強い女の子。
この前ははわざわざ変装して、地元の友達や家族にバレないようにちょっとエッチな抱き枕を勇気を出して買い、それから毎晩ゆめみとキスして寝るようになった。
さすがにムラムラして買った日の夜は裸でゆめみと抱き合って寝たのは黒歴史になってしまったが。
翼はうつ伏せになって長く、細長い脚をバタつかせた。
「ああもう、行きたい行きたい行きたい! コミケ行きたい! 聖地巡礼もしたい! 湘南江ノ島に羽田空港! ストラスブールやコルマール、イスタンブールやサンプトペテルブルク! イエローストーン国立公園! はぁ……」
でもそんなお金はないと溜息吐く、せいぜい東京まで四泊五日が精一杯だしパスポートも持ってない。
こんな憂鬱どうやって晴らせばいいんだろう? みんなが楽しい時間を過ごしてるのにあたしは一人でお留守番。もう少ししたら就職活動を経て社会人、仕事に追われながらそんなことも忘れてしまう。
翼は転がって仰向けになり、ずれた眼鏡を直す気にもなれない。
「ねぇゆめみちゃん……魔法少女の変身ってさ、早く大人になりたいっていう女の子の願望を表したものって聞いたたけど……今は違うと思うの……あんなに可愛い衣装が着られるのって、ゆめみちゃんたちくらいの歳にしか似合わないと思うの」
その呟きに答える者はおらず、エアコンの作動音と家の上空で着陸態勢に入った旅客機の重低音のダーボファンエンジンが鳴り響くだけだった。
「あたしね、大人になんかなりたくなかったの……ゆめみちゃんみたいに、優しい世界で優しい友達に囲まれて時には助け合ったり、喧嘩したり、笑ったり泣いたりしたかったの」
翼はゆめみの抱き枕をギュッと抱き締めた。
「やっぱり……今度行こうかな?」
このままエアコンの効いた部屋で寝落ちしそうになった時、ドアをノックする音が響いて翼を現実世界から引き戻し、抱き枕を夏布団で覆い隠した。
「は、はーい!」
ドアが開くと兄の中島智彦が小さめのダンボール箱を持って入ってきた。
「翼、お届けものだぜ。ねんどろいど」
兄の智彦はもわっとして汗臭い体重一〇〇キロ越えの肥満体型にタラコ唇、半ズボンに肌着姿でだらしないぽっこりと妊婦さんみたいにお腹を出している、しかも風呂嫌いで不潔な臭いだった。
「うえっ!? ちょっと中身見たの!?」
「お前いい年してまだ魔法少女が好きなのか?」
「いいじゃない! お兄ちゃんだって大きなお友達でしょ!」
翼はムッとして唇を尖らせると、智彦は右手でダンボール箱を手渡しながら言った。
「それは認める。でもいいよなお前は、大学生活で金も持ってるなんてさ」
「いつまで自宅警備員してるつもり? いい加減転職したら?」
翼は無職でバイトすらしてない兄に皮肉を込めて言うと智彦は「ぐぬぬ」と顔を顰めて言い返す、最近兄は気が短くなってきたような気がする。
「お前こそ、とっとと就職して社畜になっちまえ!」
そう言って兄の智彦は部屋を出ると、ダンボールは開けた痕跡はなく伝票に羽田ゆめみのねんどろいどが書かれていた。
宅配テロか……これでもマシな方だと翼はゴロリと転がる。ふと劇中でゆめみの言葉を思い出し、ぽつりと呟いた。
「君はわたしと同じ翼を持ってる、だから……一緒に飛ぼう!」
これはゆめみが最終回でハーモニストと名乗る敵でもあり、クラスメイトの男の子である夢破れた儚げな美少年、音無みつぎに送った言葉だ。
そうだ、バイトで貯めたお金もある……冬休みまでまだ時間もある。
だから行こう、冬コミに。
翼はベッドから起き上がり、スマホを弄り始めた。