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授業が終わり部活の時間になった。部室に向かい着替えを済ませると中村に呼ばれて先輩達の部室に向かった。グローブの紐を好みのテンションに合わせるために微調整が残っているためである。中村たちがウォーミングアップをしている間にテンションを合わせる。作業じたいは十分もしない間に終わってしまう。中村のグローブを元の位置に戻すと拓司はいつも通りマネージャー業務に戻った。昨日とは打って変わって良い天気になった。後輩のマネージャーである美南夏輝と葛西千秋が既にジャージに着替え終わっていた。二人は通うコースが違い、美南は特進に通い葛西は進学コースに通うため同じ授業を受けることはない。美南の方が頭が良いコースに通うが見た目は美南の方がギャルの様である。
アップが終わった選手たちが次のメニューにむけて動き始めた。三年生でキャプテンである児島が拓司を呼んだ。コーチ陣が集まる監督室に拓司とキャプテンが集まる。いつも練習前に監督室でその日のメニューをキャプテンと拓司に伝えられる。メニューによってはマネージャーが分かれて作業にあたるためマネージャーの統率は拓司に任される。
今日の練習メニューは投内連係といってピッチャーと内野手のサインプレーなどを確認するメニューをAチームとBチームに分かれて行うことになっていた。AチームはレギュラーチームでBチームは補欠チームである。さらにAチームが投内連係を行っている間Bチームはピッチャー陣と野手陣で分かれて練習を行う。ピッチャー陣はブルペンでピッチング練習を行い、野手陣は自分で決めた練習を行う。Aチームの投内連係が終わるとBチームが投内連係を行う。
拓司はマネージャー室に戻ると美南と葛西に指示を出すと早速ブルペンに向かった。拓司はキャッチャー出のためよくブルペンキャッチャーを頼まれる。
ピッチャー陣のピッチング練習を受けるキャッチャーをブルペンキャッチャーと呼ばれる。ブルペンキャッチャーはただ捕るだけではいけない。声掛けからピッチャーの投球フォームに乱れが無いか、大事なのはボールをグローブの芯で受けることでパーンといういい音で捕ることである。プロ野球の世界にはブルペンキャッチャーという職業が存在する程である。
高校野球ではプロ野球の投手と違いコントロールの精度に欠けることが多いためワンバウンドしてしまうことも多い。硬式球の硬さは石のような硬さであり頭や胸に当たることで最悪死に至ることだってある。そんな球を座って受け止めることは慣れないと恐怖感が強い。マウンドはグランドから25センチ高くなっていなければいけないと規定されている。斜め上の方から投げ下ろされる球を捕るのは意外と難しい。
ピッチャーズプレートからホームベースまでは18.44メートルの距離があり、一般的に球がピッチャーの指を離れてからキャッチャーのミットに届くまで140キロ~130キロの速度の球では時間にして0.44~0.47秒と言われている。一瞬でも目を離すと怪我をするのは自分である。野球は攻撃の時間休んでいると思われるが攻撃中は攻撃中で配球や癖を観察している選手が殆どである。そんなことを長ければ五時間かけて行うのだから過酷なスポーツである。集中力を維持するのは並大抵なことではない。
2人のピッチング練習が終わるとAチームとBチームが入れ替わりBチームの投内連係が始まった。拓司は監督に言われて新入部員の一年生が練習する室内練習場に向かった。一年生は筋トレとバッティング練習を室内練習場で行っているがグランドから少し離れた場所にあるため時々誰かが様子を見に行く。室内練習場の外から一年生を眺めていると自分も練習をしたいというフラストレーションが溜まってしまう。その時に室内練習場の横にある女子寮のドアが開くと栞里が出て来たのが見えた。栞里はジュースでも買うのか室内練習場の横を通る時にさりげなく室内を眺めながら体育館の方に向かって歩いている。練習できないストレスが溜まっていた拓司は栞里の後を追いかけた。
栞里はちょうど自動販売機でジュースを買うとペットボトルを自販機から取り出したところだった。
拓司が「最近よく会うね」と声をかけると栞里はビクッと肩を震わせた。顔を上げた栞里は拓司の方を向くと「もう。ビックリするじゃない」
と言うが怒った様子ではない。安心した拓司は
「野球部が気になる?」と話を続ける。
「よく練習するなーって思って見てた」
「あそこで練習してんの全員一年生やで。他のメンバーはグランドにいる。一年は誰かが見てへんかったらすぐにサボりよんねん。せやから俺は監視役や」少しオーバーに表現したが、あながち間違ってはいない。
「あれだけいて一年生だけなの? 多いね」
「一年生はいま31人。せやけど夏までには2,3人辞めるんちゃうかな」
「そんなものなの? 全員では何人いるの?」
「毎年3人くらいは辞めてくねんな。部員は81人でマネージャーが2人やから全員で83人かな」
「83人もいるんだ。すごい多いんだね。全員覚えてるの?」
栞里が驚くのも無理もない。拓司が通う学校では男子が760人であるため10人に1人が野球部に所属する計算になる。岡山県では一校あたりの平均部員数が平成の時代になってから十五年連続で一番多い県であった。
「正直、入部してきて一ヶ月くらいしか経ってへんし覚えてへん奴もいんねんな」
「だめじゃん」
「そんなん言っても頭がついていかへんねんな。俺の頭じゃ無理や」と開き直った。
「てか、私なんかと話をしていても大丈夫なの?」
「ずっと見ているとストレスが溜まってまうねん。せやしこうやって話相手になってくれて助かるよ」
「一緒に練習したら良いじゃん」
「俺はサポート役やからな。練習は選手の時間やねんし俺が参加したら示しがつかへん」
「マジメだね」
「そんなことあらへん。こうやって栞里ちゃんと話してるくらいやねんからな」
「サボってるの一年生じゃなくて拓司君の方になってるね」と言って笑った。
「そう言われると確かにそうやな。そろそろ戻らなあかんな」
「頑張ってね」
「ありがとう。またメールさせてもらうね」そう言って拓司は栞里に別れを告げると練習に戻った。
ちょうどその時にポケットの中の携帯が鳴り始めた。南波から次の練習が始まる報告のメールである。拓司は足早にグランドに向かった。