縁離
なんの変哲もない週末が過ぎ、週の折り返しがやってきた。その日はいつも乗る電車より少し早い時間の電車に乗って学校に向かっていた。学校に向かう電車は途中の区間がとても混み合う。テレビでよく見かけるような都内の通勤電車ほどではないが、稀に駅員が車内に押し込むような光景が見られたりもする。二十分ほど経つと岡山駅に到着して乗り換えてしまえば乗客はかなり減る。一部の通勤客と拓司と同じ制服に身を包んだ学生と、道路一本挟んだ高校に通う学生がいる程度だ。
拓司の所属する野球部は県内で中堅のレベルである。甲子園に行くような高校はどこも専用のグランドがある。名門校は全寮制だったり体育科があって野球につぎ込む時間がとても多いが、拓司の学校はどれも当てはまらない。恵まれている点でいえば照明があることと室内練習場があることくらいである。
学校に到着するとまず部室に向かった。昨日の練習の後片付けをするためというのと、先輩から預かったグローブの紐の交換が終わったため返しに行ったのだった。野球で使用するグローブは使用していると紐が切れてしまう。スポーツ用品店に持って行けばだいたいの店で紐の交換はやってくれる。しかし、交換を頼めば工賃がかかってしまうので自分で交換してしまう選手は多い。簡単な交換であれば二十分ほどで交換できてしまい何日も預けることはないため拓司は紐の交換を頼まれることが多く、月に一回程度は頼まれる。
メモ用紙に「紐のきつさの微調整しますので確認お願いします」と書いて先輩のスペースに置いておく。そしてドリンクを入れていたタンクを清掃しようかと思っていたが、後輩のマネージャーがやっておいてくれたらしく綺麗に干されていた。特にやることのない拓司は教室に上がった。
教室に行くと早く学校に来ていた同級生に挨拶を済ませて自分の席に座ると、今日提出の宿題を書き記し始めた。宿題は簡単に終わるものだったため五分もしないうちに終わった。勉強が苦手な同級生がその宿題を見せて欲しいと借りに来た。まったくハイエナのような嗅覚である。朝の朝礼まであと三十分以上ある。いつもの電車組が学校に到着するまであと十分以上あったのでここでも拓司は暇になってしまった。昨日の練習で片付け忘れがあればと思い、拓司は室内練習場に向かった。
室内練習場はとても綺麗に片づけられていた。ここでもマネージャーが綺麗に片づけたのだろう。新人が故にとても几帳面に仕事をしたのだろうと分かる。常に置いてあるバットを手に取り数回素振りをした。振りだけならまだまだ現役で続けられるのにな……と思う。しかしバットを振るだけの人間がメンバーに残れるほど野球部の層は薄くない。それが分かっているだけに悔さが募る。
室内練習場を出ようとドアの方に向くと外から誰かこちらを覗き込んでいた。拓司はそれが栞里だと認識した。栞里の方に歩いていくと「おはよう」と声をかけた。栞里も「おはよう」と返事を返す。
栞里に「どうしたの?」と話かけると
「教室に行こうと思ったら拓司君を見かけたから」と返事をした。
「見られてたんや。なんか恥ずかしいな」
拓司の横に並んで栞里は歩き始めた。
「けっこう良い振りしてたんじゃない?」と得意げに聞いてくる。綺麗なスイングがどんなスイングなのかは栞里には分かっていないだろう。拓司は冗談っぽく
「分かる? 上手く肘をたたんで振れてたと思うよ」と冗談で返す。
「バットって重いの?」いきなり話を変えるあたり潔い
「一般的なバットは九百グラムくらいかな」
「軽く振ってるように見えるけど一キロくらいあるんだね」
「今度振ってみなよ。きっとイメージ変わると思うよ」
百グラムで感覚がかなり変わることは伝えても分からないだろうから詳しくは話さなかった。栞里が野球を詳しく知りたい訳ではないことだって分かっている。野球の話は切り上げて別の話題に移る。
「今日は体調どうや?」
「今のところはバッチリだよ」と栞里
「そっか。それは良いことや。昨日は色々ありがとね」
「ううん。こっちこそ楽しかった」
その時後ろから先輩の中村が声をかけてきた。中村はグローブの紐の修理を頼まれた先輩である。
「おはようございます」野球部らしく挨拶をした拓司にむかって中村は横にいる栞里をチラッと見た後に
「おはよう。グローブ終わった?」聞いた。
「はい。部室に置いておきました。最後に微調整するんで部活の時に部室に伺います」
「サンキュー。で、この子彼女?」と聞いてきた。遊び球のない直球勝負である。
「違いますよ。女子寮に住んでる友達です」
栞里はその間静かに笑顔を作っていた。
「で、お姫様をお迎えにあがったの?」と茶化しはじめた。
「室内の確認に行ったらたまたま会ったんです」なぜか早口になりながら答えた。
中村とは上下関係があるが比較的気楽に話せる優しい先輩だった。
「ホンマか?」とどこか楽しげである。
「嘘やったらもっと嬉しそうにニヤニヤしてますよ!」と言った。
「まあええは。皆に報告だけしといたる。とりあえず部活ん時に部屋来て」と不吉な笑顔で不吉な言葉を残して去って行った。
「ごめんね」と栞里に謝ると栞里は「ううん。別に大丈夫」と言ってまた歩き出した。
校内ということもあり、すぐに教室に到着した。拓司の教室の上の階に栞里の教室があるため手前の階段で栞里とは別れた。もう数分で朝の朝礼が始まる時間だった。教室には友達が多くそろっていて、拓司が席に着くと先ほど宿題を貸した友達とは別の友達がノートを返しに来た。
担任が教室に入ってきて出席を取り始めた。山下と呼ばれて隣に座る彩花が「ハーイ」と怠そうに返事をする。新学期初めの席替えで彩花と拓司は隣の席になった。
「むっちゃ眠そうやな」拓司は今にもあくびをしそうな彩花に話しかけた。
「だって朝練だったんだもん」と眠そうに答える。
「お疲れ様」こんな時はそっとしておく方が良いだろうと思い、労いの言葉をかけて朝礼が早く終わることを祈りじっと待った。
拓司の祈りが通じたのか朝礼は特に連絡事項もなく終わった。拓司は突っ伏した彩花に栞里のことを聞こうと思い話しかけた。
「なあ。八木さんと仲良いん?」
彩花は顔だけ向けて考えている。彩花の目はどこの八木さん? と言っている。
「女子寮の八木さんやねんけど」
彩花は不意に起き上がると、楽しいモノを見つけたように拓司に向きなおした。
「で、栞里がどうしたん?」なんだか楽しそうだ。
「先週ちょっと話してん」
「どんな話?どんな話?」
「色々話した。同い年ってこととか」
「それも聞いたんだ。で、どうなん?」
「どうなんって言われてもただ話しただけやんか」
「栞里からもタッ君のこと聞かれたよ」
予想外の返答に拓司はドキッとしていた。動揺を隠せていない拓司を見て彩花は楽しんでいる。
「で、どんなこと言ってたん?」と彩花に聞いたが
「ガールズトークを男に聞かせる訳ないでしょ」と言ってかわされた。気になってしかたない。
「変なこと言ってなかった?」少しだけでも良いからヒントが欲しい
「どんな人か聞かれたから私の思う素直な感想を伝えといた」どんなことが伝わっているのか余計に気になり始めた。
「絶対に変なこと伝わってるやん」と語尾が強くなる。
「私に恩を売っといたら良い印象が伝わるかもよ」と言ってきた。
そのあと本当に彩花はジュースをねだってきた。もはや恐喝である。