秘
きっちり二十分後に栞里やって来た。先程までの制服姿とは違い、今は私服に着替えている。少し雰囲気の変わった栞里に拓司は少し緊張してしまう。
傘を差していて顔は少し隠れ気味だったが、服は落ち着いた白を基調としたスカートにパーカーだった。
「お待たせ。変なお願いしてごめんね」
「良いよ。てか、部活休んで良かったの?」
「ちゃうちゃう。休むことになってたけど用事ができただけ。それでも先輩の目があるから堂々と女の子と出かけるのはちょっとね。しかも保健室で休んだっていう事実もあるし」
栞里は笑いながら拓司に話しかけた。
「休んでた? サボってたの間違いじゃなくて?」と痛い所を突かれる。
「それは言わんとって。」
「他のマネージャーを放置して良かったの?」
「やることは伝えてあるし、時間を計ったり飲み物を持っていくだけやし俺がおらんでも構わんのよ。部員が指示してくれるやろ。何より新学期に入って初めての休みやねんで」
新入生が入部したことによりマネージャーも三人入部していた。
普段の練習でマネージャーが行うのはマネージャー業務と練習のサポート業務に分かれる。マネージャー業務ではドリンクの管理、ケガをした選手のケア、必要な備品の買い出し、お客さんの誘導やお茶出しがメインである。サポート業務ではノッカーへの球出しや時間の測定がメインだった。拓司はそれ以外に加えノックを打ったりブルペンキャッチャーをしたりもした。我ながらになかなか多忙だと思う。コーチ陣からは信頼を受けていたためチーフマネージャーとして後輩マネージャーへの指示出し・指導を任されていた。
栞里は少し驚いた顔をしていた。
「そんな働いて大丈夫なん?」
「別に仕事やないねんから大袈裟や。野球するんが嫌ならマネージャーとして残ったりせんよ」
「そんなに野球が好きなんだ」
「まあね」
買い物中に、寮は規則がとても厳しいことや彼女の地元の話を聞かせてくれた。帰り道、急に彼女の方から連絡先を交換したいと言われた。拓司が断る理由はなかった。
拓司は帰りの電車に乗ると早速彼女にメールした。内容は今日たくさん話せて楽しかったとか、買い物に付き纏って悪かったという謝罪といった、必要なのか必要でないのか分からない話まで色々と送っていた。
彼女からの返信は簡潔で
「久々に同じ年の男の子と話せて楽しかった。」との一言だけだった。
それでも拓司はどこか胸躍らせていた。彼女にとって久しぶりに話した男の子が自分だったことや、仲良くなれたことを思うと、サボって保健室に行って良かったと思えた。
彼女との単発なメールが数件続いた。話は行ったり来たりして、気付くと元の場所に戻ってきていた。まるで遊園地のコーヒーカップに乗っているかのようだった。もちろんカップを操縦しているのは彼女の方だったが、彼女の操縦はどこか心地いいものがあった。たまには踊らされるのも楽しいものだろうと思っていたし、林家では女が実権を握っていたので、男が女に勝てると思うことは、まずありえないことだった。言わば女尊男卑の世界である。
姉からの教えは『男はいつでも紳士であれ』だった。
拓司は幼い頃から姉の英才教育を受けていたので、女性に対して不誠実な対応をしようものなら、よく鞭を打たれた。時にその鞭は凍ったペットボトルに変わることもあった。それほど林家の女たちは強い生き物だったのだ。
途中で乗り換えをしている時に、急に恋愛の話になった。彼女からは、この学校で恋ができる自信がないとの内容だった。彼女の様にしっかりした人には年下の同級生がどのように写っているのか聞いてみたかったが、奥手だった拓司は結局聞けずにいた。
彼女にとって居心地の悪い場所を思いださせるのは、とんでもない罰を与えてしまうような気がした。何より今はお互いプライベートの時間なのである。
その代わりに拓司が聞いた質問は、教科書通りの質問だった。
「君の好きなタイプはどんな人なんだい?」
すると彼女からも返信があった。彼女からの返信も教科書を引用したかのようなありふれた言葉だった。
「一緒にいて落ち着く人かな?」
彼女がその言葉を考え抜いた末に導きだしたものではないことくらい、免疫のない拓司にもすぐに分かった。それは英語の教科書に載っている「元気ですか?」「とても元気です。あなたは?」といった決まり文句のような、模範解答に似たものだったのだろう。
一緒にいて落ち着く人か……
思わず声に出る。女の子が一緒にいて落ち着く人とはどんな関係なのだろう。
「そう思うってことはもう相手のこと好きなんじゃないの?」という返信をする。特に意味がない返信だと分かっているのにも関わらず拓司は栞里に尋ねる。
数分後に栞里から返信が来た。
「そうなのかもね。だからきっと好きになった人が私のタイプの人なんじゃないかな?」
ということらしい。なるほどそういう意味だったのかと納得した。
拓司は一年生の時に拓司は人生で初めて女性と付き合った。しかし二週間という短さであっさりフラれることになった。拓司の人生で初めての付き合いも、何もない超が付くほど健全な恋愛で終わった。例えるならばクーリングオフ制度のような簡単なお試し期間のようなものだった。それ以降拓司は女性の考え方がよく分からなくなっていた。
拓司は栞里に「なるほどね。そういうことか。じゃあ直球勝負で聞くけど、好きな人はいないの?」と返信した。
考えて分からないのであれば、考えても仕方ない。半分自棄になりながら栞里に聞いた。しかし拓司は栞里に早まったことを聞いたと後悔することになるとは思ってもいなかった。
栞里から「良いなって思う人はいるよ」というメールを受信するまでは。
栞里が良いなって思う男とはどんな人なんだろう。恐らく栞里が好意を寄せるくらいなのだから良い人なんだろうということは想像できる。しかし裏を返せば拓司は栞里のことをそれだけしか知らないことを意味している。
拓司はモヤモヤして
「そっか! きっと良い人なんだろうね! 応援してるよ。」
と簡単な返事をすると、携帯を鞄に閉まうと座席に深く腰を落ち着かせ電車の揺れに身を預けた。いつもは微睡むところだが、今日はどこか落ち着かない。
舌打ちをして鞄から英単語帳を引っ張り出して読み始めた。携帯がメールを受信したのか鞄の中で振るえているが放置して英単語を覚えようと努力た。
勉強嫌いが効を奏したのか英単語と向かい合っていると急に眠気がやって来た。なにも抗うことなく拓司は今度こそ眠りに落ちた。
二十分程で最寄りの駅に着いた拓司は改札を抜けて携帯を開くと先ほど受信したメールを読み始めた。
メールの受信は一件だけである。もちろん送り主は栞里だった。
内容は「良い人なんだろうけど、まだよく分からないんだよね。だから好きとかっていうのはまだ違うと思う。上手く行きそうになったらまた話聞いてね!」
とあった。
拓司は「聞く聞く!応援してるよ!今地元に着いた」と返信した。
いつも歩いて帰宅することを栞里には話していたので「おかえりなさい。帰り道気をつけてね!」と返信が来た。「ありがとう」とお決まりのセリフを言って拓司は帰宅の途に着いた。自宅までは徒歩で二十分程で帰れる道だ。普段帰るときは夜道で人通りが少ない道を帰るため煙草を吹かしながら帰るのだが、今日はまだ明るい時間のため制服で煙草を吸っていると人目についてしまうので封印である。
栞里からのメールは「また」と書かれているので今日のメールはこの辺で終わるのだろうと思うと、少しモヤモヤが晴れた気がする。恐らく次のメールは数日間来たりはしないのだろうと、今までの経験が言っている。そうする間にも帰宅するまであと数十メートルになった。家に帰ると親が少し驚いた顔で拓司を迎え入れた。
「おかえり。今日部活は?」と母親が聞いてくる。
「今日は休んだ」拓司の返答は短い。「そうなんや。休んで大丈夫やったんか?」という母親の問いに「構へんって。どうせ雨練やったし」と、ここでも拓司の返しは短い。
「母親は部活が無いってことは服汚れてへんやろ? 明日も同じの持って行くか?」と聞かれ「うん」とだけ返すと自分の部屋に直行して、制服のままベッドに横になった。
「何か疲れた……」誰に向けて言った訳でもない言葉が漏れる。何も疲れることはしてないにも関わらず、拓司は変な疲労感に襲われていた。外では今もまだ雨が降り続いている。