斬新に始まる
出会いは前触れなくやってくる。はじまりがそうならば終わりも前触れなく終わっていくのだろう。あの頃僕たちは確かに全力で生きていた。出会うべくして出会い、恋をして、そして別れを哀しんだ。また春がやってくることをこれだけ嬉しく思える人生も悪くない。
言葉は時に人を傷つけるナイフになり、時に人を癒す抱擁にもなる。言葉を上手く使えば別れも変わってくる。そのことを若くして経験できる人はどれだけいるのだろう。
拓司はまもなく二六歳を迎えようとしている。拓司は京都の田舎のごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の青春時代を過ごしてきた。普通と一纏めに言っても人によって普通の基準は違う。普通と言う言葉はある意味では無責任な言葉なのかもしれない。だがそれを踏まえても普通と言うしかない少年時代であった。しかしそれは今の世界事情を考えると幸せと思うべきなのだろう。
拓司はお盆の忙しい時期に林家の長男(少し年の離れた姉が二人いた)として産まれた。暦ではそろそろ夏も終わろうかとしているが、夏は持ち味である暑さを名残惜しそうに披露している時期でもある。拓司は長男としてそこそこ可愛がられながら元気に育ち、体を動かすことが大好きな少年だった。小学生の頃から地域の野球チームに入り、体を動かすことが自分の仕事かのように毎日走り回っていた。
中学二年に上がる直前に父親の転勤の関係で中国地方第二の県である岡山に移り住んだ。転校してすぐに言葉の壁にぶち当たった。訛が違うのは当然浮いた。中学生の子供とは言っても中学生なりの社会がある。そして拓司は間違いなくよそ者だった。
転校当時は言葉をからかわれることも多かった。しかし関西訛を喋る奴という認識が浸透してしまえば珍しがられて、それがきっかけで友達が増えたりもした。
関西弁という訛は不思議なことに普通に話していても怒っていると言われることがあった。拓司からしたらこっちの訛の方が怒っているように聞こえることがあり、それが原因で喧嘩をすることもよくあった。それでも拓司は関西弁が抜けきらず、引っ越した先の訛を喋ることが増えてきても、自然体で話す時には関西弁で喋る言葉多かった。
小学・中学生の頃を普通にこなしてきた拓司は普通というウォーミングアップを終了したように、少しずつ遊びを覚えていった。高校は電車で一時間ほど離れた隣の市の端にあった。なぜそれだけ離れた高校に通うようになったかと言うと、拓司の家と高校の中間地点に地方で二番目に栄えた町があったため、学校帰りに遊ぶところに困ることがないと考えたからである。そんなことが理由だと知れると反対されることが分かり切っていた拓司は、両親には勉強と野球が両立できるという大義名分を表に掲げた。
高校に入っても野球部に入ろうと思っていた拓司だったが、入学してすぐに親にタバコを吸っている所を目撃されたことにより、野球部に入部することを大反対された。タバコを吸い始めたのは中学の悪友に勧められて吸っていた。当時は煙を吸い込んだ時にどうしてもむせてしまいあまり美味しいとも思わなかったこともあって、もう吸うのは止めようと思っていた矢先のことだった。先人が言った天網恢恢疎にして漏らさずという言葉はよく考えたものだ。
タイミングというものは殆どの場合で、求めに応じてやって来てくれる訳ではない。当たり前だが、それからタバコとはしばらく縁を切ることになった。そして、両親をどうにかして説得した拓司は、同級生と少しだけ時期を遅らせて野球部に入部することとなる。高校野球を完全に舐めていた拓司は入部してすぐに洗礼を受けるのだった。
高校野球では一年生は体力作りがメインになるために、一日中走り込みや筋力トレーニングが練習の大部分を占める。入学と同時に入部した同級生はやっと走り込みにもついて行けるようになり、それと比例して少しずつ練習量は増えていった時期だった。そんな時期に拓司は入部したのだ。放課後の五時から九時までひたすら走り込みと筋トレの毎日が夏まで続いた。
同級生の中には部活をしながら彼女を作って、大人と子供の間という身分をわきまえた愛の育み方で青春を楽しんでいた奴もいた。一方の拓司は練習について行くのがやっとで、恋をしている余裕はなかった。家に帰るのは十一時になり、朝練があると始発近くの電車で学校に行かなければならなかったからだ。いや、そんなことは言い訳なのかもしれない。本当は自分も彼女を作って高校生らしい恋愛がしたいという気持ちはあったが、素直に認めたくない思春期特有の自尊心があったことも事実である。しかし、入部して二か月は本当に苦しい毎日だったことも紛れもない事実ではあった。
しかし、拓司の野球部生活は一番遅く入部して、一番早く引退することとなる。一年の途中までは選手として、一年の途中からマネージャーとして野球に関わることになったのだ。それは一年の冬に肺の中に膿が溜まる病気を患い、病院のベッドの上で四十℃の熱が一週間も続く苦行を強いられたからである。最後の検査を終えた後、ドクターから肺に負担がかかる野球はできれば避けた方が良いという間接的なドクターストップにあった。拓司は野球とも距離を置くことになった。拓司の高校生活での成績は公式戦二打数一安打一打点という普通の成績を残して、あっけなく募を閉じることとなる。
拓司の通う高校は、どこの高校でも掲げている至って普通の『文武両道』と『自分の個性を伸ばす』というスローガンを掲げていた。
この何ひとつ創造性も独創性のないスローガンを掲げておいて、個性を伸ばそうということに何の矛盾も感じないのだろうかと拓司は入学する時に思ったものだった。しかし周りは全く気にする素振りもなかったので、拓司の方が少数派だったのだろう。そんな拓司自身も学校と同じく何の捻りもない文武両道を親と約束していたのだが……
しかし、学校は有り難いことに、勉強を頑張るコースと部活を頑張るコースに分かれていた。その部活を頑張るコースに通う拓司にとって、授業の内容は中学の内容を初めから復習するようなものだった。中学の時に可もなく不可もない成績だった拓司にとっては、授業中に部活のためのエネルギーを回復させても十分お釣りのくる内容だったため、コースでは十本の指に入る成績を維持することができた。