「小説家になろう」改訂版という闇
九割私怨です。
この「小説家になろう」には、いくつかの闇が存在する。
そのうちの一つが、いわゆる「改訂版」である。
この改訂版という言葉は、非常に便利な言葉である。
自己の設定の矛盾や、読者からの批判でスランプに陥り書けなくなった作者が、この言葉を使い、設定を改めたほとんど新作を出すだけで、旧作の読者はついてくるのである。その上、一から投稿するため、書けなくなった設定のところまで時間稼ぎができる。
スランプの作者からしたら魔法のような言葉である。
正直、糞喰らえと言いたい。
書けなくなるのは仕方ない。作者も人間だ。それに決して商売や義務としてやっているのではなく、あくまで趣味として公開しているだけなのだから、無理に書けとは言えない。一ヶ月、二ヶ月、半年、一年、二年。どれだけでも待とう。なんならエタってしまっても読者として文句は言えない。
一部を消して、展開を途中から変えるのも仕方ないだろう。自己矛盾。プロットを書かずに進める作者にはよくありがちなことだ。時には、プロットを書いている作者でも、読者から指摘されてはじめて気が付くこともある。そういった場合、その部分をどうにか直そうと少し前までを消して、展開をやり直すのも仕方ないことだろう。
だが、改訂版はどうだろうか。
改訂版には二種類ある。
矛盾した設定をいじって、全くの別物なのに名前だけは改訂版として書き直す場合。
そして、設定はほとんど同じまま書き直す場合だ。
前者はまだマシであろう。
設定は新しく、別物として見られる。
一つだけ許せないのは、ほとんど別物のくせして、名前だけ前の名前を踏襲していることだ。
改訂版を出すような作品は大概、お気に入りがたくさんついている作品が多い。
最低でも千、中には万を超えている場合だからこそ、読者に対する補償の気持ちもあって改訂版を出すのだろう。
しかし、設定が変わりまくっている時点で、読者からしたらそれは新作なのだ。
むしろ旧作であってはならないのだ。
読者はその作品が好きだから読んでいるのである。当然、キャラ、展開、設定などを気に入っているはずだ。
しかし、改訂版という名の新作はその読者の作品への思いをズタズタにする。
例えば、ヒロイン。旧作で人気のなかったヒロインを新作では同じ名前で、性格を変えて出したとしよう。勿論人気のないヒロインだ。ファンは少ないだろう。しかし、少数派であってもそのキャラが好きだった読者はいるのだ。それが全くの別物になっていた時どう思うだろうか。もしくは、新作でそのヒロインが姿を消していた時、どう感じるであろうか。
自分の中にあった、そのキャラへの思いをズタズタにされるのだ!
これは、展開や設定でも同じことが言える。
作品は作者のものである。これは確かだ。作者が黙って、作品を消しても読者は文句が言えない。気に入らない展開になっても、どうすることもできない。
でも、ただ一つだけ読者のものがある。
それが作品への、その小説へのイメージであり、思いだ。
その小説のこの展開が好き、このキャラのこの行動が好きといった、書かれた小説への思いだ。
新作という名の改訂版はそれをすべてぶち壊しにする。
読者の小説への思いを、否定する。
それは、最悪な行為といえるのではないだろうか。
勿論、書くなとは言えない。それは作者の勝手だ。
でも、ならば、せめて全くの新作として、タイトルやキャラの名前を踏襲せずに、全くの新作としてだして欲しい。似ているだけの別物として一から勝負して欲しい。
それが、その作品が好きだった読者への唯一の気遣いではないだろうか。
勿論、そうすることで、旧作の読者は離れてしまうかもしれない。
しかし、それはそれとして受け止めるべきなのではないだろうか。
エタらせたのは作者の責任だ。スランプに陥ったのも作者の責任だ。
そんな作者が、お気に入りを踏襲したいからといって、安易に旧作の名前を使い新作を書くのは読者を馬鹿にしている。単なる作者のエゴに過ぎない。
まあ、中には、旧作読者への償いという意味を込めて旧作タイトルを踏襲した人もいるだろう。
だが、それは単なる作者の自己満足である。
別物と呼べるほどに設定が変わった作品はすでに旧作読者への償いになんてなっていない!
結局、その作者は償いと言い訳して、旧作のお気に入りを引き継ぎたいだけの偽善者だ。
そんなさもしい真似はせずに、堂々と一から始めればいい。
面白ければ再び読者は集まってくるし、つまらなければ消える。他の新作と同様だ。
それが、「小説家になろう」ではないのか。
勿論、旧作の最後に告知するくらいはいいだろう。
似たような設定で新作を書きます。このぐらいのそれはその作者の特権だ。読者への気遣いの意味も込められるだろう。
ただ、間違っても、キャラの名前やタイトルを踏襲するのは許せない。それは読者を踏みにじる行為なのだから。
それくらいならむしろエタってくれた方が、よっぽどマシだ。心の中にその作品が残り続けるのだから。
さて、次にもう一つの改訂版、すなわち、旧作とほとんど変わらない改訂版、設定などはほぼ同じで書き直す場合について考えてみよう。
これに関しては、もはや話すまでもなく、ただの時間稼ぎである。
書かなければというプレッシャーと、読者からの催促に耐え切れなくなった作者が、行ってしまう愚行である。
展開に悩んだのなら、そう言って更新を停止すればいい。
なんなら、多少の投稿部分の改変も読者は笑って賛同してくれるだろう。
なのに、なぜもう一度はじめからやり直す必要がある!
勿論、もう一度読み直すことができる、と喜ぶ読者がいることも否定はしない。
けど、大半の読者は同じ箇所を強制的に見直させられるのは嫌なのだ。自分から見直すのは問題ないが、それが強制的であるというところに問題がある。
ほとんど同じことを書くなら、旧作の一部を改稿して、その旨を読者に伝えればいい。変わったところだけ読んでもらえばいいではないか。
中には、途中から、展開が完全に変わる改稿もあるだろう。それならば、そこまでのところを消して、そこから書き直せばいい。
何故、もう一度、一から更新しなおす必要がある!
これも結局は単なる更新稼ぎに過ぎないと感じる。ただの時間稼ぎなのだ。
ふざけるな! と言いたい。
別に時間なんて稼ぐ必要はないのだ。堂々とスランプだと宣言すればいい。更新停止を宣言すればいい。それで文句を言う読者のほうが間違っているのだから。
それを、一から更新し直した時点でその作者は自分の作品に泥を塗ってしまっている。
まだ、新作のように見えるだけ、新しい部分が多いだけ、先ほどのパターンのほうがマシなのである。
以上、二つのパターンを見てきたが、これ以外にも改訂版はある。
たとえば、旧作が完結したあとに改訂版を出す場合だ。
これに関しては、正直、ここで判断はできない。
すでに旧作は完結しており、その時点でその作者は立派な方である。
そこから先にもう一度書き直したいと思っても、それは全くの別物として見ることもできるからだ。
しかし、多くの改訂版作者は、旧作を途中で中断して改訂版を出す。
そして、こういった途中で中断して改訂版を始めた作者のほとんどは、結局、その改訂版を完結させることなく、「小説家になろう」から姿を消す。つまりエタるのだ。中には、二度三度改訂版をだした挙句エタった作者もいる。それも最初の旧作の場面まで追いつかずにだ。
正直、言いたい。
彼らは、一体、何のために改訂版をだしたのだろうかと。
この「小説家になろう」にはいくつかの闇がある。
「改訂版」とは、その多くは読者のその作品への思いを踏みにじる最悪の行為である。
これは、読者の多くが、その作品を好きだからこそ生まれる、読者と作者のすれ違いの悲劇である。
反論等あれば感想にお願いします。
好きだった小説が次々に改訂版化していく悲しさに、ヤケになって書きなぐった文章なので、文章の粗さには一つお目こぼしを。