■4■
オウセイは、テラスに居た。
テラス、と言っても大きくはない。入口から、手前と奥に二つ並んで置かれている同じ形状の安楽椅子がある。これだけで、他に物を置くことができなくなるほどスペースがない。けれど、居心地はとても良く、オウセイはこの場所が好きだった。手前にある安楽椅子の一つに身を沈め、瑠璃色のその瞳で木々の間から見える空を見上げながら、物思いに耽っていた。
人々を守る為に、オウセイが出来た戦うこと。それは今でも悔いてはいない。正しかったと、自負している。
例えそれが、大勢の身内を殺す、という結果になっていたとしても、悔いてはいない。
しかし、代償は大きすぎた。
死ぬことの許されない身体、それが代償だった。オウセイと、キリエは受け入れるしかなかった。
死にたいと願うのに、死ねないというのは苦痛でしかない。大切な人たちが老い、死を迎え始める中で、二人の衰えない身体は忌み嫌われた。その内、オウセイは人を避けるようになった。
だから、夢を見た。
許されるだろう、そのくらいの、小さな夢は。と自分に言い聞かせていた。
ずっと、ずっと。
ずっと、待っていた。
罪人である自分を『殺してくれる』存在を。なのに。
「……オウセイ?」
オウセイの思考はここで中断され、少しだけ眉を顰めて声のした方向に顔を向ければ、分厚い本を抱きかかえた金髪の青年――――……ケセナが、困惑顔で立っていた。
「どうした?」
オウセイは、身体を少しだけ起こす。
「キリエさんが、ここで読書をすると気持ちがいいって教えてくれまして。折角なので、ここで読もうと思って来てみたら、オウセイがいたから」
「ああ、なんだ」
再び安楽椅子に身体を沈めると、オウセイはケセナから空へと視線を動かし、白い雲が風に流れる様子を見て「上空は風が強いな」と一人ごちる。
「あの……」
ケセナはオウセイの視界に入るように、オウセイが座る安楽椅子の脇まで来ると、抱きかかえる本に添えた手に力を入れ、横たわるオウセイを見下ろしながら、何かを言いかけて、やめる。ケセナは感じていた。感謝の言葉も、謝罪の言葉も、それらはオウセイには必要ないんじゃないか、と。
「……読書、するんじゃなかったのか?」
そんなケセナに、オウセイは言う。
「します、けど」
歯切れの悪い返事しかしてこないケセナに呆れ、オウセイは身体を起こすと、脇に立つケセナを見上げる。前髪が風に揺れ、そしてその奥の紅い瞳も、揺れている。
動揺を隠さないケセナに、オウセイはふと、記憶を封印する前のケセナの姿を重ねてしまう。
“絶対に人に感情を見せなかった”昨日までの彼は、オウセイにそんな仕草を一度たりとも見せたことはなかった。なのに、同じ顔、声で、別の人間のような行動は、新鮮ではあるのだけれど、どこか寂さを覚えさせた。
もうあの頃の彼はいないのだ、とオウセイに知らしめる為に、今、目の前に立っているような気さえしてきて、オウセイは頭を振る。
「けど? なんだよ? 途中で言葉を止めるな」
「……ごめんなさい」
突っ立ったままのケセナは申し訳なさそうに答えた。そこは一緒なんだけどな、とオウセイは胸中で呟く。煮え切らない思いをどう発散させようかと、オウセイはケセナを一瞥すると、抱く分厚い本に目が止まった。
「あ――――……貸せ!」
「え? あ、ええ?」
ケセナから本を強引に奪い、ぱらり、と開く。
「オウセイ?」
何事か分からずケセナは首を傾げながら、本を返して貰おうと手を伸ばすけれど、オウセイは姿勢を変え、奥側の安楽椅子に身体を向け、ケセナに背を向ける形にし、本が届かないようにしてしまう。戸惑いながらオウセイの前に回り込むが、今度は見上げて来たオウセイの、あまりに真剣な表情にたじろいでしまった。
瑠璃色の瞳が、ケセナを射抜いていた。オウセイは、はっきりと告げる。
「俺が、最初の章を読んでやる」
「! いや、それは、あの、俺、読めますし!」
慌てふためくケセナを横目に、オウセイはとりあえず、と本文が書かれた最初の頁を開く。びっしりと書かれた文字を眺めながら、オウセイは目を細め、短い溜息を一つ、ついた。
「オウセイ! 俺、読めますから!」
どうにか本を取り返そうと必死になっているケセナが、本に手を置いた、その時。
「というよりも、最初の章は間違っているから、俺が教えてやる」
静かに言ったその言葉が、ケセナを止めた。そして、ゆっくりと手を退ける。
オウセイは微笑を浮かべ「ありがとう」と呟き、神妙な顔のケセナが頷くのを見た後、文字に視線を向けた。同時にケセナは、もう一つの安楽椅子にぽすんと腰を降ろした。
文字の始まりは、章タイトルである。
この世界の始まりのタイトルに相応しいか? と聞かれれば、オウセイは全力で否定したかった。なにしろこれは章タイトルというよりも、一人の人物を表現した言葉だったし、ただの自己中心的な行動の結果、そうならざるを得ない状況だっただけなんだ、と作者に声を大にして言いたかった。
もう一度だけ溜息を吐いて、オウセイは声を出し読む。できるだけ、小声で。
「――――蒼髪の、救世主……」
「蒼髪……の救世主?」
ケセナが、声を上げた。視線は本から動かさないまま、オウセイは答える。
「そうだ。これは、俺のことだ」
「……え?」
「ここに書かれていることは『史実』であって『真実』ではない。俺は救世主なんかじゃないからだ。だから、この部分だけは、俺が教えてやる」
そもそも、ケセナがこの本を読んだ後に、説明しようと思っていた事柄だ。これだけは、オウセイ自身の真実だけは、例え過去の記憶を封印し、忘れても、ケセナには覚えていて欲しかったから。
「俺は……いや、俺とキリエは、元々この世界の住人ではない」
「!?」
衝撃に、ケセナは身体を揺らす。目を泳がせたままオウセイを見るけれど、オウセイは、じっと本を、険しい表情で見つめたままだった。
「俺とキリエは、こっちの人たちから言えば『魔人』、俺たちから言うと『神』と呼ばれている人が住まう世界『ティリティシア』の人間だ」
「こっち……?」
世界のことも記憶から抜け落ちているケセナは、理解できず首を傾げる。オウセイは、開いたままの本をパタンと閉じると、顔を上げる。
「こっちは、獣族たちが住まう世界『ファミラス』。そう呼ばれている」
「こっちは『ファミラス』。オウセイたちのいた世界が『ティリティシア』」
目を伏せ確認するよう呟けば、オウセイが「そうだ」と頷いた。
「そして、俺は。……俺は、この『ファミラス』に住まう人々を『殺すため』に『ティリティシア』から送り込まれた殺人鬼だ」
「! さ……つじん……き?」
動揺を隠せないケセナは、声を震わせる。
それでもまっすぐ、ケセナを見つめてオウセイは言葉を続けようと口を開くけれど、そのオウセイもまた、震えていた。やるせいない表情で、瑠璃色の瞳が影を落とす。
「洗脳され命令されてた、とは言え、俺は『ファミラス』に来て人々を殺し続けた。罪のない人たちを大勢。子供も、女も、見境なくな。だが、それが俺に与えられた命令だった。この世界を浄化するためだという、訳の分からない大義名分付きでな」
「どうして……どうしてですか? なんの意味があったんですか?」
震える声で、ケセナが問う。
「神……いや、魔人たちは、この世界の資源が欲しかった。『ティリティシア』は、資源を食い尽くして、人が住めるような状態じゃないから、新たな資源を求めたんだ」
「そんなの、勝手じゃないですか……」
「そうだ、魔人たちの勝手過ぎる都合だ。それでも奴らは欲してしまった。この『ファミラス』を。そして俺は、送り込まれた。『ファミラス』の住人を一人残らず殺せ、という命令でな」
「……」
「沢山、殺したよ。本当に、沢山――……」
オウセイは腕を抱き、瞳を閉じ、抱く手にさらに力を加えた。皮膚に爪が食い込む。こんな痛みは、自分が殺した人たちの無念や痛みを思えば、痛みではないのだ、と言い聞かせる。
「オウセイ……あの、これ以上は……」
そんなオウセイの様子に、話をさせるのは苦痛だろうと感じたケセナは、話を止めるように持ち掛けるけれど、オウセイは、首を横に振り、瞳を開いた。
「……ある日」
ゆっくりと続ける。
「『ティリティシア』に居たはずのキリエが突然現れて、俺の洗脳を解いてくれた。それはそれは、凄い剣幕でな」
その様を思い出してか、オウセイは少しはにかんだ。ケセナも、先ほどのキリエを思い出し、苦笑いを浮かべる。
彼女は、なんと言うか、怒らせてはならない。
「そして俺は、初めてこの世界を『見た』。この『ファミラス』に暮らす人々の、自愛に満ちた生活を目の当たりして、俺は、自分の罪を、初めて知った。――――……だから」
言葉を切ったオウセイは、しっかりと顔を上げて、そして続ける。
「魔人たちからこの世界を守ろう、そう誓った。それが俺にできる唯一の償いだった。それから俺は寝る間も惜しんで、バラバラの獣族たちを纏めるために走り回った。文字通り、当時の獣族たちはバラバラで大変だったよ。俺たち『魔人』に一番近い力を持った一族『応龍族』を中心に、『玄武族』『朱雀族』『白虎族』『青龍族』の長を族長とし纏めた。そして、『魔人』に対抗する術を教え、なんとか勝利した。俺が“救世主”なんて言われるのは、この所為だ」
ざっくりと説明されてはいるが、緊迫感が伝わってきて、ケセナはごくりと息を呑んだ。
オウセイはそれまでしていた険しい表情を変え、緩みを持たせた表情をする。口調もどことなく和らげて続ける。
「戦いが終わる間際、俺とキリエは『魔人』から呪術を受けた。死ぬことができない呪術をな。同族殺しの大罪者として、受けるしかなかった。それが今から五千年前だ」
「死ねない……? 五千年も……?」
ケセナは呆然と呟いた。死ねない上に五千年という時間は、ケセナ自身だったら発狂しそうだ、と思う。けれど、オウセイは自分の罪の告白よりも、淡白に言い退けた。まるでなんとも思っていないように。ケセナは不思議に思いながら、オウセイの言葉を聞く。
「そう、五千年前だ。これが『ファミラス』の、人の歴史の始まりだ。この本に書かれた『救世主』の『真実』。お前が、覚えておくべき、本当の物語だ。そして――……」
また、オウセイは言葉を切った。一呼吸置いて、本をケセナへと差し出す。
その本を受け取りながらもケセナの視線は、オウセイに向いていた。言葉の続きを待つけれど、オウセイはなかなかその先を言おうとしなかった。
沈黙が流れる。
言うべきかどうか、オウセイは悩んでいた。折角、記憶を封印したというのに意味がなくなるのではないか、と考えてしまう。けれど、彼は知らなくてはならないだろう。
何よりも、彼自身のことなのだ。
深呼吸を何度か行って、オウセイは漸く、口を開いた。
「お前は、俺が待ち望んでいた、俺を殺せる力を持つ者だったんだよ」
「……え?」
「ありがとう、お前のおかげで、俺は死ねる。本当に、ありがとう。ファルイーア」
「え? ファ…?」
ふんわりと笑いオウセイは満足気に立ち上がる。入口側に立ったため、ケセナに背を向けてしまっていて、ケセナは慌てて質問をする。
「あの、ファルイーアって?」
振り返り、やはり笑みを浮かべたまま。
「お前の本当の名前だ。『ファルイーア・ク・フェスカ』」
そう言うと、オウセイは向き直り、歩きだす。右手を上げて「本、読めよ」と言い残すと、テラスから立ち去った。
残されたケセナは、渡された本を開きつつ、オウセイが言った本当の名前を復唱していた。本当の名前は、ケセナという名前よりも、なぜか嫌悪感があった。どうしてか分からないが、ケセナは、その名前が嫌いなんだと感じていた。
「俺は、ケセナ・レフィードです」
誰に言う訳でもないが、ケセナはそう言うと、最初の章である『蒼髪の救世主』を飛ばし、その分厚い本を読み始めた。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。