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「プラ……ッ」
呼びかけようとした指先が何も掴めず、空気を切った。
プラークルウは音もなく消え、ケセナはただ一人、荒野の風の中に取り残される。
ざわめく木々を見つめたまま、ケセナはその場に立ち尽くした。
もし、自分が記憶など求めなければ。
彼女の望むまま『何も知らないケセナ』であり続けることができれば、彼女の哀しみは静まるのだろう。
けれど、それができない。
どうしても、今の無知な自分を肯定しきれない自分がいる。
たとえ『今』の平穏を捨てることになっても。
彼女の言う通り、耐え難い苦痛で『生きることができなくなる』のだとしても。
家族を奪われたラルのこと。
今も不当な狩りに怯える応龍の民のこと。
そして何より、自分自身の『過去』という空白。
「俺は、知らなくちゃいけないんだ……。すべてを知って、自分を取り戻さないと」
恐怖と不安は消えない。
凄惨な過去の断片を思い出すだけで身体が震える。
それでも、これ以上『無知』という名の殻へ逃げ込んではいけないと、自分を奮い立たせるしかなかった。
大きく深呼吸をして、ケセナはゆっくりと振り返る。
背後には、夕闇に沈みかけた洞窟がぽっかりと口を開けていた。
それは、すべてを飲み込む闇の口のようにも見えた。
グレンは今、ラルと何を話しているのだろうか。
あの『心裸眼』で見せられた、あまりに現実離れした光景は質の悪い悪夢のようで、ケセナは思わず頭を振った。
だからこそ、自分の目で確かめなければならないとも思う。
「……プラウ、ごめん」
呟きは風に攫われ、誰の耳にも届かない。
この一星霜、共に旅をしてきた彼女。
旅立ちの日、オウセイから手渡された刀に宿る彼女と初めて会った時は、「いらない」と本気で突き返した。
「君がいてくれて良かったよ」
ここにはいない剣精に向け、ケセナは自嘲気味に笑う。
旅を始めてから一度も孤独を感じなかったのは、間違いなく、騒がしくも献身的な彼女が隣にいてくれたからだ。
「オウセイ……キリエさん、元気かな」
ふと、始まりの地へ思いが飛ぶ。
体調を崩していたオウセイ。
彼は今も、あの深い森で生きているのだろうか。
同時に、彼の不器用な声が懐かしく蘇る。
『記憶の封印を解きたくなったら、ここに来い』
『理由次第で、解いてやる』
世界の救世主と謳われる男が紡いだ、真剣な眼差しと言葉。
ケセナはそれを何度も、あのぶっきらぼうな表情と共に脳内で反芻した。
「帰ろう」
口から出たのは、『行く』でも『戻る』でもなく、『帰る』という言葉だった。
ケセナは、その響きに自ら驚く。
なぜ、自分はあそこを『帰る場所』だと思ったのだろうか。
考えを巡らせ、何度か瞬きをしてから、ケセナは空を仰いだ。
「……帰る? そうか、俺は……俺を『変えに』行くんだ」
すとんと腑に落ちた。
記憶を取り戻し、本来の自分へと『還る』。だから「帰る」のだ。
すべてを“カエス”時が来たのだ。自分に自分を、そして世界に真実を。
決意を固めて頷いた、その時。
洞窟からグレンが姿を現した。
その後ろには、ラルが寄り添っている。
ケセナの姿を見つけた途端、ラルはびくりとしてグレンの大きな背後へ隠れてしまった。
「ん?」
怪訝に思い、首を傾げて様子を窺うが、ラルは一向に出てくる気配がない。
「ラルの両親を『殺した』本当の犯人を、正しく伝えた結果だ」
「え?」
ぽかんと口を開けるケセナに、グレンは「あー……」とばつが悪そうに後頭部を掻いた。
「当時の俺は新米の一団員でな。しかも『形だけの皇妃の弟』って蔑まれてた頃だった。機密案件なんて、さっぱり耳に入らなかったんだよ。……まあ、陛下から『もう始末は済んだから気にするな』って、えらく雑に聞かされた程度で。書類上で名前を見かけた気もするんだが、それがまさかラルの両親のことだとは、今の今まで結びつかなかったんだ」
ケセナは半眼で、この適当すぎる元騎士団長を見つめた。
「グレンさん。とりあえず、言い訳が長いです」
「いいから聞けよ!」
「もっと簡潔にお願いします」
「……少しは俺の心情を察してくれ」
「善処します」
突き放すようなケセナの態度に、グレンは「へいへい」と肩を落として言葉を続ける。
「……とにかく、気づかなかった俺が悪い。申し訳ない、二人とも。俺がもっと早く思い出していれば、ラルがケセナを親の仇だと思い込むことも、こんな復讐の旅をすることもなかったはずなのにな」
「質問」
グレンの背中から、ラルがおずおずと声を上げた。
「なんだ?」
「どうして気づかなかったの? 先生のくせに」
「くせにって……。お前、初めて会った時は『エルアベルグ』って偽名を名乗ってただろ。俺はお前が『クレート』姓だったことも、ましてや麒麟族だったことも、今の今まで知らなかったんだぞ」
「仕方ない……養子先の名前。それに、麒麟だって大っぴらに言えない」
「それはそうだが。麒麟族は応龍への裏切り者……禁忌中の禁忌だ。……とまあ、そういう訳だ」
グレンは肩を竦めてケセナに向き直った。
ケセナは深々と溜息をつき、空を仰ぐ。
「要するに、グレンさんが適当すぎて、名前が違うだけで気づかなかったってことですよね?」
「流石ケセナ、話が早くて助かる!」
「褒めてません! 全く、貴方は昔からそうやって……む……かし……?」
言いかけて、ケセナは咄嗟に口を押さえた。
今、自分は何を言おうとしたのか。
グレンが見せた過去の残像が、無意識に言葉を突き動かしたのだろうか。
だが、記憶のない今の自分が、グレンの『昔』など知るはずがない。
まるで、自分の奥底に眠る『もう一人の自分』が、勝手に口を開いたようだった。
「……ケセナ?」
「っ……あ、いや。なんでもないんです」
「少し休んだ方がいい。俺が術を見せた影響で疲れているんだろう」
「……そうします」
気がつけば、陽は大きく傾き、荒野を燃えるような夕焼けが染め上げていた。
急激な疲労感を覚え、ケセナが洞窟へ足を進めようとした、その時。
「あの、ケセナ」
ラルの小さな声が彼を止めた。
グレンの陰からそっと顔を出した彼女の紫の瞳には、困惑と、そして深い後悔が滲んでいた。
「ごめんなさい。今まで、酷いことばっかり言って。態度も……その……」
「いいよ。犯人だと思ってたんだし、もし俺がラルの立場だったら、同じことをしてたと思う。……まあ、俺には親がいないから、本当の気持ちは分からないんだけど」
「……っ!」
寂しげに微笑んだケセナの言葉が、ラルの胸に刺さった棘を抜いた。
彼女はほんの一瞬、はにかむような笑みを見せ、すぐに気恥ずかしさから俯く。
ケセナは静かに歩み寄り、俯く彼女の目の前で立ち止まった。
足音に気づいて顔を上げたラルへ、ケセナはふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「ありがとう、ラル」
「え……? どうして、お礼なんて……」
「変かな? 感謝しなきゃって思ったから。ラルが謝ってくれたのが、嬉しかったんだ」
「……そこは、普通『気にするな』とか言うところ」
「え、そうなの?」
「そう。変なの。ふふっ」
ラルは肩を揺らして、小さく笑った。
「貴方は変。……それと、やっぱり、うるさい」
「……う」
「じゃあ、あたしも言わせて。ありがとう。これからよろしく、ケセナ」
差し出された小さな右手に、ケセナは一瞬戸惑い、それからそっと自分の手を重ねた。
細いけれど、確かな体温がある温かい手。
「よろしく、ラル」
夕焼けに照らされた二人のやり取りを、グレンは珍しく口を挟まず、微笑ましそうに眺めていた。
『化け物』として誰からも忌み嫌われ、孤独だった彼が、こうして誰かと手を繋ぎ、笑い合っている。その光景が、グレンには眩しく、嬉しかったのだ。
だが。
「あ……っ」
張り詰めていた緊張の糸が解けたことで、ケセナの身体がぐらりと大きく傾いた。
「……限界だ。さっさと中に入るぞ」
倒れかけたケセナの腕をグレンが担ぎ上げ、置かれたままになっていた布を持つ。
そしてグレンとケセナは、夕闇に包まれた洞窟の中へ入っていった。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。




