■2■
リビングは、その建物の中央にある。
彼は、ぐるりと部屋を見渡す。
四人掛けの食卓が部屋の中央に置かれている。
テーブルに添えられた四つの椅子は、それぞれ形状が違ってはいるが、どの椅子も座り心地は良さそうだった。その脇の小さな本棚には、大小さまざまな本がびっしり並んでいる。読書の時も、このテーブルを使っているのだろう。
奥には大きな三面の窓があり、太陽の光を取り込み、開放的な空間を演出している。
さらに窓の外の鬱蒼とした森の木漏れ日が織りなす神秘的な景色が、部屋と外を繋ぎ一体になっているようで、彼は息を呑んだ。
リビングの左手のキッチンでは、一人の細身の女性が膝まで届きそうな長い黒髪を首の後ろで一つに縛り、食事の準備の真っ最中らしく、忙しそうに動いていた。
桃色の花柄のエプロンを着用し、手慣れた様子だ。
彼の位置からちらちらと見える彼女の顔は整っており、美人と言っていいのだろう。
「おはよう」
オウセイがそんな彼女に挨拶をすれば、彼女は作業の手を止め、わざわざリビングまでやって来る。
彼女は、彼の思った通り、上品な美人だった。
長い黒髪は艶やかで、そして不思議な牡丹色の瞳をしている。薄緑のチュニックに、真っ赤なサーキュラースカートを着込み、桃色の花柄エプロンが可愛らしさを演出していた。
そして、女性らしい白い肌。細い腰。そして目を引く大きな胸。
そこに視線を向けた彼は、彼女から慌てて視線を逸らした。
「おはようございます、オウセイ様。眠そうですね?」
彼女がオウセイに挨拶をすると、オウセイは一番大きい椅子に座りながら「そうか?」と呟く。けれど彼女は、そんなオウセイの問いに答えず、後ろに居て顔を逸らしたままの彼の顔を覗き込んだ。
「あら? どうしたのかしら?」
「……ええっと」
間近で見る彼女の牡丹色の瞳は、吸い込まれていきそうなほど澄んでいた。
彼の心臓が大きく脈打つ。あまりに激しい鼓動は、自分の心臓がまるで他人のもののように感じる。彼は、ごくりと息を飲んだ。
「キリエ・カーランよ。よろしくね」
「あ、え……その、よ、よろしく、お願いします」
掠れた声で彼が慌てて言えば、彼女はふわりと笑みを浮かべる。
綺麗だ、と彼は思う。
「さ、座って。食事にしましょ」
パタパタと忙しなくキッチンに消えるキリエの後姿を眺めながら、彼は胸に手を当て、深呼吸を数回行い鼓動を静めると、オウセイの隣の椅子に腰をかける。
落ち着かず、ちらりとオウセイを見れば、オウセイは豪快な欠伸をしていた。
「そう言えば」
欠伸が終わりきらないうちに、オウセイは言葉を話していた。おかげで『そ』は限りなく『お』だったが、気にせず続ける。
「名前がないの、不便だな」
「名前なんて個を現す記号ですから、なくても不便じゃないです」
彼は咄嗟に答えていた。あまりにも自然にするりと出た言葉に、彼自身が驚き、言い終えて、口元に手を当てる。
「お前、記憶がなくても同じこと言うんだな」
あながち気のせいではなかったらしく、呆れ顔のオウセイがそう言った。
「ま、根本が変わってないって証拠だろ。良い事だよ。にしてもだ、これから不便だろ。俺たちだってお前をずっと『お前』って呼ぶ訳にもいかないしな」
「でも……」
「でももなにも、文句言うな。宿に入ったら、お名前書いて下さいって言われるぞ? どうする気だ?」
想像する。
自分が宿帳に名前を記入する瞬間を思い浮かべながら、彼は判断した。
「適当な名前でいいと思いますけど。あ、野宿だったら書かなくても大丈夫じゃないですか?」
「……まぁ、野宿になることもあるだろうがな」
きょとんと疑問符を浮かべた彼を、オウセイは半眼で見つつ、言葉を続ける。
「世の中、まだそこまで平和じゃないからな。できるだけ宿に行け」
途端、彼の表情は変わり、眉間に皺を寄せ首を傾げる。
「平和じゃない? それってどういう?」
「それは後々説明してやる」
けれど、オウセイは、それは今、説明することではないと判断し、当初の問題であるところの名前に話題を戻す。
「まずは名前! そうだな……ケセナ。ケセナ・レフィードなんてどうだ?」
「オウセイ様、それは……」
丁度、パンを運んできたキリエが、怪訝な表情を浮かべる。テーブルにパンを置き、そのまま彼の前席に座りつつ、オウセイに抗議の視線を向けた。
「いいから」
オウセイは短いけれど、しっかりとした意志のある声で、キリエを説得する。一方、彼は目を泳がせながら、くぐもった声色でその『名前』を何度か呟いていた。
「……ケセナ…レフィード。ケセナ。」
どこか懐かしい響きのある名前だった。漠然とした懐かしさだけで身体が満たされ、なぜか安心する。
「そう。かつて、誰かさんが土壇場の苦し紛れで名乗った名前なんだけどな」
「……え?」
だが、オウセイの説明で、安心感が霧散した。
苦し紛れで名乗った、とは一体、誰がそう名乗ったのか。疑問が泉のように湧き上がるけれど、記憶の彼方のことで彼には思い出すことができない。
「ちなみにその『誰かさん』はお前だよ」
「俺!?」
予想の斜め上過ぎて、彼は叫んでいた。
自分が名乗ったなんて、思いもしなかったし、苦し紛れで名乗ったことへの疑問がさらに湧き上がる。
どういう状況だったのだろうか。想像ができない。
「はいはーい。お話が弾んでるようだけれど、朝食にしましょう。ね?ケセナ?」
悶々とした思考の中で、唐突にキリエの声が脳に響く。
「ケ……?」
名前を呼ばれた気がして、顔を上げ、キリエを見れば、彼女はニコリと微笑み、もう一度その名を呼ぶ。
「ケセナ?」
この瞬間、彼の名前は決定された。
今日から、彼の名は『ケセナ・レフィード』。かつての彼が苦し紛れに名乗った名前。
けれど、嫌ではなかった。むしろ、誇らしげに思え、彼――ケセナは、返事を返す。
「はい!」
その様子を眺めていたオウセイは笑みを浮かべて頷き、そして、徐にフォークを持ち上げ、ぐるぐると手首を回す。
何の合図か分からずケセナは、回される手を目で追う。
「顔まで動かして見なくていい。食べよう。腹が減った」
ケセナは目だけで追っているつもりだったのだが、どうやら顔も少しばかり動いてたらしく、オウセイに指摘されると、慌てて既に配膳が終わっているキリエの用意した朝食に目を移し、その料理の数々に感嘆する。
「美味しそう」
ごく自然に感想が漏れた。
バターが薄く塗られたパン。プレートには、スクランブルエッグ、ソーセージが二本と、固焼きのベーコン。サラダが少々盛られ彩りもいい。
置かれたフォークを手に取って、どれから食べようか悩んでしまう。
「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。作り甲斐があるわ。この人なんか、何も言わずに食べちゃうし、つまらないのよ?」
キリエは横目でオウセイを見る。その視線に気づき、食べ始めていたオウセイが、目を瞬きさせる。しかし、口の中に物が入っている所為で文句が言えず、もごもごと唸る。
ごくり、と飲み込み何かを言おうとしたけれど、もう既にケセナが別の話題を振っていた。
「あの、オウセイは、どうしてこんな森の中に?」
先ほどから窓の先に見えるのが、鬱蒼とした森の景色で、ケセナは思わず質問してしまったのだ。
鳥の囀りが近い。木漏れ日が気持ちいい。
空気も澄んでいるのだろう、と容易に想像できる。
「……聞くなよ」
半ば、八つ当たり的にオウセイは、冷たく言い放つ。
「……ご、ごめんなさい」
ケセナは尻込みし身を縮める。自分の発言……キリエへの文句だが……が出来ず、不貞腐れたオウセイが、ぱっと満足そうな表情を惜しげもなく浮かべれば、キリエがぽつりと「意地悪」と呟いた。けれどオウセイは、それを聞き流し、さらに聞こえていない振りをした。
「この森を選んだのには、色々あるんだが、まぁ、一言で言えば、“都会の喧騒に疲れた”からかな」
「とかいのけんそう?」
「不思議そうな顔をするなよ。俺にだって色々あったんだ。お前みたいに記憶を消すくらいじゃ済まされないことも含めて沢山な」
「俺は――……」
そう言われてしまえば、返す言葉もなく、肩を落とすケセナ。
俯いてしまったケセナに、オウセイは肯定の言葉を投げ掛ける。
「お前が記憶を消したいって切望した理由は理解しているし、それに対して非難はしない。それが逃げだって言う奴は、中にはいるかもしれないが、俺はそうは思わない。お前にとって、最善だったんだから」
「あの、記憶を封印する前の俺を知っていたんですよね?」
「知っているよ。俺だけじゃない。キリエだって知ってる。俺たちが知っていたからって、どうと言うこともないだろ?」
確かにその通りだった。彼ら二人が、ケセナの封印した記憶を知っていても、問題はないのだ。
なぜなら、ケセナが記憶を封印した、ということを彼らは知っているけれど、名前のこと以外では『過去のことを持ち出さず、まるで初対面のような対応』を徹底している。
感謝すべきことだ。
「そもそも、お前の記憶の封印を施したのは、このキリエだ」
「え? キリエさんが?」
ケセナは目を丸くする。
すっかり今までの流れ的に、封印を施したのはオウセイだと思っていたのだ。
「はい、させて頂きました」
はにかんだ表情でキリエが頭を下げる。
「俺にはもうそんな力は残ってないからな」
呟いたオウセイは、どこか寂しそうで、胸の奥が締め付けられる。
何か声を掛けたくて口を開こうとするけれど、言葉が出てこずケセナは口を噤む。
「ともあれ、これをやるよ」
ぱっと明るい表情に変え、オウセイは立ち上がると、本棚の中央あたりに置かれた妙に分厚い本を手に取り、ケセナに差し出した。
「鈍器?」
あまりの太さに本に見えず呻く。
「違う違う。この世界の歴史がびっしり書かれた本だ。記憶が無いお前に丁度いいだろ? 最近のは書かれてないから、そこは俺が色々端折りながら教えてやるよ」
「……本なんだ……これ……」
受け取り、今度は重さを実感する。ますます鈍器にしか思えないが、パラパラと捲れば、それが本だと認識させてくれた。
「この重さだからな、旅に出る時までに読破しておくといい。世界を見たいっていう奴が、歴史を知らないというのは、ちょっと恥ずかしいしな」
オウセイは椅子に座り直し、食事を再開させる。
「そうですね、確かに恥ずかしいかも」
ケセナもオウセイにまったく同意見で、歴史は認知しておくべき項目だと思う。
記憶の封印を行った代償か、それまで培ってきた筈の知識も欠落してしまっているケセナには、分厚さはともかく、必要な物だろう。
読み終わるまで旅に出れないと思うと、少々憂鬱ではあるが。
「それから、これが一番重要だ。一度しか言わない」
オウセイが真剣な顔つきで、真っ直ぐにケセナの眼を射ぬき言葉を紡ぐ。
ケセナは固唾を飲み、同様に真っ直ぐオウセイを見つめ、その先の言葉を待つ。
「記憶の封印を解きたくなったら、ここに来い」
「……え?」
「理由次第で、解いてやる」
それは、記憶の封印の解き方、だった。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。




