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「ファルイーア……」
呼びかけても、虚ろな紅い瞳がグレンを見ることはない。金髪の少年は、何時もその瞳に何も映してはいなかった。何時、如何なるときも、終戦へと導いたあの日、母と呼ばれる女性を、応龍族を裏切った皇妃を討った瞬間でも、少年は、ファルイーアは涙を流すことなく、ただ虚ろな瞳で立っていただけだった。ファルイーアという小さな少年は、そう言う少年だった。感情を一切見せず、言葉も発しない。
けれど、グレンは知っている。
この小さな少年が、本当は感情豊かな少年であり、良く笑う少年であったこと。そして、グレンにだけは、感情を見せていたことを。つまるところファルイーアにとって、唯一信頼し得る人物はグレンのみだったのだ。
しかしそんなファルイーアを裏切ったのは、グレン自身だった。皇帝勅命により彼の傍を離れ、戦時には騎士団の士気を落とさないために、グレンはファルイーアに冷徹に接するしか他なかった。近づくな、と、部下の手前、言うしかなかった。
それからだ。彼が、感情を失ったのは。奇異の目に晒され、陰口、時には聞こえるように浴びせられる罵声が、彼を取り巻くすべてだったのだから、仕方のないことなのかもしれないけれど。
「ファル」
もう一度、唇を噛みしめた後にグレンは彼の名を口にする。かつて彼を呼んでいたように、優しく。柔らかに。
ファルイーアは少しだけ顔を上げる。
「……」
何かをファルイーアが呟くが、声にはなっていなかった。口だけ動かし、そして噤む。グレンはそんなファルイーアに近づいて行き、手を伸ばした。昔のように、抱きしめようとするのだけれど。
ファルイーアは身体を震わせ目を瞑り、自分自身を抱く腕に力を籠めた。
「ファル?」
人に触られることを極端に怖がる、と誰かが言っていたことを思い出し、グレンは手を下げた。言っていたのはキリエだったか、それともキョウだったか。思い出せないままグレンは首を傾げファルイーアの様子を眺めた。
「僕は、記憶を封印しました。生きるためにはこれしかなかった。僕は、自分を捨てたんです」
それが、久々に聞くファルイーアの声だった。掠れて震えるか細い声は、グレンの知る彼の声とは異なっていて戸惑う。
「……え?」
「僕の過去を見たければ、ご自由に。僕は拒否権を持ちません。従うだけです」
楕円状に浮かぶ森を指差し、しっかりとした意思を示すファルイーアに、グレンは驚く。幾ら心の中といえど、ファルイーアが自分の意見をその口で言うことなど、ないと思っていた。
「それから、グレンさん。僕の記憶を知れば、貴方も……」
ファルイーアは言葉を切る。そうして、唾を飲み込んで、しっかりと顔を上げた。虚ろだった紅い瞳が、光を帯びる。
「……世界を、敵に回すことになる」
「どういうことだ?」
「封印した僕の記憶は、他の誰にも知られてはいけない嘘偽と真実を含む。だから、知れば貴方は、世界の敵となる、そういうことです」
ファルイーアはそう言って歩き出し、グレンの横を通り抜けていく。自ら、楕円状の光に向かって、歩く後姿を、グレンは追った。
そうして、二人は森へと足を踏み入れると、暗闇は消え、荘厳な森が広がった。周囲を見回すグレンに対し、ファルイーアはただ一点だけを見つめて歩く。
ここは、ケセナとして旅立った地である。懐かしい小さな家が見えてくると、ファルイーアは足を止めた。
「オウセイさん……」
庭で寛ぐ蒼髪の男を発見し呟いた。蒼髪の男――――……オウセイは、庭にごろんと寝転び空を仰いでいた。すると、ファルイーアとグレンの背後から人物が擦り抜ける。
「うわっ」
ぶつかることなどないのは分かっていたにも関わらず、グレンは驚いて声を上げる。過去を見ているだけに過ぎないファルイーアとグレンは、彼らには見えてはいないのだから、擦り抜けられても当然なのだが。
「オウセイ様ッ!」
擦り抜けた人物は、長い膝まである黒髪を首の後ろで一つに縛り揺らしながら、オウセイに近づいて行く。何かを抱いているように見え、ファルイーアは目を反らした。
「無事か?」
オウセイが起き上がる。
「朦朧としておりますが、なんとか無事です」
キリエが、腕の中のものを抱き直す。そうして、ほっとした表情をしたオウセイが、ふんわりと笑顔を作り、キリエの抱くものに手を伸ばし触る。
グレンはキリエが抱くものが『何か』を悟った。キリエが抱き直した際に、金髪が風に流れたからだ。抱かれているのはファルイーアだ。横にいるファルイーアに視線を送れば、ファルイーアはその情景を見ようとはせず、目を伏せている。
目の前で過去の出来事が、続いていく。
「そうか。ファル、聞こえるか?」
オウセイは、キリエの腕の中のファルイーアに話しかける。グレンとファルイーアがいる場所からは、キリエに抱かれたファルイーアの表情を見ることはできない。けれど、何か反応をしたのか、オウセイは顔を上げ、キリエに指示を出した。
「すぐに部屋へ。それから、召喚術を行う。準備を」
「はい」
キリエはファルイーアを抱いたままパタパタと家へと入って行った。
そこで、その映像が途切れた。
周囲がまた暗闇に戻り、グレンは思わず見回してしまうが、隣に立つファルイーアは黙ったままだった。
「どういうことだ」
「……どうもこうも、死にかけの僕を、オウセイさんとキリエさんが助けたんですよ」
「死にかけ……?」
「もう少し遡りましょうか」
グレンの問い掛けに答えず、ファルイーアは歩き出す。暗闇を一直線に、先にある筈の、記憶に向かい、表情も変えずに。グレンは慌ててそんなファルイーアを追った。
行先は、ファルイーアが知っているようだった。迷いもなく歩いている。
グレンは確信していた。これから行く少し遡るという記憶は、ファルイーアの中で、一番重い出来事だ。だから迷いなく行ける。それほどまでに重要な、記憶であり過去なのだ。
人の記憶の容量は限られている。
故にその人物にとって、強く印象に残る記憶が、より大きなものとなって残る。心の中とはそういうものだ。
けれど……。
ファルイーアはその過去に辿り着かなければいい、と思ってた。なにより、自分が見たくなかった。
知られてはいけない、嘘偽がそこに、あるから――――…………。
「!! リュウショウ!!」
突然、目の前が開け、グレンの目にある人物が飛び込んだ。彼は、短髪の金髪で、ファルイーアと同じ紅い瞳をしている。つまり、応龍であり、皇帝直系……いや、皇帝その人だ。
グレンが守護を誓った人物であり、無二の親友。それが、今、目の前に立っていた。近付こうとすると、リュウショウが言う。
「呼び出して済まなかったな、二人とも」
見えている筈がないのに、グレンはびくりと身体を揺らす。まるで自分がここに来たことを知っているかのようなリュウショウの言葉に、顔も綻ぶ。けれど、背後から声が上がり、グレンは我に返った。
「本当ですよ、父上。一体何事ですか。しかもこんな、化け物まで呼んでいるなんて」
「……」
振り向けば、そこには皇太子でありリュウショウの息子と、ファルイーアが立っていた。
「フィサルーア様……」
斜に構えたような態度の皇太子――――……フィサルーア・ク・フェスカ。もちろん金髪の紅い瞳を持つ皇帝直系応龍族だ。小さな頃から悪戯が大好きで、グレンも何度も窮地に陥った。フィサルーアは何時もの皮肉気な表情でファルイーアを見下ろし口を尖らせている。
なにしろフィサルーアはファルイーアを一番卑下し、悍ましいといった態度を取る。こうして二人並んでいることすら、珍しいことなのだ。
「大事な話があるからだよ。二人にね」
「私は兎も角、この異端にもですか?」
「フィア」
そんなフィサルーアをリュウショウは咎めた。フィサルーアは眉を顰めて明後日の方向を向く。一方、ファルイーアは動じることなく俯いたまま立っており、グレンはその表情を確かめるべく、腰をかがめ覗く。
「なにしてるんですか……」
そんなグレンにファルイーアは呆れて声をかけるが、グレンはそれを無視する。矢張り、ファルイーアは虚ろな瞳で一点を見つめていた。感情は、一切ない。グレンが身体を起こすと、溜息をついたリュウショウが言葉を続けていた。
「フィア、そしてファル。これから先、時代は動く。我ら応龍は世界との関わりを失った。そして『皇族』『皇帝』という座も失うだろう。私は『評議会』を提案し、自ら地位を退く決断をしたのは、そう言った理由だ」
「私は納得できません」
明後日の方向を見ていたフィサルーアが、キッと目を吊り上げて言う。
「フィア。無理にでも納得するしかないんだよ。この戦いによって、我らが代々守護してきた結界は失われたのだから」
「そんなの、関係ないじゃないですか。父上は皇帝であり、応龍は、この地の支配者足り得る者ですよ」
「いいや、私をはじめ、応龍族はただ、世界に『力に縛られていただけ』に過ぎない。フィア、お前も。そして、ファル。お前も」
「……」
そこで、ファルイーアは顔を上げた。だが、すぐに視線を下してしまう。目は虚ろで無表情のままではあったが、リュウショウはそんな小さなファルイーアの反応を見逃さなかった。それはファルイーアの『了承』の合図だ、と解釈する。
しかし、フィサルーアが声を上げた。
「待ってください。私や他の応龍族達はそうでしょう。しかし、この化け物は応龍ではありません。どうしてこの化け物もなんですか!」
フィサルーアが納得してない部分は、ファルイーアも含まれていることだった。強い口調で反発するフィサルーアに、リュウショウは静かに応える。
「フィサルーア。良く聞きなさい。ファルは、『正統なる皇位後継者』なんだよ」
フィサルーアのみならず、その言葉を聞いたグレンも、そして過去のファルイーアも、リュウショウが何を言ったのか理解できず、困惑し硬直する。
「正統……皇位後継者……?」
グレンの呟きを聞き、ファルイーアは目を瞑る。そうして、自分の両耳を、両手で塞ぎ蹲った。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。