■5■
食事を終え、ケセナは部屋へと入った。部屋は小さく、ベッドと小さなテーブルと椅子が置いてあるだけだったけれど、兎に角、快適である。掛け布団などは古めかしいものではあるが、野宿の辛さから解放されるのであれば、それらがあるだけで天国のように幸せだ。
ケセナは早々に寝ようと、部屋にあるシャワーを浴び、一緒に衣服も洗った。土埃で汚れた身体も服も、すっきりして気分が少し晴れた。部屋には衣服を乾す場所がないので、とりあえず、と椅子に掛ける。乾くといいな、と思いながら背伸びをした後、ベッドに仰向けになるけれど。なぜか眠気が来ず、逆に目が冴えてしまっていた。眉間の皺を濃くさせ、嘆息を漏らす。
ガイアとキョウは、「ファルイーア・ク・フェスカを助けてやって欲しい」と言ってから以降、食堂の仕事が忙しいということもあり、ケセナに近付いてくる様子はなかった。ともあれ、食事をしつつ眺めた、仮にも族長という立場の人間がウェイターをしている姿は、とても新鮮だった。
ケセナはごろん、と寝返りを打つ。横を見ると、テーブルの上に置いた球体が目に飛び込む。眠れないのならプラークルウを話し相手にしようと考えて、寝ころんだままテーブルに右手を伸ばす。球体を取ろうとするが、中々テーブルに届かない。
今の自分の姿は滑稽だと気付きつつも、ケセナは身体を起こすことはせず、右手だけを伸ばした。起きて取ればいいだけなのだ、その方が断然早いのは分かっていた。だが、身体を起こすのが面倒で、何かの罰ゲームのように必死になる。そうして、やっとテーブルに指が引っ掛かると、さらに千切れんばかりに右手と指全体を伸ばす。
「も、う、少し―――――……!」
こんなに必死になる必要があるのかという疑問は、自分の中で霧散させながら、引っ掛かった指を徐々に球体に近付ける。身体はすでに、ベッドから半分以上飛び出していた。球体に指が触れる。転がって来た球体を掴み、笑顔になる。
「取れ……た……わっ!?」
どすん、とベッドから落下した。しかも、顎から。
衝撃で何が起こったか分からず放心するけれど、顎の痛みで我に返り、顎を擦る。とりあえず血が流れていないことを確認して、のそのそとベッドの上に戻った。誰も見てはいないが、気恥ずかしい。恐らく下の階の人間は、上を見上げたに違いない。
気を取り直して、小さく、本当に小さく、球体に声を掛ける。
「プラウ」
球体は小さな魔方陣を出現させ、その上に小さなプラークルウが姿を現した。いつものサイズではなく、手乗りサイズのプラークルウは、何かを怖がるように周囲を見回した。
「あの赤い人、もういませんか?」
赤い人、つまり髪も目も赤いガイアのことだろうけれど、ケセナは球体をベッドの上の枕元に置きながら、聞き直した。
「ガイア族長のこと?」
こくりとプラウは頷いて、疑問符を浮かべる。信じられないという表情に変化していくと、顔を左右に振りながら、いつもの毒舌を披露し始めた。
「族長? 今、族長なの? あれが? うわ、朱雀族終了のお知らせです」
なにやらガイアのことを知っている口振りのプラークルウに、ケセナは困惑しながら質問する。
「……えっと……ガイア族長を知っているの?」
「はい。存じてます。その時は、族長なんかやってなかったですよ……暴れん坊なただの馬鹿だったんですけど」
愚痴る言葉は、敢えて無視しよう、ケセナはそう心に決める。プラークルウは主と認めた人間以外に対し、辛辣な言葉で数々の愚痴や悪口を言う癖がある。それも元主に対してもだから、手に負えない。初めて会ったときも、初代の主でもあるオウセイと言い合いをしていたし、この旅をしていて、前の主たる応龍皇帝陛下のことも、その前の皇帝のことも、勿論、オウセイのことも、数え切れないほど言い放っていた。きっと今後、自分も言われるんだろうと想像しながら、ケセナは溜息をついた。
プラークルウのこれは始まったらなかなか終わらない。いつも聞いてるだけを徹底しているケセナは半眼でプラークルウを見る。しかし、プラークルウは項垂れて口を噤んだ。拍子抜けし、首を傾げる。
「プラウ?」
「私、あの人に気づかれましたよね」
「うん。しっかりと見ていたみたい」
「やっぱり……」
しかめっ面のプラークルウは、肩を落とした。
「ごめんなさい、ケセナ様。もう少し早く見られていることに気づいていれば。あの、疑われませんでしたか?」
「たぶん、盛大に疑われてる」
「……っ!」
プラークルウは、反射的に顔を上げ、くしゃりと顔を歪ませる。涙目でケセナの顔面に飛び込むと、ケセナの鼻にしがみ付き、「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も呟いていた。
「プラウの所為じゃないよ。そもそも俺の不注意だよ。プラウは、見つからないように隠れてくれたじゃないか。まぁ、見られてたから、ちょっと遅かったけど」
「……ごめんなさい、ケセナ様」
ケセナは、プラークルウがしゅんと萎れてケセナの鼻から離れ、ふわりと飛んで行く後姿を目で追いながら、身体を起こした。テーブルに着地したプラークルウは、くるりとケセナの方向を向くと、すとんと座る。
「もう、大丈夫だから。元気出して」
そう元気付けるけれど、プラークルウは俯いたままだった。溜息をついて、ケセナは聞きたいことが一つだけあることを思い出す。そうして、ケセナは切り出した。
「それより、聞きたいことがあるんだけど」
「? なんでしょう?」
「ファルイーアの魔力の源は、オウセイの力ってどういう意味?」
「!!」
プラークルウの金色の瞳が見開いた。驚愕して声も出せないのか、わなわなと震えている。ケセナは、それでも念を押す。
「知っていたら、教えて欲しいんだけど」
「……誰から、それを……?」
やっとの思いでプラークルウは言葉を発していた。脂汗が額を流れた。ケセナに、教えてはいけない、と全身が警告を発している。
「ちょっと、聞いたんだ。ガイア族長とキョウさんが言い合ってるときに」
「……あの二人……」
ガイアとキョウの二人に対して、怒りが込み上げる。プラークルウは左手に拳を作り強く握ると、自分の顔の前でそれを震わした。
ファルイーアは記憶を封印して『ケセナ』として生きることを選んだ。
いないのだ。どこにも。ファルイーアは、どこにもいない。『ケセナ』は『ファルイーア』を知ってはならない。知れば、記憶を欲するだろう。この人は、そういう人だと、プラークルウは思う。
この一年、ケセナと共に旅をして来て実感している。記憶を封印していても、『ケセナ』は『ファルイーア』だったからだ。
何時も人の為に、自分だけを犠牲にする、あの『ファルイーア』だった――――――……。
ファルイーアを主に選んだのは、彼を助けたかったからだ。しがらみに捕らえられ身動きが取れない筈なのに、彼は何時も無茶ばかりしていた。だから、自分が助けなければ、と思った。
けれどファルイーアはいなくなった。そして、ケセナになった。『ケセナ』は、とても幸せそうに笑ったり怒ったりする。ファルイーアでは得られなかった感情を、彼は持っていた。プラークルウは、彼の幸せを壊したくないと、心から願った。
「プラウ?」
「ダメです」
プラークルウは、しっかりとケセナを見据え、拒否をした。
「どうして?」
「これだけは、口が裂けても言えません! ダメなんです!」
「プラウ!」
プラークルウは枕元の球体に消えた。ケセナの要望に拒否をするのは、これが初めてで、ケセナは戸惑いつつ、枕元の球体に右手を伸ばして持ち上げ、眺める。キラキラと光る球体は、とても綺麗だ。球体を眺めながら、ケセナは身体をベッドに沈め、力を抜く。球体がころり、と右手から転がり落ち、床に落ちた。
けれど、ケセナは気にせず瞼を閉じる。
真相をプラークルウは知っていると確信するけれど、彼女の口から聞くことはできないと、ケセナは判断した。ならば、忘れようとも思うが、どうにも忘れることなどできそうになかった。
ファルイーアの魔力の源は、オウセイの力。
その言葉は、ケセナの頭から離れない。ガイアに聞けば分かるだろうかと思い、慌ててケセナはそれを掻き消す。そんなことを尋ねれば、自分がファルイーアであることも、応龍族であることも露呈されてしまう。折角隠したのに。それだけは、避けねばならない。
「……封印した記憶の中に、あるのかな」
ふと、考えてしまう。
自分が封印した記憶の中には、真相も、真実も全てがある。だが、自分が消したいと言った記憶でもある。真っ新な白い状態で、世界を見て歩くこと、そして生きること、それがケセナの望みだ。それは一年前から変わらない。
変わらないけれど、ファルイーアという人物を知りたいとケセナは思った。自分であり、自分ではないファルイーア。どんな人物だったのだろう。
『皇帝直系応龍族』であり、戦争を終結させた者。キョウの想い人でもある。金髪の紅い瞳で、女性のような細い身体をしていて、背が小さい。そして、オウセイとキリエに生きて欲しいと願われた者。そのオウセイを、殺せる力を持つ者でもあり……魔力の源がオウセイの力である者。
それがケセナの知るファルイーアだった。
「……封印を解けば、応龍狩り……か……」
『応龍族』を思い出したとき、真っ先に出てくるのが応龍狩りだった。今度は興味よりも恐怖が勝る。ケセナは身震いし、頭を振った。
「……もし二人が、俺が『応龍族』であるって気づいていたら……」
キョウは自分がファルイーアだ、と断言していた。顔形でというのもあるかもしれないが、ファルイーアを良く知る彼女が判断したのなら、ガイアはどう思ったのだろう。『応龍族』は戦犯じゃないと言ったガイアの言葉は、本当なのだろうか? ガイアは評議会の一員だ。もし、自分を安心させるための、虚偽だとしたら?
途端、ケセナは戦慄を覚えた。
ここでのほほんと寝ていてはならないと、慌ててまだ濡れている衣服を着込む。気づかれていれば、今夜にでも襲われる。恐怖が、ケセナの全身を支配していた。
押しつぶされそうな感情は初めてだった。狼狽えながらケセナは、部屋を出る。
『ファルイーア』を深く知る者に出会ってしまった所為か、さらには疑われたからか、若しくは行き過ぎのケセナの思考の所為か――――……ケセナには分からなかった。ケセナは、冷静に判断することができなくなっていた。
そうして、ケセナはガイアの家からも飛び出し、暗闇に消えていく。
プラークルウと荷物を変化させた球体を、部屋の床に残したまま。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。