■1■
彼は、ぼんやりと天井を見つめた。
なんてことはない木板のありふれた天井だが、少しだけ奇妙な違和感を感じたからだ。
その違和感を拭うため瞬きを数回行う。
けれど、違和感は拭えなかった。
それが何なのかどうしても分からず、もどかしさを覚えながら、のそのそと身体を起こし、頭をぽりぽりと掻く。
「なんだろう……」
ふと、顔を上げると、窓ガラスに自分の姿が写るのが見え、視線を向けた。そうして、彼は眉を顰めた。
「あれ? 俺、こんな顔だったかな」
どうにも自分とは思えず、窓ガラスを凝視したまま立ち上がり近づいて、まじまじと細部を観察する。
年齢は二十歳そこそこだろうか。長い腰まである金髪と紅い瞳が特徴で、中性的な顔つきは一見すると女性のようだけれど、何より線が細い。
いや、線が細いという表現よりも、病的に身体が細いと言った方がいいのかもしれない。なぜこんなに身体が細いのか思い出せないが。
彼は、ぱちん、と右手で右頬を叩いてみた。
「いてッ」
音だけで大して痛くはないのだが、反射的に呟き、再度、ガラスに映る自分を見れば、今、自分がしている表情と同じ、苦笑いの人物が映し出されている。その後もおどけたポーズをしてみたり、笑みを浮かべてみたり、果ては頬を抓ってみたりするけれど。
当然ながら、窓ガラスに映る姿は同様に動き、彼はそこでやっと『それが自分だ』と自覚していった。
そうして彼は、そうか、と小さく呟いた。
自嘲気味に笑い窓に背を向け、凭れ掛かる。
「俺は……忘れたんだ、全部」
単なる記憶の欠落――――……つまり、記憶喪失の類ではなく、自らが望み、自らの意思で、記憶を“封印”したのだ。
「俺は、生きる。そして、この世界を旅して、色んな物を見るんだ」
彼は、それだけはしっかりと覚えていた。
“封印”された記憶になにがあるのかは分からないけれど、そうすることで、また違う世界が見れる筈だと固く信じている。
今まで見えてこなかった、何かが、だ。
起き抜けに感じた違和感は、記憶が無くなっていたからだったのだろう。昨日まで蓄積された記憶が欠落しているのだから仕方のないことなのかもしれない、とやや強引に結論付ける。
今、彼にとっての真実は、生きたい、旅をしたい、と願ったことだけだ。
彼は凭れ掛かった身体をしっかりと立ち上げて前を見据え、足を一歩、この先に進む未来に行くように踏み出し、部屋を出る為にドアへ向かう。
世界は、どんな景色なのか。
早まる鼓動を抑えるために、ゆっくりとした動作で深呼吸をしながら、地に足をつけている感覚を全身に覚えさせるように歩む。
「よし」
勢いをつけ、ドアノブに手をかけようとしたときだった。
まだ触ってもいないドアノブがガチャリと音を立てて回る。
驚いて固まったまま見ていると、ドアが開いて行く。見上げれば、蒼髪の男が立っていた。白いシャツのボタンを上から二つだけを外し、少し大きめのズボンというスタイルの、かなりラフな格好をした蒼髪の男は、年齢差はあまりないようだが、身長差は相当あった。実際は、彼の身長が平均よりも低いだけなのだが。
蒼髪の男は、驚いた表情を隠さずに、髪よりも深い瑠璃色の瞳で、彼を見下ろした。蒼髪と金髪が風に揺れ、一瞬の間ができた後、口を開く。
「起きていたのか」
「……えっと」
あまりに突然のことで、右腕を伸ばしたままのポーズで彼が戸惑っていると、男は嘆息を漏らす。
「ああ、そうか。“ハジメマシテ”。俺はオウセイ・カイラーヌだ」
「ええと……オウセイ……さん?」
やっと右腕を引っ込めて、今度は首を傾げる。
失われた記憶の中から目の前の人物の名前を探そうとするが、当たり前だが、思い当たらない。この男をなんと呼んでいたのだろうと考え困惑する彼を他所に、オウセイは言葉を続けた。
「オウセイでいい」
「あ、はい。えっと……」
「昨日のことは覚えているか?」
昨日のこと。
それは彼が記憶を封印したこと、を指すのか。それとも、昨日の起床から就寝までの【全ての事柄】なのか。いまいち把握しきれず、やや暫く彼は悩む。
「……全く、覚えていません」
左右に首を振って言えば、オウセイは、ポンッと彼の頭に手を乗せて来た。
思わず目を瞬かせながら彼はオウセイの腕を見つめ、優しく暖かいその手に安心感を覚える。ふんわりとした笑みを浮かべるこのオウセイと名乗った蒼髪の青年は、きっと記憶を無くす前も尊敬していた人物なのだろう、と忘れたことを少々後悔する。
「それならいい」
オウセイは手を彼の頭から離し、くるりと背を向けた。
何処かに行ってしまう――――……そんな気がして、彼は慌ててオウセイを引き止める。
「あのっ」
とは言え、どうすればいいの分からず、その先の言葉が出てこなかったけれど。
「朝飯。食うだろ」
「あ。」
彼のお腹が、ぎゅぅと鳴ったのは、彼の間抜けた返事とほぼ、同時だった。顔を真っ赤にし、お腹を押さえた彼を、オウセイは肩を揺らして笑う。
おまけに涙まで出ていたのか、目元を拭きつつ、それでも収まらない笑いを堪えながら言った。
「正直だな」
「す、すみません…ッ!」
二人はそうして、リビングに向かった。
貴重なお時間をいただきお読みくださいまして、ありがとうございました。