プロローグ
西の帝国ドルネイとその北に位置するネイアノールとの国境付近。
二つの国の国境には互いの侵入を拒むように巨大な山脈が連なり、鬱蒼とした森が広がっている。
生茂った木々は皆空に向かって真っ直ぐ伸び、月はおろか太陽の光さえ拒まんがごとく葉を重ね合い、森の中は一片の光もない。
そんな暗闇が支配する森の中、風が木の葉を揺らす音に紛れて馬が颯爽と駆ける。
三頭の馬が走るその数メートル先には光の球体の様なものが浮遊し、木々の間をぬって右に左に馬を誘導していた。
「遅い!」
真ん中を走っていた女騎手が遅れつつある後方の馬に向かって甲高い声で叫ぶ。
後方の馬に乗っている騎手は闇夜で馬を操ることで神経を使い、声ひとつ上げることが出来なかった。
その後ろには、まだ数百メートルは離れているが、物音ひとつ立てず無数の光が追いかけてくる。
後方の騎手との距離が広がる一方で、追っ手の追随がすぐそばまで来ていることに女は舌打ちをし、前方を走る騎手の背中に向かって声を振り絞る。
「これでは追いつかれます!」
女が叫んだ先を走っていたのは見事な黒馬に乗った男だ。
女の上官である男は速度を落とし、女の馬の横にピタリとつける。
深くかぶっているフードから覗く男の鋭い瞳に女は緊張が増した。
「あとどれくらいだ」
「もってあと十分。あの馬鹿の体力次第では五分で追いつかれるかもしれません」
男は遥か後方を必死になって走る騎手を見遣り、女に視線を戻した。
「二手に分かれるぞ」
男の決断は早かった。
このまま走って十分で追いつかれるくらいなら二手に分かれ、追っ手を分散、攪乱できるだろうと思っての判断だった。
窮地において迅速な決断を下せる指揮官ほど頼もしいものはない。
女は焦っていた心を静め、男の命に応じた。
「では私は共に」
女は上官である男を守るために当然のことと思ってそう申し出たが、男は片腕を横に突出し、女の馬を制す。
「お前はあいつと別のルートを探れ」
「しかし…」
男が指したのは更に距離があきつつあった後方の男だった。
女は後方の男を気にかける様子はあるものの、上官である男と天秤に比べればその結果は明らか。
忠誠心の塊のような女だからこそ、すぐには男の命に従えずにいた。
「あいつ等の標的は俺だ。見つかったからにはどこまででも追いかけてくることはお前でも分かるだろう」
女は三百メートルほどまでに迫ってきた追っ手を振り返ってごくりと唾を飲み込む。
「いくらお前でもあれだけの数は相手にできまい。俺たちの目的はここであいつらと一戦交えることではないことを忘れるな」
「…分かりました」
女は喉元まで出かかった言葉を飲み込み、男の命令に従った。
「では明日の夕刻、ドルネイの首都モリアの鐘つき聖堂で落ち合いましょう」
「あぁ」
「ご武運を」
馬の道標をしていた光の球体が一方は男のもとへ、もう一方は女のもとへ分かれる。
部下二人と別れた後、男の予想通り追手のほとんどは男を追いかけてきた。
速度を調整しながら走っていた男は馬を巧みに操りながら光の球体を追いかけて駆ける。
しかし、相手は実態を持たない影のようなものだ。
木々を何の障害ともなっていない追手から逃げ切るのは難しく、このままではいずれ追いつかれる。
いっそ目印となっているこの光の球体を消して息をひそめようかとも考えたが、それこそ命取りとなるだろうと回転の速い頭は即座にそれを廃した。
このまま逃げ切る他ない。
男がそう思って手綱を握りしめた時だった。
「ノーランドッ!」
女の悲痛な叫びが遠くの方から聞こえた。
まさかもう追いついたのかとほぼ並行線上を走る部下たちの方向を見た瞬間、薄い羽衣の様な光の帯があっという間に馬ごと二人を襲った。
息をつく暇もなくそれに飲み込まれた二人は、無数の追っ手に体の自由を奪われる。
「クソッ…」
男には迷っている暇はなかった。
悪態をついた男は右腕に巻かれた包帯の様な布を口に含み器用に解く。
そして次の瞬間、全ての光はその灯を喪った――――