【幕間】妹の死、兄の結論。最善の選択、狂った思考
花火が一つ打ち上がり、上空で大輪を咲かせる。遅れて、どぉん、という音が、琴音の生体情報モニタの発する規則的な機械音と共に、病室で反響した。
清次郎は花火について思う。
……大きな音だ。
しかし、小さな音である。
昔日の花火は、もっと、腹の底まで響く程大きな音だったと彼は思い出す。それがこんなにも小さく聞こえてしまうのは、単なる遠近の問題ではないだろう。
病院の一室。もう中三になった清次郎はそこで一人、花火を見ていた。
ちらりと清次郎は、ベッドで横になっている琴音を見やる。彼女は花火を「兄の人と一緒に見ます」と言っていたが、今はすっかり寝入っていた。
……琴音。
普通に学校に通えていたのなら、小学六年生になっていただろう。平凡で、平和な日常を遅れていただろう。それが、何がどうしてこうなったのだろうか。
眠る琴音に、清次郎は漠然とした、霧のような不安を抱いていた。
最近の琴音は、よく眠る。それこそ、死んだかのように。
普段の彼であれば、花火となれば琴音を起こしただろう。しかし彼は、妹の笑顔に覆い隠されていたその現実を、察していた。だから、起こせなかったのだ。
ぼんやりと眠る琴音を見ていると、急に不安の霧がごうごうと音を立てて集まり、凝縮され、形となった。
不安は言う。「そいつ、もう死んでるかもな」、と。
「…………っ」
弾かれるように、彼は動いた。
琴音の腕を取り、脈を測る。琴音の顔の前に手のひらをかざし、呼吸を確認する。
まだ脈はある。まだ呼吸もある。
まだ、生きている。
は、と安堵の溜息をつくと、彼の背筋からどっと冷汗が吹き出てきた。
……馬鹿だな、俺は。
機械の音と花火の音に加え、低く渇いた彼の笑い声が、病室内で反響する。
よく見れば、寝入る彼女にかけられた布団は静かに、規則的に上下している。よく聞けば、彼女の寝息が聞こえてくる。彼女が生きているのは、火を見るより明らかだった。
……慌てて脈を測って、呼吸を確かめて……。
清次郎は苦笑する。一瞬でも、寝入る琴音を「死んだのではないか」と思ってしまった自分が愚かしい。小心もここまで来れば、いっそ滑稽ですらあった。
しかし、彼には琴音がまだ生きていると実感できた。できたのだ。今の彼にとって、その確信と安心は他の何物よりも価値がある。
顔にかざしていた手は、まだそのままだ。琴音の寝息が、清次郎の手の平を撫でる。兄は、自分の胸を突き上げる愛おしさのままに、その手で妹の頭を撫でてやった。
一際、大きな爆音が響く。
若干の驚きと共に外を見やると、ちょうど、他より輪をかけて大きな花火が散るところだった。花火大会の締めを飾る、三尺玉である。
「ん、ぅ…………」
花火の音のせいか、琴音が起きてしまった。
「花火……」
彼女は上半身だけ起こし、寝ぼけ眼のまま外を見る。だが、そこにはただ、祭りの後の暗闇が見えるのみだ。
「花火大会は、もう終わったよ」
「終わ……った?」
ぱちりと琴音の目が見開かれ、彼女は一気に覚醒する。
「そん、な……」
じわり、と琴音の目に涙が溜まる。その目は、信じられない、と外界の虚空で何かを探す。
遂に、琴音は泣き出した。
「すみま、せん……。わた、私、兄の人との約束、を……っ!」
手で顔を覆い、嗚咽混じりに琴音は謝る。
花火を見れなかったショック。そして、兄との約束を守れなかったことに対する自己嫌悪。それらが今、気丈な彼女を――入院してから今まで、一度も泣かなかった程に気丈だった彼女を――泣かせてしまう程に、責め立てている。
普段の清次郎なら、琴音の涙を見ただけで戸惑っていただろう。しかし、琴音の内側を十二分に理解していた彼は、そうはならなかった。
兄は、両腕で抱き込むように、妹の頭を自分の胸に引き寄せた。
「いいんだ」
妹の頭を撫で、囁くように彼は言う。
「いいんだ。別に、このくらい」
「でも、でも……」
「いいや。いいんだよ、琴音」
反駁する琴音に彼は、彼女が今、一番望むものを与えた。そうすることで、少しでも早く琴音が泣き止み、また笑顔をみせてくれるようになることを願って。
「そうだ。琴音、約束をしよう」
肩を掴み、清次郎は琴音と対面する。
「約束、ですか……?」
まだ溢れてくる涙を拭いながら、琴音は尋ね返す。嗚咽は、さっきよりも大分落ち着いてきている。
「ああ。来年、また俺と一緒に花火を見よう」
「……また、私だけ寝てしまうかもしれませんよ?」
「その時は起こしてやる。だから、約束だ」
昔よくしたように、兄は小指を差し出す。
「約束だ。来年、また俺と一緒に花火を見よう」
「……はい。約束です。また、来年」
妹は、それを自分の小指と絡める。
ぱっ、とここにも一つ、綺麗な花が咲いた。
●
この時、清次郎は彼の考えうる限りの最善の選択をした。
しかし、後になってから、彼は軽はずみに約束をしたことを悔いた。
●
ピー、と、長い機械音が病室の静寂を突き抜ける。琴音の生体情報モニタの発する音だ。
モニタを見ると、平坦な、緑の線がそこには映っていた。清次郎には、その音がやけに虚しく、非現実的に聞こえた。
遅れて、誰かの泣き声が聞こえくる。家族や医者達が言うべきことや、思い思いの言葉を口にしていた。
「…………」
清次郎も、何かを言おうする。しかし、舌はもつれ、口の中も砂漠のように乾いていて、なかなか上手く言葉にできない。いや、そもそも頭の中が真っ白で、彼は何を言うべきなのかわからなかった。
「嘘、だろう?」
やっと口にできたのは、誰に向けたものでもない問いだ。無論、答えは返って来ない。雑多な音が部屋を満たしていたが、震えた声音であるはずの清次郎の問いだけが妙によく通り、しかし虚しく散った。
「まだ来年の花火大会、見てないんだぞ……」
彼は覚束ない足取りでベッドに歩み寄る。
愛妹の顔を見る。一見、眠っているようにしか見えない。だが、あの花火大会の日に清次郎が確認できた時のように、布団は上下していない。寝息も聞こえない。
琴音は、死んだのだ。
……誰でもいい。誰か、嘘だと言ってくれ。
胸中で呟く。本来なら、それは誰も答えうるはずのないものである。しかし、それに答えたものがいた。
その何かは声もなく答える。
……「ああ、嘘だ。現に今、お前が見るもの全てが非現実的に見えるだろう?」。
清次郎は見る。非現実的な部屋を。非現実的な人々を。非現実的な結果を表す非現実的な装置を。
……「見たか? よし、見たな。いいことを教えてやろう」。
何かは言う。
……「それらは全部、ニセモノだ。ルイジヒンだ」。
「偽物、類似品……?」
我知らず、清次郎は呟く。幸か不幸か、その呟きは誰にも聞こえていないようだった。
……「そうだ。似ているだろう? だがそれは似て非なるもの、類似品だ。オリジナル未満の存在だ。ただのお前の勘違いだ。本物のように見えるだろう? だがそれは偽物だ。オリジナルを騙るものだ。お前を騙そうとする、悪意の塊だ」。
彼は妹の遺体を見る。確かにそれは、彼にとってあまりにも非現実的だ。しかし、彼にはどうしてもこれが偽物や類似品には見えなかった。
清次郎の理性が、残酷な事実を告げる。
……『偽物? 何をバカなことを。認めろ。琴音は死んだ。死んだのだ』。
そう、琴音は死んだのだ。二人の約束も果たせぬまま、この世を去ったのだ。
「約束……」
ぽつりと出た呟きに、彼は花火大会の日を思い出す。
花火を、二人で一緒に見ようと約束した。もし琴音が寝てしまったら、起こすと約束した。
約束を、したのだ。
……なら、まだ琴音は生きていなければならない。
強引な論理。無茶苦茶な因果。しかし彼にとって、それは真理とも言える程のものだった。
……『しかし、現にこうして、琴音は死んでいるではないか』。
その通りであった。琴音は死んでいる。なら、約束は守れない。
……どうして。俺は一体、なんであんな約束をしたのだろう。
清次郎は深く、深く後悔した。
あの時は、ただ琴音に笑って欲しかっただけだった。その短慮、軽率さがこの結果を招いたのだ。
……『約束? あんな口約束、忘れてしまえ』。
理性――彼にとって、既にこれが本当に理性なのかどうかすらあやふやだ――はそう切って捨てる。
……その通り。ああ、全くもってその通りだ。あんな口約束、約束とも呼べない。無効だ。失効だ。
理性がそう考えるなら、そうなんだろう。清次郎がそう思った時、花火大会の日の記憶が、脳裏を掠める。
……俺は今、何をしようとしていたんだ?
清次郎は、急に我に返った。
今、自分は琴音と最後に交わした大切な約束を、口約束だと断じ、なかったことにしようとしていた。
何かが囁く。
……「だから言っているだろう? お前の見てる、その死体は偽物だ。唾棄すべき存在だ。本物はまだ生きている。だから、約束は果たせるのだ」
別の何か――それは既に、理性としての原型すら留めていない――がそれに反駁する。
……『何度も言わせるな。琴音は死んだ。約束は無効だ』
頭の中で、何かが何かと論じ合い、争っている。そんな中、彼は改めて琴音を見た。
それは、彼にとって何よりも現実的で、何よりも非現実な死体である。
……成程、そうか。
突然に、雷鳴のごとく彼の頭にこの問題の解答が閃いた。
……つまり、琴音は生きていて――そして、死んでいるのか。
全くの暴論だ。論理以前の問題である。個体が、互いに矛盾した「状態」を同時に保つのは不可能。どちらか一つでしか無いのだ。
だが、彼はこれでいいと思った。これが最善だと思い、そしてこれによって最善の結果につながるだろうと根拠無く確信した。
こうして彼の中では、琴音は半分生きていて、半分死んだ存在となった。